第陸話 宦官

「そんなところでなにをしているの?」


 侍女の意地悪で木の枝に引っ掛けられた箒を取るべく人生初の木登りに挑戦しようとした琳瑶りんようは、仕事着のスカートをまくろうとしたところで手を止める。

 声が聞こえたほうを振り返ると、黒っぽい官服を着た若い男が琳瑶を見て立っていた。


(男の人……だよね?)


 まっすぐに男を見た琳瑶は不思議な感覚を覚えると同時に、その顔に覚えがあるような気がする。

 すぐにそんなはずはないと気づくのだが、誰かと似ているような気がするのである。


 ここは後宮である。

 女の園である。

 入れる男は皇帝の他は皇族だけ。

 その皇族も、成人すると入宮に皇帝の許可を必要とする場所で、他に男は入れない。

 しかも今、琳瑶の前にいる男は黒っぽい官服を着ているから皇族ではない。

 ということは……


 宦官


 薔薇そうびからもらった手紙には、当然宦官についても書かれていた。

 女の園である後宮に、皇族以外で唯一入れる男であって男ではない男だと。

 琳瑶はまるで謎掛けのようなその一文を何度か読み返したけれど、結局わからないまま先を読み進めてしまいすっかり忘れてしまっていた。

 だが目の前に官服を着た男を見て、「宦官」 という薔薇の達筆が脳裏に浮かんだのである。


 もちろん今までにも、遠目にではあるが何度か宦官の姿を見たことがある。

 だがこんな間近でまじまじと見たことはもちろん、声を聞いたのも初めてである。

 男の顔を見上げたまま考え込んでいる琳瑶を見返す男は、少し照れるように苦笑を浮かべる。


「驚かしてしまったかな?

 その……とりあえずスカートを下ろそうか」


 声を掛けられたのは丁度スカートを握ったところだが、振り返りながら膝小僧が出るあたりまでめくりあげ、そのままの状態で固まっていた琳瑶は、宦官の指摘を受けて慌ててスカートを下ろす。

 すると宦官は少しホッとしたような表情をする。


 背は、琳瑶より高いのは間違いないが、先程の侍女と同じか、あるいは少し高いくらい。

 肩幅もあまりなく、声も、琳瑶がいつも聞いていた父や男性使用人たちよりずっと高く細く聞こえる。

 ひょっとしたら、声だけを聞けば女と聞き間違えるかもしれない。

 そのぐらい高めの声をしている。


「それで、こんなところでなにを……」


 改めて尋ねる宦官は、途中で気がついて顔を上げる。

 そして少し困ったような顔をする。


「どうしてあんなところに箒を?」

「それは……」


 正直に答えてもいいのだろうか?


 考えた琳瑶は口ごもる。

 もし琳瑶が正直に答えたら、あの侍女は誰かから叱られるのだろうか?

 ただ叱られるだけならいいけれど、逆恨みはされたくない。

 だからと言って、あの侍女を庇って琳瑶がふざけて箒を投げたとも言いたくはない。

 そんなことをしたら間違いなく琳瑶が叱られてしまう。


 どちらも嫌


 黙ったまま考え込む琳瑶が第三の抜け道を見つけ出すより早く、庭院にわを隔てる壁の向こう側から声が聞こえてくる。


じょう殿、どちらですか?」


 少し遠く聞こえるのはおそらく壁のせいだろう。

 きっとそんなに遠くではないはず。

 しかもこちらは間違いなく男の声である。


翠琅すいろう様、こちらです!」


 琳瑶の前に立つ宦官が壁に向かってそう声をあげると、ほどなく草を踏みしめる足音とともに洞門どうもんの向こう側から黒っぽい官服を着た宦官が姿を現わす。

 見た感じの年齢は二人とも変わらない……いや、先にいた 「杖殿」 と呼ばれた宦官の方が少し若いかもしれない。

 しかも 「様」 をつけて呼ぶところから、おそらくあとから現われた宦官のほうが上の立場なのだろう。


 しかも翠琅と呼ばれたこの宦官は、肩より少し長い黒髪を下ろし、ゆるく一つに束ねている。

 着ている官服も衿を弛めるなど着崩しており、今まで琳瑶が遠目に見てきた宦官とは少し様子が違っている。


(なんだかだらしない人)


 ついうっかりそんなことを思ってしまう琳瑶だが、もちろん口には出さない。

 年長の下女たちが翠琅というこの宦官を見れば 「色っぽい」 などと言って騒ぎそうなところだが、生憎と琳瑶はまだまだ子どもで色恋には全く無関心。

 だからと言って12歳にして腹芸を修得! ……とも言えず、残念なくらいなにかが顔に出ていた。


「こんなところにいたんですか、探しましたよ」

「申し訳ございません」


 大股にやって来た翠琅という宦官は、まずは杖と呼ばれた宦官に声を掛ける。

 杖は恐縮したように体を小さくして頭を下げる。

 それから翠琅は琳瑶に目を遣る。


「……で、お前はこんなところでなにをしているの?」

「掃除です」


 嘘は吐いていない。

 だからすんなり答えられたけれど、翠琅は整った顔に意地の悪い笑みを浮かべて追及してくる。


「箒も持たずに?」

「それは……」


 言い淀む琳瑶の視線は無意識に木の枝を見上げ、つられるように杖、そして翠琅も木の枝を見上げる。

 そして呆れたように呟く。


「どんな掃除をしたらあんなところに箒が引っ掛かるんだい?

 箒を放り投げて、仕事まで放り投げるつもりか」


 思わず 「違う」 と言い掛けて堪える琳瑶に代わり、杖が 「翠琅様」 と仲裁に入ろうとする。

 すると翠琅は、今度は杖に向かって言う。


「杖殿も、相手がこんな子どもとはいえ、人気のないところで二人きりになるのは慎まれよ」

「申し訳ございません。

 その、侍女殿がこちらからのほうから来るのが珍しかったので、少し気になりまして……」

「侍女が?」


 すると杖が奇妙に思ったように、翠琅も杖の話を奇妙に思ったらしい。

 少しばかり思案してから問いを続ける。


「それはどなたの侍女?」

「あの衣装は、おそらくしん貴人きじんかと……」

「辛……ああ、あの新参の……」


 腕を組むように考え込んだ翠琅は杖を見ていたが、そのうちに再び琳瑶に視線を移す。

 それはさほど長い時間ではなかったけれど、待つ身にとってはどれだけ短くても長く感じられるもの。

 処罰を待つように、翠琅がなにか言い出すのをじっと待っていた琳瑶にはとても長い時間に感じられたが、翠琅の視線が再び杖に戻って肩すかしを食らう。

 だが油断は出来ないと身構えていたが、翠琅はそのまま杖に話し掛ける。


「その話、もう少し詳しく話してもらってもよろしいか?」

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