第弐話 騒々しい朝

琳瑶りんようや、大きくなったら母と暮らしましょう」


 あの日のことは、琳瑶にとって決していい記憶ではない。

 それでも母親のことを思い出すのは嫌ではなかった。

 だからあの日の母の姿を夢に見た朝は、目を覚しても幸せの余韻に浸っていたかった。

 だがこの屋敷には、琳瑶のささやかな幸せをぶち壊す者が、あの三人以外にもいるのである。


「お嬢様、おはようございます!」


 いつものように乱暴に扉が開けられ、侍女の安子あんしが水をたたえたたらいを持って入ってくる。

 その慌ただしい物音で現実に引き戻された琳瑶はゆっくりと目を開くけれど、余韻にしがみつくようにぼんやりと天蓋を眺めている。

 そのあいだも安子のバタバタとした足音や、盥を机に置く乱暴な音が聞こえてくる。

 以前にはその乱暴さで陶器製の盥を落として割ったこともあるのだが、まるで反省のない彼女は今日も水をこぼす勢いで盥を机に置く。


 今は木の盥を使っている琳瑶だが、これは安子に割られないように対策しての物ではない。

 安子自身が陶器製の盥を割った時に、なにを思ったのか、後片付けもそこそこに使い古した木の盥を代わりにして水を汲んで持ってきたのである。

 安子曰く、誰も使っていない盥が丁度いいところにあったからということだが、それも納得出来るくらい古い盥だった。

 さすがに他の使用人が気づいて真新しい木の盥に換えてくれたけれど、安子に反省はなかった。


 割ってしまった盥の代わりをすぐに用意しなければと焦っていたのかもしれないけれど、結局割れた盥の破片を片付けたのも、床に散った水を拭いたのも琳瑶である。

 安子はそのことに気付かないどころか 「木のほうが軽くて楽ぅ~」 とか 「もう落としても割れなぁ~い」 などと言って笑っていたからわざと落として割ったのではないかと思いたくもなる。

 そんな安子だが、解雇くびにならず今も琳瑶の侍女をしている。


「お嬢様ってば、まだお休みですかっ?」

「……おはよう」


 元気な挨拶と言えば聞こえもいいけれど、盥の件でもわかるように、安子はただの粗忽者である。

 今も大きな音を立てて盥を置いた拍子に中の水が盛大に飛び散って机を濡らしたが、やはりいつものように気にする様子もなく寝台の琳瑶を振り返る。

 そうして掛けられた安子の声に、寝台に横たわったままの琳瑶もぼんやりと応えたが安子には聞こえなかったらしい。


「お嬢様、早く起きてください!

 聞こえてますっ?

 朝ですよ!」

「……聞こえてる」


 毎朝のこととはいえ、とにかくうるさい。

 だが言い返せばさらにうるさくなるので文句は心の中に止め、とりあえず返事をしておく。

 決して琳瑶の寝起きが悪いわけではないことは主張したいところだが、相手が安子では無駄である。


「聞こえてるならさっさと起きてくださいよ!

 わたしだって暇じゃないんですから!」


 安子のうるささに閉口した琳瑶がようやくのことで上体を起こして部屋を見回すと、安子は寝台に背中を向けて箪笥の前に屈んでいる。

 今日、琳瑶が着る衣装を引っ張り出しているのだろう。


 寝台を抜け出した琳瑶は盥の水を使って顔を洗うと、手ぬぐいで顔を拭うついでに安子が水を飛ばして濡らした机も拭いておく。

 こうやって安子の粗相の後始末をするのも琳瑶の日常になっていた。


 だが安子はそんな琳瑶のさりげないフォローに全く気づかないまま、いつものように琳瑶の着替えを手伝う。

 侍女ならば毎日して当たり前の仕事だが、いつも安子は帯を結ぶ位置が高かったり低かったりする。

 結び目も不格好だし、衿も当たり前のように皺が寄っている。

 でも安子自身は完璧に琳瑶の世話が出来ていると思っているのである。


 この朝もいつものように一人で自分の部屋を出た琳瑶は、廊下を歩きながら衣装の衿や帯を直し、髪も手櫛で軽く整え、まだ誰もいない朝食の卓に着く。

 遅れて両親と姉の蘭花らんかが着くが、卓の上に並べられた皿を見た蘭花はすぐに連れてきた侍女に指示を出し、山菜のおひたしを盛り付けた皿を琳瑶の前に持っていかせる。

 代わりに食べろということである。


 幸いにして琳瑶に好き嫌いはなく、とりあえず出された食事は食べる。

 幼い頃は皿が増えると食べきれず苦労したこともあったけれど、今は食べ盛りの育ち盛り……にしては少し背が低く、そのことは琳瑶も気にしている。


 いつも肉をとられるのが原因ではないか?


 そんなことを考えるくらい背が伸びないことを気にしていたが、この程度の嫌がらせにはすっかり慣れていた。


 一方の姉の蘭花はとにかく好き嫌いが多い。

 ただ嫌いな物は日によって変わる……いや、気分によって変わるのかもしれない。

 だが肉や甘い菓子などは間違いなく大好物である。

 だから彼女の部屋にはいつも菓子が用意されているが、妹の琳瑶の部屋には置かれていない。

 もちろん琳瑶だって甘い菓子は好きだけど、琳瑶のために用意されないのは蘭花や母親の嫌がらせである。


 朝食のあと琳瑶が自分の部屋に戻ってみれば安子の姿が見当たらない。

 またどこかで油を売っているのだろう。

 よくあることなので気にしなかったが、琳瑶もすぐに父の侍女に呼ばれて父の部屋に向かったのだが、そこには父昌子しょうしの他に艶麗えんれいと蘭花も顔を揃えており、改めて家長である昌子の口から蘭花の輿入れについて聞かされる。


「お姉様、後宮に入られるんですか?」


 後宮に入ることを嫁ぐと言っていいかどうかはともかく、蘭花は六人しかいないひんという位で後宮に入るらしい。

 琳瑶には嬪という位が上級なのか中級なのか、あるいは下級なのか……いや、下級はないだろう。

 なぜなら泰家はそれなり・・・・の貴族だからである。

 現当主である昌子も先代当主であるその父親も、上の下より中の上でいたいタイプだったためそれなり・・・・の家格なのだが、そう考えると嬪というのもそれなり・・・・……つまり中級妃あたりと思われる。


 先に部屋にいた三人は椅子にすわっていたが、当然のように琳瑶に椅子の用意はない。

 優雅に茶を飲み菓子を食べる艶麗と蘭花が、昌子の話を立って聞く琳瑶に 「羨ましいでしょう」 とか 「親に捨てられたあんたには縁のない話よ」 などと自慢げに言っていたから、やはり下級妃ということはないだろう。

 ただ泰家の家柄を考えれば中級妃がせいぜいである。


「入宮は二月ふたつき後の吉日に行なわれる。

 十日後に正式な使者が通達に来るが、お前は部屋でおとなしくしていなさい。

 くれぐれも邪魔をしないように」


 帝の正式な使者は家族全員で迎えるものだが、琳瑶は出迎えなくていいと昌子は言う。

 どうせ艶麗か蘭花がそう言ったのだろう。

 琳瑶だって本心から蘭花の結婚を祝っているわけではないし、そのために盛装をするのも面倒臭い。

 だからどうでもよかった。

 昌子の話に 「わかりました」 とだけ答えるとおとなしく自分の部屋に戻ったが、安子はまだどこかで油を売っているらしく戻っていなかった。

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