第3話 亡き母の防御壁

 文字列を上滑りする視線は、先ほどから何度も同じ箇所を行き来している。

 つまらな過ぎて内容がちっとも頭に入ってこない。

 ガラスペンを放り出し、ユスティーナは分厚い歴史の教本の上にだらしなくほっぺたを乗せた。


「ユス、なんですか、そのみっともない格好は」

「シルヴェステルが黙っていれば済むことよ」


 幼少のころから家庭教師を務めるシルヴェステルに、今さら王女の威厳を見せつける意味もない。

 シルヴェステルは国のお抱え魔術師だ。

 本来、魔術以外の勉強を教える立場にないのだが、ユスティーナの家庭教師たちは次々と辞退を申し出た。

 結局ひとり残ったシルヴェステルが、尻ぬぐいするかのように全ての教科を請け負っている。

 妹のマリカには各分野で活躍する専門家たちが家庭教師についていると聞く。

 それだけマリカは期待されているのだろう。


(微弱な魔力しか持たないわたくしとは違って……)


 マリカとの差は開くばかりだ。

 魔力も、人望も、期待度も。

 最近では父王からのお呼びもかからない。

 それどころかここ何年も顔を合わせておらず、完全に見放されているのは公然の事実のことだった。


「ねぇ、シルヴェステル。もう一回、あれをやらしてくれない?」


 やるせない現実に、力ない言葉が漏れてしまう。

 逃避したところでどうにもならないことくらい分かっている。だがあの空間だけが、唯一ユスティーナの思い通りになる場所だった。


「駄目ですよ。あれは年に一度だけの約束です」


 にべもない返事にユスティーナの口がへの字に曲がる。

 こんな子供じみた態度が取れるのも、シルヴェステルの前だからこそだ。


「仕方ありませんね。今日の授業は終わりにして、一緒に見回りにでも行きますか?」

「いいの!?」


 がばっと顔を起こし、途端に瞳を輝かせた。

 閉じた教本を棚に戻すと、急かすようにシルヴェステルの手を引いていく。


「わたくしね、あれの中でいっぱい発見したの! 実際にどうかを確かめたくって!」

「誰かがいる場所で余計な口を滑らさないでくださいよ?」

「大丈夫よ。どのみちシルヴェステルにしか通じないことでしょう?」

「それでもです」

「もう、分かったから早く!」


 待ちきれずに部屋を飛び出した。

 やれやれと息をつき、シルヴェステルがゆったりとその背を追って行った。



 *†*



 麗らかな日差しが降り注ぐ中、ふたりして網目になった防壁を見上げる。

 ドーム状のそれは、この国を覆い尽くすほど巨大なものだ。

 この防御壁は襲い来る魔から国土を守る役割を果たしてる。

 幾重にも折り重なった魔術で造られており、見る者が見れば複雑怪奇な術式で成り立っていることが分かるはずだ。


 しかもこの強大な魔術の防壁は、たったひとりの人間が一瞬にして編み出したと言う。

 その人間こそがユスティーナの母親アレクサンドラだった。

 アレクサンドラはその命と引き換えに、この偉業を成し遂げた。ユスティーナが王女の立場を保っていられるのも、亡き母の業績があってこそだ。


(でもわたくしはお母様の魔力を引き継げなかった……)


 魔の恐ろしさを知る年老いた者たちは、今でもユスティーナに礼の言葉を口にする。

 だが平和が当たり前になって久しく、マリカをはじめほとんどの者がユスティーナを軽んじていた。


 防御壁の魔術も恒久的なものではない。一気に築き上げたこともあり、綻びが生じている部位もあった。

 また魔の攻撃により弱まることもあって、維持と修復の繰り返しが必要だ。そのためには優秀な魔術師の存在は欠かせない。

 魔力が豊富な人材を確保するためにも、優秀な者同士が子孫を残すことは国民の義務のようなものだ。


 それを思うと、皆のユスティーナへの態度も仕方のないことと言えた。

 ただ耐え忍ぶ日々に甘んじているのも、そういった理由からだった。


「ユス、何をぼうっとしてるんですか。置いて行きますよ」


 綻びを見つけては、シルヴェステルがその穴を魔術で埋めていく。

 繋ぎ目すら分からないほどに綺麗に修復されていく様は、手際も良くいつも見惚れてしまう。


(あの場所でならわたくしにだってできるのに)


 負け惜しみと分かっているが、悔しくて仕方がない。

 移動しては修復を繰り返す。そんなシルヴェステルのあとを追い、ユスティーナは熱心に魔術を眺めやっていた。


「あ、シルヴェステル。あそこ、術式が解けかけてる」

「どこですか?」

「あの辺りよ。あそこはもっと地属性の魔術を強化した方がいいと思うわ」

「地を? なぜ?」

「だって金を補うには地の力が必要でしょう? 偏ってばかりだと持続が難しいもの」


 ふっと笑みを浮かべたシルヴェステルが、言われたとおりに魔術を展開していく。

 一見問題のなさそうな個所が、より一層厚い防御壁に造りかえられた。


「優秀な生徒でわたしもうれしいですよ」


 ぽんと頭に手を乗せたシルヴェステルに向かって唇を尖らせる。


「自分でできなきゃ意味なんてないじゃない」

「そんなことはないですよ。これも座学を頑張っている成果。今後も厳しく指導してまいります」


 藪蛇になってしまったが、魔術展開の術式を覚えるのはパズルのようで好きだった。


「座学だけじゃないわ。あの場所でわたくしいろいろと試してみたのよ。そうしたら応用が利くって分かったの」

「例えばどんな?」

「火の力で風の魔術が増強したり、水属性を使って金を変化させたり……」


 ユスティーナは夢見心地で言葉を並べ立てた。

 あの領域での出来事が、今でもありありと頭に浮かんでくる。


「なるほど、良く分かりました。ユスは確かに術式をしっかり学べているようですね。些細な綻びを見つけるほど目もいいですし」

「そうでしょう!」

「ですが」


 いい気分になったところを、シルヴェステルが冷静に遮った。


「あの空間での魔術を見る限り、先走りが目立っていい加減な部分が多く見受けられました。ユスにはもっと基礎を頭に叩き込む必要がありそうですね」


 師匠からの駄目出しに、なけなしの自信がしぼんでしまう。

 それに覚えたところでユスティーナが魔術を使えるようになるわけでもなかった。


「とは言え、一年前より格段に上達していましたよ。来年はもっと多くのことができるようになるでしょう」


 その言葉を聞くや否や明るい笑顔に戻った。

 ユスティーナは常にシルヴェステルの手のひらの上だ。飴と鞭の使い方を熟知している彼に、ユスティーナが敵うはずもない。


「そうね、今年は地の精霊を召喚できたし! やればできるってこと、証明して見せるんだから!」


 手を広げ、くるくると踊るようにはしゃぎ回る。

 そんな子供のようなユスティーナを眺め、シルヴェステルが小さく息を漏らした。


「あれは油断しましたね……ゲンブの長老も諦めが悪いことだ」

「シルヴェステル? いま何か言った?」

「いいえ。ユスは何も心配しなくていいんですよ」


 すべてわたしに任せておけば。

 そう付け加えられた言葉は、偶然吹き抜けた風が邪魔をしてユスティーナの耳に届くことはなかった。

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