0002 デスサイズな彼女。


宙を舞う硬式ボールを見つめていた。

青空には雲一つなく、夏の強い日差しが頭上に差し、額から汗がじわりと滲み出す。

高く、高く舞うボールは太陽を背にして、こちらへ向かって落ち始めていた。


僕の左手には、グローブがはめられている。


薄々と記憶が脳に流れ込み始める。


「そうだ…。そういえば僕、野球部だったな…。」


小学生の野球クラブから、高校生の部活を退部するまで、僕の人生の半分を占めていた野球少年の血が、空高く舞うボールを見ると騒ぐ。


僕は落ちてくるボールの距離に合わせて後ろへ下がる。

そして天に向かって、グローブをはめた左手を差し出す。

位置は完璧、あとは落ちてくるのを待つだけだ。


「完璧…?この僕が?」


今まで一度だって、完璧な時期があっただろうか?

野球部では補欠。ろくに大学受験も受けずに就職。

その仕事先でもミスばかり。


一度もない。僕が完璧と呼べるのは、翠葉だけだ。


同じ高校を受験しようと翠葉と二人で決めたが、その高校は僕の実力では受かる事なんて到底想像できないような偏差値だった。

翠葉は僕に、あらゆるヤマカンを教えてくれた。

ヤマカンとは、テストに出るであろう部分のみを抽出する事だ。

僕は翠葉を信じて、そのヤマカンだけを必死に覚えた。

学ぶというよりは、ひたすら文字や数字を覚えていくようだった。

結果は、全弾的中といったところだ。

翠葉のヤマカンは、全ての問題予想を当てていて、翠葉を信用しきった僕も、大当たりだった。


僕の存在とは、完璧のカーテンにしがみつく、セミといったところだろう。


そんな僕が決めた位置を、自分で信じる事ができるだろうか…?

この位置で本当に正しいか…?

自分をそこまで過信していいのか…?

翠葉…、お前ならどうする?

お前なら、この位置だと思うか?

この位置なら、ボールを受け止めれると思うか?


ボールがもう、目前に迫っていた。


「右だよ。」


聴こえた。後ろから翠葉の声が。

僕は少し右にずれた。


バスッ!!


聴き慣れた乾いた音が耳を弾く。

気がつけば、僕のグローブにはボールが収まっていた。


「やった!やったよ!!やっぱり翠葉!お前はっ…!」


後ろを振り返ろうとするが、首が何故か動かなかった。


「…あれ?」


まるで夢でも見ているように、びくともしない。


「え…?」


グローブで掴んだボールは、エメラルドの宝石のように光り輝いていた。


「なんだ…これ?」


「右眼だよ。」


また翠葉の声がどこからか聴こえる。


「翠葉っ!!」


瞬間、息が詰まるような感覚に陥った。

視界はぼんやりとし始め、足元の地面も消えかかっている。グローブの中にあったはずのボールも、次第にその輝きを失い、指先から滑り落ちていく。


「何だこれ!?翠葉っ!」


必死に叫ぶが、今度は翠葉の声すらも遠のいていく。まるで声が風にさらわれてしまうかのように、耳をつんざくような静寂だけが残る。

目の前にあったエメラルドのボールも、手の感触も、音も、光も、すべてがなくなった。無音の闇の中に、僕は一人ぼっちだった。


「っ!!」


目が覚めると、冷たいコンクリートの感触が背中に伝わった。

瞼が重たく感じられる中、ようやくそれを持ち上げると、見慣れた天井が飛び込んできた。

白いコンクリートに、壁に沿って伸びる管。

それを見て、すぐにここが自分の団地の外廊下だと気づいた。

起き上がると朝の冷たい空気が肌に触れ、朝日が僕の瞼を貫く。

夜明けになったばかりか、まだ人の気配がない。


「翠葉はっ!?」


翠葉の姿はどこにもない。

意識がはっきりすればする程、自分の今の現状に寒気を感じ始めた。


八年ぶりに出会った翠葉と、背後に伸びた巨大な鎌。

その鎌は一人でに向かって飛んできて、僕の頭をバッサリと刈った…、気がしたが、自分の身には何も起きちゃいない。

体を弄るが、頭はちゃんとあり、切り傷一つ見当たらない。


本気で殺しに来ていた…?


ますますゾワっと寒気が全身を走るのが伝わる。


「…夢?」


としか思えない。


「呑みすぎだな…。」


言われてみれば、ちゃんと会計して店を出たかの記憶も定かじゃない。


「帰ってもっかい寝よう…。」


だるい体を立ち上げ、ゆっくりと廊下を歩いた。

途中に差し掛かったドアの表札を確認すると、部屋番号は404。

どうやらここは四階らしい。

もしここが1号棟なら、翠葉の自宅がある階だ。

そして翠葉の自宅は、404号室だ。


「やっぱり…。」


404号室の表札には『玉森』と書かれている。

つまりここは1号棟だ。


また翠葉…。

嫌な予感がする…。

八年前に別れたはずの彼女の名前が、今じゃまるで吸い寄せられるように僕の周りにまとわりついてくる。

呪われているんじゃないだろうか…。


「なんなんだよ…。」


僕は404号室を過ぎ、僕の自宅がある2号棟への渡り廊下を目指した。


2号棟への渡り廊下は404号室と403号室の間に位置している。

つまり、今過ぎた404号室の角を曲がれば渡り廊下となる。

普段通り、その角を曲がった。

そこから先の光景は、僕の嫌な予感を更に増幅させるものだった。


「なにこれ…。」


その光景を見た途端、心臓の鼓動が力強く跳ね始める。

壁に何か宗教じみたシンボルが描かれていて、屋根には大きな穴が開き、瓦礫が散乱している。

積み重なった瓦礫には、大きな白い幟旗のようなものが掛かっていて、車椅子やキャスターの付いた点滴スタンドがあちらこちらに置かれていたり、倒れていたりしていた。

地獄の一角のような異様な空気。

何か巨大な化け物でも通ったような、ここで戦争でも起きたような、現代の日本ではまず見ないと断言できる光景が渡り廊下の先に、焦げつくような臭いと共に広がっていた。


僕はピリピリとざわつく体をゆっくり鎮め、慎重に渡り廊下を進んだ。

自分の足音が不気味に大きく響く。


僕は何も見ていない。何も気づいていない。

もう何も巻き込まれたくない。

大丈夫だ。

この先へ進んで、六階まで上がれば僕の家だ。

この妙な渡り廊下の光景は、誰か頭のおかしい人か、酔っ払いがいたずらしただけ。

この令和の時代、化け物もいるはずがないし、戦争なんて日本で起きちゃいない。


そう僕は頭に念じながらゆっくりと角を曲がった。


「え…。」


僕は夢でも見ているのか?

2号棟への渡り廊下を渡って角を曲がった先。

そこはもう完全に僕の知っているマンションではなくなっていた。


カタカタカタカタ。


前方から、キャスターが床を擦りながら回る音が聞こえてくる。

白衣の着た人が四人、キャスターのついたベッドを動かし、こちらまで向かってくる。

看護婦らしき人が慌ただしく電話をしていたり、右手に見える無数のドアからは、医者や入院着を着た患者が出入りしている。


そこはどう考えても、どこかの病院の施設内だった。


「ここで何があったんです!?」


「すまん邪魔だ、どいてくれ!」


僕の問いかけはベッドを運ぶ人達に遮られ、端に寄り、見送る。


「うわあっ!!」


ベッドで運ばれた患者を目にした途端、思わず叫び、口を手で押さえた。

その患者は、とんでもない大火傷で、ほぼ全身が丸焼けにされていた。

集中治療室に運んだところで助かるかどうか。

それぐらいの重症患者がベッドに横たわり、二台、三台と次々と僕の前で運ばれていく。

両手が丸ごとなくなっている人、体に穴が空いた人。

ここは文字通り、地獄だった。


「何なんだよさっきから!!これも夢なのか!?」


ここは僕の家があるマンションのはずだ!!

さっきまで玉森家がある404号室を見た!

廊下にも、団地にも、外から見える景色も見覚えがあった!

それがなんで渡り廊下を渡っただけでこんな地獄のような病院に様変わりしているんだ!?

廊下の長さを見る限り、かなり広い総合病院だ。

こんな大きな総合病院は、うちの近所にまず無い!

ありえないんだ!こんな事は!!


「翠葉の仕業か…?」


僕はここまで来た跡を戻り、マンションの渡り廊下まで戻ろうとした。

しかし、


「なんで…!?」


さっき渡ってきたはずの渡り廊下は、宗教じみたシンボルなぞ描かれておらず、瓦礫が散乱なんてこともない。

質素でシンプルで比較的綺麗な病院の廊下が伸びているだけだった。


「え?あ…、あれ?」


僕は廊下を直進し、本当に自分が渡った渡り廊下はここかどうかを思い出してみる。

しかし何度考え、確かめてみてもこの階に渡り廊下はここしか存在しない。


「なんで…、僕ん家に帰れないんだ…?」


渡りきってすぐの場所にフロアマップが貼り出されていた。

そのマップによると、どうやら先程いた場所はこの病院の本館であり、今いる場所はこの病院にとって、別館という位置付けの建物らしい。

本館が十五階建て、別館が四階建てというかなり大規模な総合病院だ。

そんな広い面積の占める総合病院の近くに僕のマンションなんてあるわけはなかった。

それにこの病院は普通じゃない。

まるで何か大規模なテロに巻き込まれた後のように、ほとんどが救急で、慌しく看護師が動き回っている。

はっきり言って、この世の場所とは思えない不気味な場所だった。

考えた結果、本館の屋上なら見晴らしがよく、自分がどこにいるのかわかりやすいと思った僕は、屋上に行くべく、渡り廊下へ戻り、本館を目指した。



ダンッ!!


突如、何かが破裂したような、そんな音が別館の渡り廊下の奥からした。

思わず振り返る。

だるまさんが転んだでも遊んでいるかのように、急に周囲の空気が張り詰め、慌しかった病院を静寂が包んだ。

その直後、


「きゃああああああーー!!!」


一人の看護婦の叫びが静寂を破った。

叫びながらこちらへ向かってくる看護婦を皮切りに、次々と人が叫びながら、まるで何かから逃れるようにこちらに全速力で駆け出してきた。

僕は人の波にグングン押され、本館へと押し込められる。


「うおっ!今度は何があったんですかっ!?」


「巨大な銃が追ってくるっ!!」


巨大な銃…?

追ってくる…?


カッコン。


それはコッキング音と共に、ついに渡り廊下に姿を現した。

ボルトアクション式の大きな狙撃銃が、一人でに銃口部を引きずりながら渡り廊下を進んでいたのだ。

当然コッキングも誰の手も触れずに、手品のように一人でにスライドが引かれていた。

どこかで見たことあるような超常現象を目の当たりにした瞬間、ダンッ!!と、また鼓膜が破れんばかりの破裂音が渡り廊下に響いた。


「ああ…っ!!」


僕の後ろにいた患者の右肩が、僕の背中に吹っ飛んできた。

服は血まみれになり、撃たれた患者は右肩を押さえながら悶える。

渡り廊下どころか、病院は全館パニック。

一層、壮絶な状況となった。


一人でに動く狙撃銃は確実に僕に銃口を向けて狙いを定めている。

まるで狙撃銃を携えた蛇にでも睨まれているようだ。

たまたま今は逃げてきた患者に揉みくちゃにされているが、人の波が掃けてしまうと確実に当てられてしまう。

そう考えている内に、カッコン。とまたコッキングを始めた。


その時だ。


「借りますっ!」


その声が聞こえた途端、人の波からスッと小さな手が現れ、僕の胸ポケットにスルリと入り込んできた。


「わっ!何!?」


その手は僕のタバコとライターを盗み、目の前に姿を現した。

その子の姿を見た途端、思わず息を呑んだ。


120cmちょっとくらいしかない小学一年生の平均身長程しかない小柄な女の子。

吸い込まれそうなエメラルドの瞳。

翠緑色のサラサラな髪。

その髪が揺れる度にほのかにフローラルの香りが鼻にまで届く。

身長以外の匂い、姿、風貌までもが彼女を彷彿とさせていた。


「翠葉…か?」


翠葉のそれと全く同じ瞳をした女の子は、僕から奪ったタバコから一本人差し指と中指で摘み、フィルター側をライターで炙った。

その後、大きな声でこう叫んだ。


「ルゥダミサイル一号、発射!!」


勢いよく助走をつけ、摘んでいたタバコを狙撃銃目掛けて、まるでダーツのようにぶん投げた。

すると、タバコの炙られたフィルター側の先は、ボン!と音を立てながら火を噴射し、ミサイルが如く狙撃銃に突っ込んでいく。


「ええええーーーーー!!!?」


ドゴーーン!!!


狙撃銃とタバコ一本がぶつかった瞬間、爆発が起こり、周囲の窓ガラスは衝撃波により、吹っ飛んだ。

タバコは文字通り、女の子がそう言った通りミサイルとなったのだ。


「本当に…、タバコがミサイルになって飛んでった…。」


そう言う僕を女の子は、爆風に吹かれる髪を掻き分け、下から覗き込んで見ていた。


「お兄ちゃん、もしかして迷子の人?」


女の子は、見た目通りの可愛らしい子供の声で僕に質問してきた。


「えと…、多分…、いや、絶対迷子…。」


「やっぱり!」


「君…、すごいね…。」


「えっへん!!」


こんな地獄のような病院で、僕を未知の超常現象から守ってくれたのは、僕を殺した、僕の彼女そっくりの子供だった。

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