第37話 裸の女、大昔の井戸

 朝見た光景が目に焼きついて離れなかった。六人の人魚、少なくとも六人が死んだのだ。



 エズラは跳ね橋の上に「つぎはぎだらけの死体」を置いていった。腕、頭、首、お腹、下半身の尾が粗雑にぬいつけられている。


 書斎に戻るとハーバートに話し合いはなかった、人魚の遺体が放置されていた、と報告した。


「なんて男だ」

 ハーバートが頭をかかえてつぶやく。情けない声を出した。


「だから言ったのに。エズラはコケにしてるのよ」

 メアリーがリリィを座らせながら言った。


 ハーバートは肩をすくめるだけだ。


「今すぐエズラを殺さないと」

 リリィが低い声で言う。誰にも聞こえないくらい、小さく押し殺した声で。


「リリィ、なんですって?」

 メアリーは親友をじっと見て言った。


「あの男を殺すのよ」

 リリィが声を上げて言う。


 怒りがふつふつとわいてきた。エズラは殺しを楽しんでるのだ。リリィたちが苦しむのを楽しんでいる。おびやかし、反撃をあざ笑い、結局は服従させるのだ。


「あんな人たちのおもちゃにはならない。これ以上、イリヤを傷つけさせないわ。ハーバート、敵を情け容赦なく殺して。私も戦闘に参加するわ」


 ハーバートは呆然としてリリィを見つめていた。リリィがこんなにも乱暴になれるなどと思っていなかったのだ。


 その日から反撃が始まった。投石器を十数台用意し、岩のように大きな石を放つ。跳ね橋に近づけば油と火が降ってきて、火だるまになった。城の中に矢を放てば、十倍もの矢が降りかかってきて、激痛にあえぐことになる。城壁に梯子をかけてのぼろうとすれば、矢があられとなって降ってきた。


 エル城の兵士たちは人魚と話し、嵐のごとく敵を駆逐くちくしてゆくリリィを神に遣わされた聖女とさえ言うようになった。だが敵が立て直すのも時間の問題である。なにしろ敵の方が数では圧倒的なのだ。



「リリィを戦場に立たせるなんて」

 メアリーは不服そうに言った。


 はとこと二人きりの食事である。ハーバートは戦場から戻ってきて、束の間の休息に放心していた。


「彼女が望んだことだ。実際『聖女』のおかげで敵を驚かせれたのさ」

 ハーバートはにんにくと胡椒の鶏料理をまるまる一皿たいらげて言う。


 石のテーブルはひんやりとしていて触れると心地よい。向かいの美女が膨れっ面をしていても上機嫌にならずにいられなかった。


「聖女なんて呼ばないで」

 メアリーがぴしゃりと言う。


「わかった。二度と言わない。でも僕にどうしろって言うんだ?」


「リリィを戦場からお城の中に戻して。それに、エズラには会わせないで。あなたってリリィを守ろうなんて、まるっきり思ってないのね。イリヤの皇女だった人なのよ」

 メアリーが怒って言った。


「イリヤの皇女だからこそ、みんなが彼女の怒りと激励を支持してるんだろう?皇帝が姿を見せない今、他の指導者が必要だ。リリィは皆を団結させてくれる」


 ハーバートの意見は理にかなっている。だがメアリーにはリリィが心配だった。


「戦争が終われば、人々は勝利の立役者を求める。皇帝の義妹のリリィがその役をにない、皇位につくのが自然な流れじゃないか」


「なんですって。リリィはレネーの妻なのよ。レイドゥーニアの王妃はイリヤの皇帝にはなれないわ。もしアレックスが戻らないとしても皇位を受け継ぐのはウィリアムよ」

 メアリーが反論する。


「なるほどね」


 ハーバートは白々しい声で言った。議論はもうやめだ、と言わんばかりだ。




 背中が痛い。地面の上で寝ていた。剣は体の下だ。誰かのやわらかい手がリリィの手にふれた。


 起き上がって周りを見る。兵隊たちが地べたに座ってしゃべっていた。彼らではない。


 弓形の門の下に裸の女が立っていた。乳白色の肌は、月夜におぼろげに輝いている。髪は濃いブルネットで、腰まで届くほどの長さだ。


 女はリリィに微笑みかけて手招きした。夢の中にいるみたいだ。他の人には彼女の姿が見えないのだろうか。


 二人は〈りんごの園〉の井戸の前に立った。


「秘密を守れますか」

 女がリリィの首元でささやく。


「ええ、イリヤの名誉にかけて」


 水汲み用のおけにさがって下まで降りていった。水にぬれると思っていたのに、かわいた地面に足がふれる。何もない砂地だ。


 長い髪の裸の女たちがリリィを見守っていた。


「驚いたわ。あなたたちがいるなんて」


 井戸はしばらく前から使われなくなっていた。


「私たちは人魚です。エイダ人の迫害の手から逃れてここにやってきたんです」

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