第34話 姫君のために

 また、あの洞窟どうくつの小部屋、青白い光を発する池の中にいた。夜だというのに、狭い部屋の中はやけに明るくて眠れない。体中が痛かった。


 シビルの歌声、人魚のいやしの歌が聴こえてくる。

 ベッドの上でちぢこまって声もなく泣いていた。



「リリィ!朝よ。ご飯を食べましょう」


 メアリーの声が聞こえてきて目が覚める。よかった。あれは夢の中の出来事で、もう現実ではないのだ。エズラに監禁されてはいないし、はずかしめられることも、殴られることもない。死の恐怖におびえることだって。


「リリィ、早く起きないと!エズラが城壁の外で待ってるのよ。おちおちしてられないわ」

 メアリーのきつい声がとんでくる。


 ハッとして身を起こした。エズラはすぐ近くにいるのだ。リリィだけでなく、リリィの大切な人たちを傷つけようとしている……

 エル城の城壁がとても薄く思えた。


「トマス卿と話したいわ」

 リリィが起きぬけの顔で言う。


「武器庫にいるはずよ。でもその前に二人で何か食べましょう。私があなたと話したいから」


 思わずうなだれそうになった。メアリーはお説教がしたいのだ。


「いいわ。でも着替えないと」

 リリィがのろのろしながら言う。


「着替えなら手伝うわ。昔は私の仕事だったでしょう?」


 メアリーはリリィが断るもなく着替えに取りかかった。

 ガウンはつやつやとしたサテン生地の薔薇色ばらいろのものだ。首には淡い黄色のダイヤモンドの首飾りをつけている。


「この戦時にダイヤモンドの首飾りなんて、立派な貴婦人だこと」

 リリィが心配になって言った。


 メアリーはごく地味な木綿のドレスを着ていて宝石も身につけていない。


「今日はエズラに会うのよ。立派な格好をしていないと」


「メアリー、あなたが何をたくらんでいるかは知らないけれど、エズラには会えないわ。彼に会うことを考えただけでも体が震えてくるのよ。無理だわ!無理よ、あんな目にった後では……」

 リリィはそう言うと我が身を恥じるかのように目を伏せた。


 朝食は黒パンと羊肉のスープ、熟したトマトに塩をひとふりしたものだ。トマトと水以外、喉を通りそうにない。コルセットのせいで息苦しかった。


「あなた一人でエズラに会うわけじゃないわ。私やハーバートだっているの。エズラはあなたに触れられやしない。怖がる理由なんてない。皆の前でそう示すのよ」

 メアリーがたきつけようと熱心に言う。



 ハーバートは武器庫で剣の選別をしていた。鉄のさびた匂いがする。


「トマス卿、ここにいたんですね」

 リリィはちょっととぼけて言った。ためらいがちに入り口のところに立って。


「リリィ様。お話があるんですか?」

 ハーバートが手に取った武器を置いて言う。


「ええ」

 リリィはソワソワと後ろ手に扉を閉めた。

「私をエズラに引き渡してほしいのよ。メアリーは反対するわ。でも、お願いよ、自分のせいで多くの人が犠牲になるなんて……。私には耐えられない」


「姫君、それはできません。この戦争はあなたのために始めたものでもあるし、あなたが愛する民のためのものでもあるんです。姫君がエズラのもとに戻れば、イリヤ人を失望させ、この戦争の意味はなくなります」

 ハーバートが言う。


「そんな話ではないわ。私のような目にあった人なら大勢いるでしょう。そういう人たちのために戦うんですもの。でも、あなたはわかってないのよ。エズラは私が要求をのまなければ少しずつイリヤを殺してゆく。村や城を焼き払って、命をもてあそんで。殺しや破壊を楽しんでるのよ。


 タチアナ・ヤールの霊廟れいびょうに監禁されていた時、人魚たちがいたわ。友達でいてくれた。歌を歌ってくれたり、薬を用意してくれたり、涙をふいたりしてね。


 エズラは私が人魚と話すのを面白がっていたわ。それで一日ごとに人魚を殺して、その死体を部屋の前においておくの。彼が人魚を霊廟の中で追い回していて、最後の断末魔だんまつまが聴こえたときだってある。どうして私じゃなくて人魚たちを殺したのかしら。私を殺してほしかったのに……」


「イリヤが負けると思っているのですか?」

 ハーバートが慎重に言った。傷ついたリリィをいたわるような、それでいて厳しい声つきだ。


「姫君は言語ごんごに絶する苦しみに耐えてきました。エイダでも大勢があなたのように苦しんでいるのです。僕は北エイダの出身なので奴隷がどういう存在なのか知っています。でもこの戦争でエイダの苦しみも、イリヤの苦しみも終わらせられるのです。もしここで、姫君が苦しみに耐えかねてエズラのもとに戻れば、民はあなたの行動を裏切りとみなすでしょう」




 両軍の兵士たちが見守る中、跳ね橋の上に立った。エズラが巨大な軍馬に乗ってこちらにやってくる。リリィは静かな威厳いげんをもってして、軍をイリヤから撤退させ、虐殺を今すぐやめるよう告げた。


 彼に聞く耳はない。せせら笑うようにこちらを見ていた。後ろを振り返り、部下に命令する。少年が両わきを抱えられて連れてこられた。ぐったりと怯えたような目をしている。見覚えのある少年だった。アレックスにつかえ、ジョンの手紙を運んだ少年。彼がエイダ軍に捕まり、リリィの居場所が知れるようになったのだ。


「今たわごとを言うのをやめて、俺のもとに戻ってきたら、この少年の命を助けてやろう」

 エズラが言った。


「その子を殺しても意味ない。私の決断は変わりません」

 リリィが静かに言う。


「冷たい女だ。殺せ」


 彼の命令で少年は絶命した。喉から血がほとばしり、咳き込んでいる。


 エズラは去っていった。橋の上に血を流す少年を残して。

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