下弦

第32話 二つの城

 暗い皇帝の書斎を歩く。からっぽだ。アレックスは姿をくらましたまま、帰ってこない。


 テーブルの上に置かれた長剣の柄を握った。皇帝の剣である。


「皇帝もとんだ食わせ者だ。周りの者に何も告げずに行方をくらますとは」


 暗闇の中で声がした。レネーだ。


「あなたを侮辱する気はない」

 ジョンが静かに答える。


 二人は上に立つ者同士、夜の屋外を並んで歩いていた。


「皇帝もいないのに、どうして自国に帰らないのです?あなたが帰ってても別に驚きはしない」

 ジョンがたずねる。


「エズラの首をとらないことにはリリィのもとに帰るつもりはない」

 レネーが言った。


 夏の夜、空には満天の星が輝いていた。原っぱは虫の鳴き声がして涼しげだ。


「彼女がそう言ったんですか?」

 ジョンはちょっと驚いた。


「リリィとはまだ話していない。エズラを殺さなければ、彼女は一生苦しむ」


 レネーはエズラを憎んでいるのだ。おそらくリリィよりもずっと。


「ひょっとしたらリリィはもうエズラを赦しているかもしれない。不思議な女性ですよ、リリィは。憐憫れんびんをたれるよう求めてくるかもしれないのですから」


「それなら、尚更なおさらエズラを殺すべきだ」


 ジョンは鷹揚おうように笑った。

「エズラは男に好かれる男じゃない。あなたじゃなくても他の男が殺すでしょう」


「アレックスが殺すのか?」

 レネーがチラリとジョンを見る。


「それもありえます。ただ皇帝がエズラに手を下すのは、復讐心からではない……」

 ジョンは曖昧あいまいな言い方をした。レネーは気難しい男だ。


「正義のためか」

 その声にはあざけるような響きがあった。

「君ならなんのためにエズラを殺す?自分や祖国の栄光のためか?それとも皇帝の義妹の名誉のためか?」


「俺はエズラを殺せませんよ。彼より先に死ぬ。でも彼を殺すのだとしたら、リリィの名誉のためでしょうね。昔から彼女が好きだった。無邪気で信じ切ったような目で見てきて。くだらない冗談にも笑ってくれるしね」


 レネーは不気味そうにジョンを眺めた。なぜこの男は自分が死ぬとか生きるとか、ふざけたような話をするのか。そのくせ彼は澄み切った目をしていて、ふざけた調子はどこにもないのだ。


「リリィは不思議な女だな」

 レネーはそう言った。


 もう妻のことで話したくないのだろうか。口をつぐんで地面を見ている。


「妻と子どもがいるが、死ぬ前に会いたいのはメアリーだ」

 ジョンが二人の沈黙をやぶった。


「メアリー・トマスか」

 レネーが言う。


「彼女を愛していた。メアリーは夢そのものだった。彼女が俺を愛してくれたことは一度もなかったのだけれど……」



 城壁の外に花火が上がるのが見えた。きれいな花火だ。空高くあがって散ってゆく。


「何かがおかしい」

 レネーがつぶやいた。


 二人はすぐに塔の見張り台の上に駆けつけた。エイダの軍が退却している。城の中から歓声があがった。


「何かがおかしい」

 レネーが繰り返し言う。


 ジョンはレネーの言葉に誘われて城の外をよく見た。


「退却しているのは半数だけだ。残りの半数はどこに向かっているのか……」


 悪い予感がした。




 ビリーはレイチェル・トルナドーレとメアリー・トマス、二人の女の仲が険悪なのを観察していた。レイチェルはメアリーが遠くに見えるだけで噛みつかんばかりの勢いだ。ヤング・ジョンはウィリーから引き離されて四六時中母親のそばにいなければならなくなった。


「ジョンも可哀想にな。ウィリーから引き離されて」

 ビリーが日陰で薪割りをするメアリーの背中に言う。


 彼はメアリーとレイチェルの間に起こったことを知らなかったのだ。


 メアリーは振り返ってビリーを見た。顔には汗が浮かび、木綿の生成色きなりいろのドレスには木の粉塵ふんじんがとんでいる。


「どうしてレイチェルがあんな態度を取るか気になってるんでしょ。私を可哀想に思って励まそうとしてくれてる」

 メアリーはそう言って力まかせに斧を振りおろした。


「君だってあんな態度を取られたらつらいだろ。強がりはやめろよ」

 ビリーが言う。


「レイチェルの態度を責められないわ。だって私がすべて悪いんですもの。何年も前に謝ったのよ。でも赦してくれなかった。当然だと思うわ。レイチェルは私を赦すべきじゃないし、私だって赦されるべきじゃない」

 メアリーがまた斧を振り下ろした。薪は上手く割れず、先細りになってしまう。


「まるで聖人の贖罪しょくざいみたいだな」

 ビリーがひとりごちた。

「薪割りなんて他に任せればいいのに。君は強くて賢い魔女だろ。それも贖罪しょくざいのための苦行か?」


「外気にあたって体を使いたかったのよ。でもあなたの言う通りだわ。薪割りは向いてない。ああ、あなたと旅に出てたらよかったのに。船にでて、ドレントの壮大な砂の都なんか見てね。きっと夢のようだわ」


 ビリーは薪を抱えてメアリーの隣を歩いた。


 遠くからリリィがガウンのわきを持って走ってくるのが見える。


「メアリー、大変よ!エズラが来たの。私に出てこいって言うのよ」

 リリィが真っ青な顔をして言った。


「絶対出ていっちゃだめよ。あなたはいないって言いましょう……」

 メアリーが動揺しながら言う。


「でも出ていかないと、みんなが殺されるわ……」

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