第19話 炎の向こうの瞳
一人で宿に泊まったことなどない。初めてのわりに上手くできたと思う。銀貨一枚で中二階の最上級の部屋に泊まれた。清潔なシーツにふかふかなベッド、部屋には朝食が運ばれてくる。追加料金を払えば、お風呂も用意してもらえるのだ。
本当なら一人旅のはずではなかった。護衛に守られていたはずだ。だが、
夕食をとるために宿の談話室に降りていった。室内は煙でかすんでいて、こおばしい匂いがする。部屋の
試しにほうれん草と
「そのパンは食べちゃだめだ、歯が折れる」
パンを頬張ろうとしたら、後ろから声がとんできた。低すぎもなく、高すぎもない、穏やかな男の声だ。
「トゥーリーン?」
リリィが振り向いて言う。
青年が立っていた。小麦色の肌に、麻色の髪、荒々しく、どことなく野生的な瞳。
「姫君」
トゥーリーンがリリィの前に座って言う。
リリィは思わず微笑んで、惚れ惚れと青年を見つめた。現実なのだろう、それとも……?
「トマス嬢に聞きました。あなたには盾が必要だ」
トゥーリーンが説明する。
「旅についてくるの?」
リリィはゆっくりと微笑んだ。
トゥーリーンがうなずく。
「レイドゥーニアの〈岩の館〉まで。イリヤの南部は荒くれ者やエイダの脱走兵がいるから危険だ」
「そう。みんな私が剣を使えるってことを忘れているのね」
リリィはそう言って無邪気そうに笑った。
「姫君の腕前を心配しているんじゃない。あなたは価値のある人だ。だから、さらおうとする者や命を狙う者が大勢いる」
トゥーリーンがリリィからパンを奪うとスープの中に放り込む。これで柔らかいパンの出来上がりだ。
道中、離れていた時間を取り戻そうとするかのように、いろんなことを語り合った。そもそも離れ離れになる前から、お互いのことをよく知らなかったのだ。
夜、焚き火の前で沈黙がおとずれて、互いの瞳に見入る時間がおそろしい。リリィは無邪気な笑顔も忘れて、何か話題を見つけようととする。トゥーリーンの荒々しい瞳、薄い色のかわいた唇。
彼はこういう時、口を開かない。
「エズラに監禁されて、ひどい目に遭っていた時、あなたのことはあまり考えなかった」
リリィが言った。
「あなたのことを考えると余計つらくなるから。二度と会えないってわかっていたもの」
「僕は心の底ではあなたが帰ってくるのを知っていたし、ずっと忘れなかった」
トゥーリーンは揺れる炎を見つめている。彼の唇のかたちは完璧だ。薄く、神話の中の青年のよう。
「これって現実なのかしら……」
寝そべって、ゆっくりと瞳を閉じた。そのまま瞳をひらかないでいる。
しばらくして、彼が動く物音がした。何かが肩にかかる。マントをかけてくれたのだ。
リリィは薄目をあけて彼を盗み見た。切ないほど
レイドゥーニアは山脈続きの険しい地形の国だ。トゥーリーンの
目の前にきても、最初は〈岩の館〉の存在にも気づかなかった。裸の山に大きな岩がごろごろと転がっているだけだ。
トゥーリーンは知っていた。ひときわ大きな岩が二個、横に並んでいる。彼は岩の前に行くと、その場で馬を
暗い宮殿の岩肌のあらわな中、王座の上に座るレネーは青白い顔をしてこちらを見据えていた。六年ぶりに会う妻の顔を忘れてしまったのか、それとも
いや、彼が妻の顔を忘れたはずがないのだ。
衛兵たちがリリィとトゥーリーンの一挙一動を警戒して見ていた。
何はともあれ、レイドゥーニアの王は二人を客人としてもてなしてくれ、豪華な寝床も用意してくれたのだ。
寝室は黒で統一されていた。黒い壁は青光りしている。寝具や寝台の質もよかった。山をほって建てられた宮殿なので自然光は一切入らない。かわりにランプや松明で一日中、あかりが灯されていた。
「なぜ戻ってきた?」
レネーがきく。
「頼み事があります」
リリィが優しく言った。
「頼みごと?レイドゥーニアの王にか」
あざけるような口調である。
レネーは冷たい。
「ええ、あなたにしか頼めません。エズラとイリヤの間で戦争が起ころうとしています。あなたもエズラを打倒するべき理由があるはず。どうか援軍を送ってください。エズラはイリヤを征服すれば、今度は新興のレイドゥーニアに攻め入ってくるでしょう」
「レイドゥーニアの男は強い。エズラが今の兵力の二倍手に入れようとも征服はされまい。なんのために、そなたの
王はリリィの背後に立ってたずねた。
「あなた自身のためです。復讐のため、そして私のためです。もうお忘れなのですか、あなたを愛していた私を?ご家族がどのように死んでいったのか……」
リリィは振り向き、レネーの心に訴えかけようとする。
「家族の死に様ならよく覚えている。お前はたしかに命の恩人だったな。だが、姉がどのようにして、なぜ死んだのかはわからない。違うか?」
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