第19話 炎の向こうの瞳

 一人で宿に泊まったことなどない。初めてのわりに上手くできたと思う。銀貨一枚で中二階の最上級の部屋に泊まれた。清潔なシーツにふかふかなベッド、部屋には朝食が運ばれてくる。追加料金を払えば、お風呂も用意してもらえるのだ。


 本当なら一人旅のはずではなかった。護衛に守られていたはずだ。だが、我先われさきに避難しようとする人混みの中で、護衛たちとはぐれてしまったのだ。


 夕食をとるために宿の談話室に降りていった。室内は煙でかすんでいて、こおばしい匂いがする。部屋のすみに家族連れが六人、浮かない顔をして座っていた。騒がしいのは酒飲みと傭兵ようへいだけである。あとは皆、疲弊ひへいしきっているか、自分の世界に閉じこもってしまっていた。


 試しにほうれん草と牛脂ぎゅうしのスープ、バターつきのパン、ウィスキーを頼んでみる。


「そのパンは食べちゃだめだ、歯が折れる」

 

 パンを頬張ろうとしたら、後ろから声がとんできた。低すぎもなく、高すぎもない、穏やかな男の声だ。


「トゥーリーン?」

 リリィが振り向いて言う。

 青年が立っていた。小麦色の肌に、麻色の髪、荒々しく、どことなく野生的な瞳。


「姫君」

 トゥーリーンがリリィの前に座って言う。


 リリィは思わず微笑んで、惚れ惚れと青年を見つめた。現実なのだろう、それとも……?


「トマス嬢に聞きました。あなたには盾が必要だ」

 トゥーリーンが説明する。


「旅についてくるの?」

 リリィはゆっくりと微笑んだ。


 トゥーリーンがうなずく。

「レイドゥーニアの〈岩の館〉まで。イリヤの南部は荒くれ者やエイダの脱走兵がいるから危険だ」


「そう。みんな私が剣を使えるってことを忘れているのね」

 リリィはそう言って無邪気そうに笑った。


「姫君の腕前を心配しているんじゃない。あなたは価値のある人だ。だから、さらおうとする者や命を狙う者が大勢いる」


 トゥーリーンがリリィからパンを奪うとスープの中に放り込む。これで柔らかいパンの出来上がりだ。



 道中、離れていた時間を取り戻そうとするかのように、いろんなことを語り合った。そもそも離れ離れになる前から、お互いのことをよく知らなかったのだ。


 夜、焚き火の前で沈黙がおとずれて、互いの瞳に見入る時間がおそろしい。リリィは無邪気な笑顔も忘れて、何か話題を見つけようととする。トゥーリーンの荒々しい瞳、薄い色のかわいた唇。

 彼はこういう時、口を開かない。


「エズラに監禁されて、ひどい目に遭っていた時、あなたのことはあまり考えなかった」

 リリィが言った。

「あなたのことを考えると余計つらくなるから。二度と会えないってわかっていたもの」


「僕は心の底ではあなたが帰ってくるのを知っていたし、ずっと忘れなかった」


 トゥーリーンは揺れる炎を見つめている。彼の唇のかたちは完璧だ。薄く、神話の中の青年のよう。


「これって現実なのかしら……」


 寝そべって、ゆっくりと瞳を閉じた。そのまま瞳をひらかないでいる。


 しばらくして、彼が動く物音がした。何かが肩にかかる。マントをかけてくれたのだ。


 リリィは薄目をあけて彼を盗み見た。切ないほど凛々りりしい横顔で遠くを見つめている。胸が苦しくなった。



 レイドゥーニアは山脈続きの険しい地形の国だ。トゥーリーンの懸念通けねんどおり、山の中は見るからに荒くれ者ばかりだった。リリィ一人では安全に旅をできなかっただろう。



 目の前にきても、最初は〈岩の館〉の存在にも気づかなかった。裸の山に大きな岩がごろごろと転がっているだけだ。


 トゥーリーンは知っていた。ひときわ大きな岩が二個、横に並んでいる。彼は岩の前に行くと、その場で馬を旋回せんかいさせ、くつわの高らかな音を響かせた。



 暗い宮殿の岩肌のあらわな中、王座の上に座るレネーは青白い顔をしてこちらを見据えていた。六年ぶりに会う妻の顔を忘れてしまったのか、それともえて忘れたふりをしているのか。

 いや、彼が妻の顔を忘れたはずがないのだ。


 衛兵たちがリリィとトゥーリーンの一挙一動を警戒して見ていた。

 何はともあれ、レイドゥーニアの王は二人を客人としてもてなしてくれ、豪華な寝床も用意してくれたのだ。


 寝室は黒で統一されていた。黒い壁は青光りしている。寝具や寝台の質もよかった。山をほって建てられた宮殿なので自然光は一切入らない。かわりにランプや松明で一日中、あかりが灯されていた。


「なぜ戻ってきた?」

 レネーがきく。


「頼み事があります」

 リリィが優しく言った。


「頼みごと?レイドゥーニアの王にか」

 あざけるような口調である。


 レネーは冷たい。猜疑心さいぎしんに駆られているのだ。


「ええ、あなたにしか頼めません。エズラとイリヤの間で戦争が起ころうとしています。あなたもエズラを打倒するべき理由があるはず。どうか援軍を送ってください。エズラはイリヤを征服すれば、今度は新興のレイドゥーニアに攻め入ってくるでしょう」


「レイドゥーニアの男は強い。エズラが今の兵力の二倍手に入れようとも征服はされまい。なんのために、そなたの義兄君あにぎみに味方するのか?」

 王はリリィの背後に立ってたずねた。


「あなた自身のためです。復讐のため、そして私のためです。もうお忘れなのですか、あなたを愛していた私を?ご家族がどのように死んでいったのか……」

 リリィは振り向き、レネーの心に訴えかけようとする。


「家族の死に様ならよく覚えている。お前はたしかに命の恩人だったな。だが、姉がどのようにして、なぜ死んだのかはわからない。違うか?」

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