黒凰と詩の姫巫女

KaoLi

プロローグ:少女と青年

 木漏れ日が地にたゆたうおうの森。

 その中枢部には清らかな水の流れる湖がある。

 湖では森に棲む野鳥や小動物が、水場で羽を休めたわむれる。パシャパシャと水が跳ねれば、日の光に反射しきらきらと輝く。ツンツンとつつくとそれは小さな飛沫をあげ、空に光の雨を降らす。するとどこからか美しい音の調べが彼らのこころを一瞬にして奪い去った。

 湖の水面に白く映える素足を浸けて涼を取り〈うた〉を奏でるその娘は、音羽インユウという。彼女は鳳凰から寵愛を賜りし、凰國おうこくの〈姫巫女〉である。



 音羽インユウがこの場所に訪れるようになったのはここ数年のこと。

 彼女が暮らす白凰城はくおうじょうでは〈焱〉の化身ともされる鳳凰王が御坐おわすがゆえに涼を取ることが難しい。この國の気温度は鳳凰の機嫌ひとつで左右するために、一日の大半を王のそばで過ごすことの多い音羽インユウは、少しでも暑さをしのぐために湖へと抜け出していた。

 初めの頃は森の動物たちは音羽インユウに対して警戒心を剥き出しにして、涼む彼女に近づくことさえなかったが、彼女がひとたび〈詩〉を口ずさめばたちまち、動物たちは次第にこころを許していった。

 音羽インユウ自身、ひとりでいることに孤独感を抱くような性分ではなかったが、彼女の歌声に惹かれてそばに寄り添い始めた彼らには不思議と愛着を持つようになった。


 今日も凰の森では音羽インユウの〈詩〉を求めて森中の動物たちが湖に訪れる。

 彼らと音羽インユウしか知らない、秘密の園。

 さらさらと流れる水のせせらぎとともに聴こえる音羽インユウの澄んだ歌声が凰の森を清らかに包んでいく。



 突然湖の近くで、野鳥の「ピィイイ……」と高い鳴き声が凰の森をぐるりと響き回る。詩が終止符を打たれたことで、それに驚いた動物たちが勢いよく音羽インユウのそばから去って行く。


「……!」


 上空で飛び回る、止まぬ野鳥の声に耳をすませる。ピィッ、ピィ、と焦ったような、不安の色が混じる鳴き声が音羽インユウの耳に届いた。

 ——凰の森で、なにかが起きている。

 音羽インユウの視線に気がついた上空で飛び回る野鳥たちが彼女の目の前にゆっくりと降り立つ。じっと音羽インユウの目を見つめる深い黒の双眸から伝わる野鳥かれらの思考に、音羽インユウはいてもたってもいられなくなり、ついには湖を後にしていた。



 *****



 野鳥たちに導かれて音羽インユウがやってきたのは、凰の森に古くからあると伝承されている〈神樹しんじゅ〉と呼ばれる森の御神木。

 野鳥たちが騒ぐ原因は、そのたもとで横たわるにあった。


 音羽インユウの、鳳凰の白焔はくえんを思わせる白髪が風にあおられてふわりと空に踊る。

 年の頃は音羽インユウよりも少し上だろうか。ときおり吹く風に流れる、彼女とは対照的な細くしなやかな青年の純黒の長い髪が、森の中にたゆたう木漏れ日に照らされて美しかった。


 そろりと近づいているとはいえ、青年は音羽インユウの存在に気づく気配がない。おかしく思った音羽インユウは青年の顔に自分の顔を近づけ、そしてハッとする。横たわっていたのは、彼が頭から血を流し意識を失っていたからだ。

 どうして、いったいなんのために、彼はこの凰の森に入ってきたのか。

 いや、そもそも入るだけならば不思議には思わない。

 問題は、誰が、彼を傷つけたのか。そこが重要である。


 ——そもそも。


 音羽インユウが知る限り、凰の森は彼女以外に久しく人間が立ち入った時間が無い場所だった。

 森の動物たちは音羽インユウ以外に「人間」という生き物を知らない。自分たちの生きる世界に異分子が侵入してしまったことで、こんにちまで静止を守ってきた森の時間が再びズレだしたと感じ困った動物たちは、同じ「人間」である音羽インユウに助けを求めたのである。


 彼女を青年の許に導いた野鳥も、その一匹だった。


 音羽インユウは青年の顔を軽く観察したあと、そっと胸元に耳を当てて心音を確かめる。少しして小さな呼吸音とトクリトクリと微弱ながらしっかりと音を打つ鼓動が聴こえてくる。生きている。その事実に音羽インユウはひどく安堵した。


(……よかった。生きてる。……でも、どうしよう。——〈はく〉が弱い)


 魄とは、この國の生命力と同類の力の総称である。

 この魄が弱いということは、青年の命がおびやかされているということだ。

 音羽インユウは不安に揺らぐこころを落ち着かせるために深呼吸を繰り返す。

 動物たちは音羽インユウを頼った。それは彼女がこの凰國の〈姫巫女〉だから、彼らは彼女に助けを求めたのだ。その意味を、たがえてはいけない。


 ふと、一羽の兎が音羽インユウに駆け寄る。じっと見つめる赤き双眸の眼差しは、どこか不安に揺れていた。

 きっとこの青年がここに倒れるまでの一部始終を見ていたのだろう。なにもしてあげられなかった不甲斐なさから、兎は小さく非力な自分の体を疎ましく思っていた。暗い感情がじわりと流れ込んで、音羽インユウのこころにゆっくりと沈んでいく。


「……大丈夫よ。すぐに良くなるわ」


 音羽インユウは兎の頭を優しく撫でる。そして再び青年に向き直った。

 さらりと吹き抜けた風が青年の顔をさらす。その美貌に、音羽インユウの世界がほんの刹那の時間だけ静寂に包まれた。

 ドキドキと胸の鳴りが静かに繰り返される。音羽インユウがこころを落ち着かせようと深呼吸をしたそのとき、勢いよくなにかの強い力によって引っ張られ、その反動で青年の方へと倒れ込んだ。


「きゃっ」


 なにごとかと、一瞬自分の身に起きたことの理解が追いつかなかった音羽インユウだったが、眠る青年が彼女の腕を引っ張ったのだと気づく。

 音羽インユウは純粋に驚いた。意識が無いはずなのに、どうしてと。

 胸の高鳴りはさらに早鐘を打ち、音羽インユウの体温が徐々に高まっていく。美しいと思い見惚れてしまっていた青年の顔が近い。音羽インユウはどうにかなってしまいそうだった。

 けれど、いつまでも動揺している暇はない。人の、青年の命がかかっている。


「……ごめんなさい」


 それは、なにに対しての謝罪か。


 いやに対しての断りか。


 音羽インユウは言葉が溶け切る前に、青年にそっとくちづけた。すると彼らの周囲が温かい透明な焔の膜に包まれ始め、ぽう、と優しい光が凰の森に広がっていく。



 どこかで、火の衣を纏いしが、無機質な双眸を瞬いて彼らの様子をじっと眺めていた。

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