救済

黒月

第1話

 吸い込まれる。

 そう感じた私はパンプスの両足にぐっと力を込める。AM6:50。貨物列車が通りすぎるのをホームでぼんやりと見ていた。

 5分後、ホームに電車が到着する。それに乗って都内の会社に向かう。新卒から勤めて5年目。いつからだろう。鉛のような体を手すりを使って無理くり引き上げてホームに向かうのは。貨物列車が通過する度に引き込まれそうになるのをこらえて見つめるのは。

 衝動に身を任せてしまえば、会社に行かなくて済む、と考えるようになったのはいつからだろう。


 「おはよう」

 背後から、私の心に突き刺さるやけに明るい声。ブランド物の通勤鞄に綺麗に巻かれた髪。手入れされたフレンチネイル。

 山野美月。高校時代の友人だ。卒業以来没交渉であったのだが、最近結婚してマイホームを建てた。そこが偶然私のアパートと近く、通勤時に再会することになった。

 「あはは、クマ酷いねー。また残業?」

 彼女は変わらない。高校時代から人の輪の中心にいた。きっと現在つとめているという、大手商社でもそうなんだろう。

 私のように、「ごめん、今日彼氏とデートで」なんて言い訳で残業を押し付けられたり、残業したらしたで課長に「いつまで残ってるんだ、仕事のできないやつが何時までも残るな、目障りだ。」そんなこと言われたことはないのだろう。

 実際彼女の口からはマイホームのこと、会計士の旦那のこと、会社でのランチ時の噂話…

 私には到底手の届かない、キラキラした世界。屈折した感情に追い討ちをかけるように、美月の話は続く。

「昨日ランチで行ったイタリアンのお店がね、パスタはめっちゃ美味しいのにデザートが残念でね、あ、でもコーヒーは美味しいからオススメ。行ってみたら?」

 大手町のイタリアンなんて昼休みに行けるかよ。こっちは毎日昼休みはデスクでコンビニおにぎりだよ…

 それに、昨日は散々だった。営業事務とは名ばかりで、営業の指示とあらばなんでもやらなきゃいけない女子社員に決定権など皆無。ひたすらイエスマンを通すしかない。

「この発注やっておいて」発注書に書かれた通りにメーカーに発注をかけた。が、それに営業の藤城は激怒した。どうやら顧客との間で仕様変更があったらしい。それを藤城は自分の手帳には書いたものの、発注書には記入しなかったため、届いた品物を見て「なんだこれは!」と私を怒鳴り付けたのだ。曰く、「発注に変更点がないか、確認するのが普通だろ!発注するだけなら猿でも出来るんだよ!」

 確認を求めたら求めたで、うるさがる癖に。記入漏れをしたのは藤城本人なのに。

挙げ句、顧客への謝罪、返品処理(ここでも経理に嫌みを言われた)再発注全てを押し付け彼は外回りに行ってしまった。

 「事務が無能なせいで外回りの時間が遅くなっちまった」

と、吐き捨てて。


 私には、こんな毎日しかない。

 電車が、来る。また同じ毎日の繰り返しだ。頑張って当たり前。決して報われはしない。返ってくるのは感謝ではなく怒声。

つっ…と涙が目から溢れてきた。


「どうしたの、急に?アイメイクぐちゃぐちゃだよ、」

 美月が何か言っている。

 電車が、近づいてくる。

 今までガチガチに力が入っていた足が緩む。


「電車が参りまーす。黄色い線の内側までお下がり下さい。」

黄色い線?

これを越えればいいのか。簡単なことだ、こんなにも単純な事だったんだ…


「!!」

 美月が私の名前を呼んだ。うるさいな。お前はお前の世界で、二度と私に関わるな。

私は黄色い線を越え、電車の前に躍り出た。




 目を開けると、病院…ではなかった。熱を出した時に見る夢のような、灰色でぐにゃぐにゃした空間だった。

 死後の世界、いや、私はここに見覚えがあった。やはり病院に運ばれて、今は夢をみているのだろうか。


 ふと前方に踞る少女の姿がある。白のセーラーブラウス、グレーのチェックスカート。私の母校の制服だ。彼女は左手首を押さえて嗚咽していた。

  


それは「私」だった。高校時代の私だ。


 そこで私は思い出した。今日が、10月27日であることに。9年前の今日、私は自殺を図ったのだ。そして未遂に終わったからこそ、こうして再び自殺を選んだのだ。

 あの時せっかく助かったのに、9年後また命を絶とうとするなんて、皮肉もいいところだ。まあ、助かったとは言っても苦しいことばかりの人生だったけれど。


 少女に近づくと顔をあげてこちらを見た。涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、はっきり言って不細工。私は泣くと鼻水も止まらなくなるたちなのだ。

 そうでなくとも、決して可愛いの部類には入らない、地味な顔立ちに地味な性格。

過去の自分と目が合う。ぴったりと重なりあう視線。



 嗚呼、記憶が甦る。無理矢理に封じ込めていた、悔しさ、やるせなさを。


 そもそも、この制服を私が着ているのが間違いの始まりなのだ。小中学校でも、いじめらしきものはあった。でもそれは子供らしいからかいの一貫に過ぎなかったから、まだ耐えられた。

 高校受験の段階で私には選択肢がなかった。母は自身の母校である東学園高校を受験するよう強く進めてきた。いわゆる進学校で、私にはレベルが高く、担任も難色を示した。「今から学力を上げたとして、カリキュラムに付いていけるかが問題」と。しかし、いわゆるキャリアウーマンで、見栄っぱりな母は、自分の娘が自分よりレベルの低い高校に進学することを恥ずべきこと、と捉えているようだった。「東学園でなければ学費は出さないからね」とまで言われては、努力するよりほかなかった。実際、努力はした。

 滑り込みのように合格した私に母は、嬉しそうな顔すらせず、「あれだけ塾にお金かけたんだから当たり前。次は大学受験ね。」といい放った。合格発表の場で喜び合う親子を尻目になんとも言えない、居心地の悪さを感じた。

 そして案の定、進学校のレベルに付いていけず、落ちこぼれたのだ。


「…誰?」

高校生の私が問う。誰も何も同じ顔だろう。

「私は27歳のあんただよ。」

「じゃあ、私は…助かるの?」

「命だけは。残念ながら。」

 自殺しておいて助かるの?はないだろ。助かっても、何にも報われず9年後にまた自殺するのがオチだよ。目の前の自分に何だかイライラしてきた。


 手首の傷。それに無数の自傷痕。そのせいで私は今でも長袖しか着れないんだ。

「大人にはなれるんだ…」

思わず、高校生の私の胸ぐらを掴んだ。

「大人になっても、いいことなんかありゃしない!大学も三流私立、就活も失敗してブラック企業で毎日怒鳴られて!なんのスキルもないから転職すら出来やしない!挙げ句、美月なんかに再会してまた地獄だ!」

「美月」の名前にぴくっと反応があった。そう、高校時代の自殺の原因は彼女なのだ。


 美月が、全てを壊した。


 元々、人づきあいの苦手な私は高校に入ってもクラスで孤立していた。休み時間は専ら読書で時間を潰す。

 「ねぇ、何読んでるの?」

 そこへ声を掛けて来たのが美月だった。美月は学年でも可愛いと評判で、誰とでも仲良くなれる人懐っこさがあった。どうしてこんなに違うタイプの子が私と仲良くしてくれるのだろう、と疑問だったがともかく彼女は私の初めての「友達」となった。

 彼女は明るく、私を人の輪の中に連れていってくれた。友達がいる、という楽しさを与えて貰った。


 だが、ある日それは呆気なく壊れる。放課後、本を返しに図書室へ行くと閲覧コーナーのテーブルに美月と数人の男女がいた。声を掛けようか迷っていると、彼らは私には気づいていない様子だった。

「美月、なんであのブスと仲良くしてんの?」

 あのブス…きっと私のことだ。美月の周りは派手でお洒落な生徒が多かったから。

「あぁ、それは…」

 美月が口を開く。必ず、庇ってくれる。だって彼女は事あるごとに「親友だもんね」と言ってくれたじゃないか。


「引き立て役?アイツ、ちょっと友達ヅラしてやったら調子に乗るから面白くて」

 全身の血の気が引いた。ギャハハという嫌な笑い声が耳にこだまする。

「この間、ノート借りた時も何かノートのすみに下手なイラスト描いてあってさ。」

「アイツ授業真面目に聞いてる様で、バカなんだよね、化学なんて19点だったってよ。」

美月の私に対する暴露はとどまるところを知らなかった。

 「それに見てこの、メール。あのブス、現国の藤堂に気があるらしいよ。」

 「うわ、キモい!」

 私は本の返却もせず、彼らに気づかれないように図書室を後にした。


 美月は私の親友なんかじゃなかった。全部、二人だけの話じゃなかったのか。こうやって私をネタにして、みんなで笑い者にしていたのか。


「美月は…友達じゃなかった。」

いつの間にか私は高校生の私を抱きしめていた。

「そうだね。アイツは私を見下して馬鹿にしていた。」

「藤堂先生のことだって…」

 チクリと私の胸が傷んだ。そうなのだ、9年前の自殺には藤堂先生が関わっていた。


 藤堂先生は新卒の国語教師だった。ガタイがよく、国語教師というより体育教師がしっくりくるような雰囲気だったが、大学では文芸サークルに所属していたらしく、授業も作家の裏話などをよくしてくれ、国語だけは得意だった私には彼の授業は楽しみだった。

 ある授業のあと、先生に呼び出された。前回の課題だったレポートについてだった。

「このレポート、凄く良かった。着眼点がいい。なるほど、って感心したよ。」

 褒められた経験の少ない私には舞い上がるほど嬉しかった。それに、私は密かに作家になりたいという夢があった。先生のいた文芸サークルからは小説家デビューした学生が何人かいると聞いて、その大学に行きたいなと思うようになったのだ。

 だが、当然というか、母には反対された。「文学部なんて役に立たない!就職に不利じゃない。大体あなたの成績で大学なんて…」

とても、作家になりたいから、とは言える雰囲気ではなかった。

 けれど、目標が出来たことで落ちこぼれではあったが、少しずつ努力するようになれた。当然、現国は成績が上がった。

 決して恋ではなかったけれど、藤堂先生に憧れていた気持ちはあった。だから美月に「好きな人いるの?」とメールで聞かれた時に「好きとは違うけれど、藤堂先生には憧れるかな」と、返したのだった。


 図書室での一件以降、クラス内で私の国語の成績がいいのは「藤堂に色目を使っているからだ」と噂が流れた。噂の主は美月だろう。私はもちろんそんなことはしなかったし、否定もしたがクラスの中心人物たる彼女に誰もが賛同しているようだった。


「後で職員室に来なさい」

と、藤堂先生に言われたのは二年生の9月の事だった。先生に色目を使っているという噂が流れて久しく、もしかしたら先生の耳にも入っているかも知れないと、不安で先生の机を訪ねると、意外な事を言われた。

「進路は考えてるか?」 

「いえ、私は成績もあんまり良くないし」

先生の出身大学に行きたいとは言い出せなかった。

「お前、国語の成績は凄くいいし、レポートも毎回面白いんだよな。」

「はぁ…」 

「俺の出身大学の話したろ?あれ、お前に合ってるんじゃないかと思ってな。指定校推薦の枠があるから、狙ってみないか?」

 思いがけない言葉に驚いた。まさか、先生が後押ししてくれるなんて…まだ成績も足りないし、決定したわけでもないのに喜びで胸がいっぱいだった。

 よし、あと一年ある、頑張って成績を上げて指定校推薦を取ろう。母も説得しよう、指定校推薦をとれる位成績が上がればきっと納得してくれる。そう強く決意した。


 その矢先だった。

 藤堂先生にラブレターが届くという事件が起きた。差出人の名前は、何と私。もちろんラブレターなんて書いてはいない。イタズラだ。だが、巧妙にも文章はパソコンで打たれており、筆跡での言い訳はできず当然私は追及を受けたが、例の噂の件もあり、クラスだけではなく教師からも白い目で見られた。とにかく、私は潔白だと訴え続けるしかなかった。

母までもが呼び出され、担任、学年主任、と面談がなされた。

 自分の書いたものではない、と訴える私を母は平手で打ち、「恥知らず!」と叫んだ。


 目の前が崩れていく感覚に襲われたのは平手打ちが原因ではなかった。これから拓けると思った道が真っ暗に閉ざされてしまったからだ。

「誰も味方してくれなかった…」

 私の腕の中で一層の嗚咽が聞こえる。私自身、再び胸が締め付けられる感じがする。そう、誰も味方はいなかった。

そして、脱け殻の様に過ごした後、自室で手首を切ったのだ。


 「あのラブレターを出したのは美月だよ。あんたはまだわからないだろうけど、あの大学の推薦をとったのは美月だった。」

9年前の真相を告げる。

私の自殺は部屋に夕食ができたことを呼び掛けにきた祖母に発見され、未遂に終わるのだ。自宅でのことでもあり、母も学校には報告しなかった。「これ以上私に迷惑掛けないでね。」と冷めた目で言われた。それからは学校にも行けない日が増えていった。体が拒否しているのだ。

 その後、藤堂先生の大学への推薦は美月に決まったと、本人から聞かされた。

「一般で受かったら、私達また同級生だね!」

 いかにも親しげに伝えてくる。あんたが全て壊したくせに。


「私には、もうなにもない」

「それでいいのかよ!」

 私の中で怒りが再燃してきた。美月へ?母へ?…いや、自分自身だ。目の前にいる、泣きじゃくってばかりのこのブスへだ。


「聞け!このままお前は助かる。でも今のままじゃ、また9年後に同じことの繰り返しだ!だから私とお前が今ここにいるんだ!」

この邂逅にはきっと意味がある、目の前の自分を、私と同じ道を辿らせない為にだ。

「美月を友達だと思うか?」

目の前の私は首を振った。

「アイツは私を見下して笑い者にするようなクズだ。挙げ句私を陥れた。アイツとは関わるな。…それと、諦めるなよ。作家になりたいんだろ?一般でもいい、浪人してもあの大学目指せ。」

「でも、お母さんが…」

「この事件の後、あんまり干渉してこなくなるから。」


 高校生の私はいつの間にか顔を上げて私を見つめていた。鏡のようにピタリと視線が合うのはお互いが自分自身だからか。

左手の出血は止まり、じっと強い目をこちらに向ける。

「大丈夫、これから巻き返せるよ。だって高校受験の時だって、無理って言われてた学校に受かったじゃん。…努力できる人間だよ。あんたは」 

 こんな風に言ってくれる相手が、欲しかったな。そんな相手がいたら私も変われたのかも知れない。




 「黄色い線の内側にお下がり下さいー」

駅のアナウンスが聞こえる。

 今までいた空間は白昼夢か?走馬灯か?どちらでも良かった。過去の私を救えたなら。一番欲しかった言葉を与えられたなら。


 過去の私、きっとあんたは変われる。だから、あんたの未来は、私じゃない。

私はここで終わらせる。これが私なりの決着だ。

 美月が私の名前を呼んでいる。私は振り返って彼女に手を伸ばした。


 電車がこちらへ向かってくる。

「美月!あんたは許さない!」

 渾身の力を込め、美月の体を線路へ引きずり出した。


 私の未来に、あんたは必要ない。あんたは過去のなんて忘れているだろうけど、私に二度と危害を加えないように、あんたは道連れだ。



 翌10月28日 

10月27日午前7時頃、線路に落ちた女性2名(共に27)が死亡。周囲の証言によると二人は知人関係にあり、目撃者の証言によると事故の直前に口論をしている様子だったととの事で、警察は事件事故両面から捜査を進めている。(毎朝新聞朝刊埼玉県版より抜粋)


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救済 黒月 @inuinu1113

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