井端さん

中頭

第1話

 物心ついた時から、彼女はそこに居た。視界の端で白いワンピースを着て、真っ黒な髪を揺らしている。目は一重で、唇は薄く、何処か幸が薄そうな顔をしていた。けれど、だからと言ってか弱い雰囲気はなく、どちらかというとクールに見えた。

 母に「あの人は誰?」と尋ねたことがある。

 スーパーで買い物していたとき、私は母の服を引っ張り、店内にいた彼女を指さす。母は視線をそちらに投げ、やがて「あぁ」とひとりごちるように呟いた。


「井端さんよ」


 いばた。苗字を何度も頭の中で咀嚼する。その後、母は興味なさげに惣菜や牛乳を手に取り、カゴへ放り投げた。「行くわよ、あやな」。そう言い、母は手を引く。

 私は振り返り、何度も彼女の姿を確認する。井端と呼ばれた女はその場から一歩も動かず、私の方をぼんやりと眺めているだけだった。

 「井端」。名前がわかってしまえば、彼女にも恐怖心を抱かない。部屋の中、ベットに潜り込み眠りにつこうとした私を見下ろしていても、なんとも思わなかった。


「井端さん。家に帰って、寝ないの?」


 私の問いに、彼女が頷く。やがて、ドアを開け、階段を降りていった。その音をベッドの中で聞きながら、寝返りをうつ。玄関のバタンとしまる音を聞き届け、瞼をとじる。井端さんがいい夢を見ますように、と願いながら小さく微笑んだ。

 中学生になっても、高校生になっても、彼女は視界の端に映っていた。ひっそりと佇む彼女は授業中に私のノートを覗き込んできたり、下校中、後ろをついてきたりする。その度に「井端さん、暇なの?」と笑った。彼女は何も答えず、私の目を見つめる。

 私は、彼女が好きだった。なだらかな胸の膨らみだとか、年齢相応に弛んだ二の腕とか。薄い尻だとか、ワンピースからのぞく踝だとか。そういう性的な部分に興奮したり、惹かれたりしていた。

 別に欲求不満なわけではない。同級生の女子生徒(または男子生徒)を見て、興奮したりしない。テレビに映る綺麗なタレントを見てもなんとも思わない。

 気がつけばそばにひっそりと佇む井端さんにだけ、この感情を抱いていた。


「井端さん、一緒においでよ」


 放課後。友達とよく行くファストフード店のテーブル席に座り、私は手招きをした。店の端で佇む井端さんは、まるで背景のように溶け込んでいる。周りの人間は彼女が見えていないかの如く、存在を無視していた。

 隣にいた有紗が唇を曲げる。


「えぇ、いいじゃん。井端さんは座らなくても。どうせ、またどっかに消えるでしょ?」


 そう言われ、私はムッとした。確かに井端さんは常にそこにいるわけではない。気がつけば居て、意識を逸らせば消えてしまう。

 彼女は気まぐれだが、けれど、だからといって蔑ろにはできない。


「そんなことよりさぁ」


 話を遮るように有紗と隣に座っていた菜穂が口を挟む。そんなことより、と言われ、片眉を上げたがこれ以上言い争いになるのも気が引けたので口を噤んだ。

 テーブルの上に置かれたフライドポテトを喰みながら、横目で井端さんの方へ視線を投げる。彼女の姿はすでにそこになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る