不気味の谷にサク上弦の月

八゜幡寺

1.

 扉を開けると、赤くブヨブヨとした肉質の廊下が広がっていた。

 瑞々しいヒダが定期的に蠢いていて、グロテスクな印象しかないのに、どこか艶めかしい。


 昨日は、この廊下を渡った三人。

 誰一人として戻っては来なかった。


 私は、そんな気持ち悪い扉の先へと、一歩踏み込んだ。

 見た目通りの弾力が靴の裏から感じ取れて、ゾワっと背筋が凍る。

 どこまで続いているのか、分からない。

 ……どんな脅威が待ち受けているのか、分からない。


 昨日は三人死んだ。

 一昨日は五人死んだ。一人生き残った人がいるけど、彼は何も持たずに逃げ帰ってきた。


 そして今日。私の順番が回ってきた。

 行きたくない。怖い。気持ち悪い。

 だけどもう、とっくに食料が底をついている。


 この『肉ヒダの回廊』の先には、食糧庫がある。

 なんとか、背負うリュックいっぱいに詰め込んで、生きて帰らなければ……。


 ……じゃないと、一昨日生き延びた彼みたいに、リンチを受ける。女の私の場合はそれに加えて、男性陣に輪姦まわされる。どの道、逃げ場はないのだ。

 



 ここがどこだかは分からない。内観は、まるで豪邸の大広間。

 外には出れない。玄関には鍵がかかっていて、壊そうとしても傷一つつかない。


 デスゲームっていうらしい。

 この屋敷で、二ヶ月間。生き残ることが出来れば、10億円と共に解放される。


 ……らしい。

 私は眠っている間に、訳も分からずここに放り込まれて、まだ一週間目の新人だから、この話は先住者から聞かされた話に過ぎないので、定かではない。

 教えてくれた人は、その日に死んだけど。


 それにこの一週間。

 解放された者はいない……。死ぬこと以外で……。


「初めてだろうけど、頑張れ、嬢ちゃん。大丈夫さ、うまくいく」


 緊張を見抜かれて、背中をポンと叩かれた。

 振り向くと、無精髭のおじさんがエールを送ってくれた。名前は……さっき、食料調達員として、私と共に名前を呼ばれてた……そうだ、田中さんだ。


 田中さんは、この食料調達を四度成功させている。一ヶ月以上生存しているベテランだ。

 経験者がいるのは、少しだけ、安心する。


 ……ただ、昨日の三人も、みんな、一ヶ月以上生き延びていた人達だったんだけど……。


 昨日のベテラン三人全滅。一昨日もほとんど死んでしまって、食料調達失敗。

 私が来た時には、この広間には四十人居た。毎日、食料調達に出れば最低でも一人は死んでいたけど、全滅は昨日が始めてだった。二日も食料調達できなかったのも、これが初だ。

 私よりも前に来ていた人達の焦りようから見ても、これが異常事態であることはすぐに理解できた。


 この二日間、少ない貯蓄を少しずつ食い潰していた。

 だからみんな、お腹が減って、機嫌が悪い。

 だから……こんなことを平気でしてしまう。


 ──総勢、十一人。

 田中さん以外の十人全員、私も含めて、一週間前にここへ連れてこられた初心者だった。

 経験者は田中さん以外、誰一人いない。

 数による物量作戦。それも立場の弱い新参者ばかりを集めた投げ捨て作戦……。

 

「よし、いいか皆、聞いてくれ。俺は今回の食料調達班のリーダーを務める田中ケンジだ。過去に四回、食料調達を成功させている。だが、『俺の言う事を絶対に聞け』なんて事は言わない」


 皆の前で説明を始める田中さんに、怪訝な顔をする有名の新参者。

 私としては、経験者である彼に頼るのが一番だと思うのだけれど、突然知らない人に上からモノを言われるのは、気に食わないと思うのも一定数いるのだろう。

 彼らの顔をうかがい、うんうんと頷く田中さん。


「もちろん、経験則からの指示は出させてもらうが、各自、己の勘に従ってくれて構わない。なぜなら、俺と同じく数回の成功実績がある奴らは昨日、三人まとめて死んじまった。……これまでの経験が通用しないと考えるのが自然だろう」


 まあそうだ。確かに。なんて相槌が聞こえる。

 ニヤニヤと笑ってバカにするような表情を見せる人もいて、感じが悪い。

 だけど田中さんも、負けじと笑顔で返す。


「反骨精神大いに結構。たが、最低限覚えてほしいことかある。これだけは肝に銘じて、行動してほしい」


 死にたい奴は耳を塞いでていいぞー。なんて言われて、感じの悪い人たちは悪態をつきつつも、きちんと話を聞く姿勢になった。


「まず、この『肉ヒダの回廊』をある程度進むと、モンスターが現れる。全力で逃げろ。殺されるぞ」


 モンスター。それを言われても、いまいちピンとこない。

 だけど実際に食料調達に出て、二度と戻らない人たちは数多くいる。モンスターと呼ばれるナニカがいるのは確かだ。


「次に、モンスターは『食料を持っている人間を優先的に襲う』傾向にある。もちろん持ってなくても襲ってくるが、食料を手にしたらさらに苛烈さを増す。命がけで逃げろ。八つ裂きにされるぞ」


 つまり、行きよりも帰り道の方が遥かに難易度が高いということ。

 食料をゲットして終わりじゃないんだ。この広間に無事に帰ってくるまで、絶対に気を抜けない……。

 皆の顔が引き攣る。私もきっと、同じ顔をしているだろう。緊張で、汗が噴き出す。

 そんな私たちに、それでも田中さんは、力強い言葉でもって激励してくれた。


「最後に……生き足掻け。絶対に諦めるな。必ずみんなで、生きて帰ろう」


「は……はいっ」


 その勇気付けの言葉に返答したのは、私だけだった。

 ……ちょっと恥ずかしい。

 そしてとうとう、動き出す――。


「よし、行くぞ。走れ走れ、俺に続けっ」


 血気盛んに田中さんは駆け出した。ワンテンポ遅れて、私たちも置いてかれまいと走り出す。足元がブヨブヨで走り辛い……!


「モンスターは毎回何が出てくるかはわからない。だが、序盤に出てくるのはゴブリンかスライムだけだ。雑魚だし力も弱い。体力が無いから走ってたら勝手に撒ける」


 まるでゲームに出てくるような、デフォルメされた愛らしいモンスターの姿が脳裏に浮かぶ。いやいや、人を殺すようなモンスターがそんなわけ……。


 ベチョ。

 不意に、隣を走る人の方から、水に濡れたような音を響かせた。何事かと、横を覗くと、そこには、おぞましい光景が広がっていた。


 水の球体があった。

 半透明なそれは、隣にいた女性の頭部をすっぽりと覆っていて、それで、驚愕に目を見開くその女性は……たんだんと、溶けていっていた。

 皮膚がただれて、眼球が白く濁っていく……。


「んんーっ! んーっ! ああああああああっ!」


 女性は水球の中で悶え叫び、ゴボゴボと泡立たせる。半透明だった水球は白く濁り、そしてゆっくりと、赤色に染まっていった……。


「何をしている、足を止めるな」


「ひっ!」


 田中さんの怒声。一喝されて、ビクンと現状を再確認する。

 膝から崩れ落ちた彼女とともに、足を止めていたことに、今更ながら気がついた。


 ……助けないと!

 そう思った私の手を、田中さんがぐいと引っ張った。強制的に、その場から離れてしまう。


「あれはもう助からん。お前も死にたいのかっ。走れっ」


「え、あ……は、はいぃっ」


 え? 助からない? 死んだ?

 混乱する頭の中、ただ生存本能が、全速力で足を動かした。


「みんな、頭上に注意しろよ。スライムは天井から降ってくる場合もある。頭に落ちた時だけ不運だったと諦めるしかない」


 目、耳、鼻、口。穴という穴に入り込み、内部から溶かされる。

 手足だったなら振り払えたろうに……。


「そんな……こうもあっさり、人が死ぬなんて……」


 ふつふつと湧き上がる恐怖心に、歯がカチカチと鳴った。寒くもないのに、震えている……。


「絶望なんかしている暇はないぞ。奥に進むと扉が二つある。だが一つは袋小路。モンスターが待ち構えるニセモノの扉だ。見分け方は簡単。最初に見えた扉が罠。奥にあるのが正解だ」


「どうでしょう。その判断基準が、この二日間の悲惨な結果なのでは? 僕はこっちが怪しいと思います。僕を信じる方は付いて来てください」


 黒縁メガネをかけた青年が、ここで異を唱える。

 人が死んで、仲たがいしてる場合じゃないのに、どうしてそんなことを言うのか不思議でならなかった。

 だけど、青年には賛同者がいた。


「オレも、オレも行くぞ! スライムがザコだなんて嘘をついた奴を信じられるか!」


「私も! なんだか、手前の扉の方が怪しいと思う!」


 二人に背を押されて、余計に強気になる黒縁メガネの青年。

 意見は曲げてくれそうにない。はあ。と田中さんはため息をついた。


「……確かに、俺の経験が間違っているかもしれない。いいだろう、止めはしないが……罠だと気付いたらすぐに引き返すんだぞ」


「心配いりません。こっちが必ず正解です。では」


 走りながらの問答。やがて、田中さんが言っていた扉が見えた。

 黒縁メガネの青年は二人の賛同者を引き連れて、扉を開け放つ。もしかしたら本当にあっちが正解なのかも……なんて不安から、彼らを見送った。


 ――三人が扉を開けた瞬間。黒縁メガネの青年の口が、あり得ないくらい大きく開かれたかと思うと、ついてきた二人を、あり得ないスピードで扉の中へと連れて行ってしまった。


「……あれがゴブリンだ。人間に成りすまして、罠に誘導する」


「田中さん……、知ってて、何も言わなかったんですか!?」


 振り向いた彼は、本当に冷たい眼差しをしていた。

 背筋が凍るような、まるで、最初に激励してくれた田中さんとは別人のような気がした。


「ゴブリンは正体をバラされると、一目散に罠の扉を開けて、大量のモンスターを呼び寄せるんだ。そうなったら全滅していたかもしれない。仕方なかったんだ」


 田中さんの言うことは理にかなっている。きっと、それが正解なんだと思う。

 現に私たちは、田中さんの言う通りに動いて、それで生きていられている。彼を信じるほかない。

 そして、間もなく二つ目の扉を目つけた。田中さんのいう、正解の扉。


 だけどそれは、さらなる過酷なコースの入口に過ぎなかった。

 扉を抜けた瞬間、また新たなモンスターが飛び掛かってくる!


「ひっ、ゴキブリ!? いやあああああああ!」


「うわあ! こいつら速えぇ! ぎゃっ! 噛まれたぁ!」


 足を踏み入れた瞬間、無数のゴキブリが襲い掛かってきた。

 体長は人間一人と同じくらい巨大で、カサカサカサカサと、俊敏に動き回る。


 噛み付く口元は、まるで人間のように唇があって、白い歯が剥き出して……!


「女性陣はこいつらから死ぬ気で逃げろ。捕まれば、食われながら苗床にされるぞ」


 苗床……!? このグロテスクなゴキブリに、まるでカマキリのように、喰われながら孕まされるなんて……!


「え、え? 嫌! 絶対にいや!」


「頭だっ頭を潰せ。そうすれば少なくとも食われることはないっ」


 それを言う田中さんの横を、目にも止まらぬ速さで過ぎ去る影があった。

 私の頭すれすれでも過ぎ去ったそれは、そして後方からの絶叫を発生させるのだった。


「ぎゃああああっ! たすっ、たすっげえっ!」


 絶叫は、後方で聞こえたと思ったら、上空に飛び上がり、とても手の届く範囲から聞こえてくる高さじゃないことを、視認する間でもなく理解した。

 だけど、何が起こったのか、この目で確認しないわけにもいかない。モンスターの攻撃に合ったことは間違いなく、そしてまだ声はしている。助けられるなら、助けなければ……!


 目に映るのは、尾が長く、二対の薄い羽を無音で羽ばたかせる、黄色と黒の縞模様。


「なにっトンボ型のモンスターなんて、見たことないぞ……いや、聞いたこともない」


 トンボのモンスターは、その昆虫の体から生えた六本の腕で、女の人をがっちり掴んで、肩口に、人間のような口で、かじりついていた。


「ああああああああ! 痛い痛い痛いいいいいいいっ!」


 やっぱり、まだ生きてる!

 どうにかしないと!

 そう思う私とは裏腹に、田中さんは、冷静に状況を分析していた。


「……どうやら一匹だけのようだな。食事スピードも遅い。あいつに犠牲になってもらっている間に、食料を取りに行こう」


「た、助けてあげられないですか? 物を投げたり……」


「助けたら……今度はあの目にも止まらぬスピードで、俺たちの誰かがやられるぞ……諦めろ。むしろこのチャンスを活かすんだ。あいつの食事が終わる前に広間に戻ろう」


 チャンス……? いや、田中さんの言うことはもっともだ。なんら間違っちゃいない。

 トンボにばかり気を取られても、足元のゴキブリだって注意しなくちゃいけない。油断なんてできない状況、ましてや人助けになど、意識を割いている暇はない。

 でも、そんなこと……わかってはいるけど……!


「……はい……」


 何もできない自分に対する不甲斐なさに、下唇を噛んで、田中さんに同意した。

 ゴキブリを掻い潜り、足を止めることなく、駆け続ける。

 ふと、ゴキブリの数がだんだんと減っていることに気が付いた。もう少し進むと、完全に、個体数はゼロとなる。

 走る速度も、それに合わせて、徐々に落ちてくる。

 間もなく、突き当りに行き付いた。


 ……どっと噴き出す汗。

 呼吸が、浅い。どれだけ繰り返しても、涙が出るくらい、息苦しい。

 まだだ。気を抜くな。座り込みたい衝動を、決死の覚悟で堪えきる。


「ここからは、二手に分かれてある。そして、どちらにも食糧庫がある……が……」


 はあ。はあ。唾を飲んで、呼吸を一旦整えてから、田中さんは言葉を続ける。


「片方は大量のモンスターが巣食う罠だ。もう片方が、モンスターなんていない、本当に正解の道」


 食糧庫の前に待ち構えるモンスターは、これまで見てきた奴らとは別格で強く、恐ろしい。だけど過去に一人だけ、不正解のルートを選んでなお生還した者がいるという。

 というのも田中さんの実体験らしく、田中さんが選んだ正解ルートとは反対に向かったはずの調達員が、平然と食料調達を終えて一緒に帰ってきたんだとか。

 だが、それはあくまで特例。その人物が異常過ぎるだけと田中さんは言った。

 その人物は現在、もっともデスゲーム攻略に近い男と呼ばれている……。


「俺はこれまでの四回とも、右を選んで、正解ルートだった。だが、左に進んで正解だった奴もいる。どっちが正解かは、正直、わからない。だから……君たちの、新参者の勘にかける。そして俺は、君達とは反対のルートを進む」


「そ、それじゃあ田中さんは、もし罠だったら……!」


 真剣な面持ちで、彼はこくりと頷いた。


「どっちかが、確実に食料をゲットできる。これが確かな方法だ。どっちだろうと、恨みっこなしだ」


 それを聞いて、私達、新参者の数人は、顔を見合わせた。

 ……ここでようやく、一人、見当たらないことに気付く。一心不乱に走って。他人にかまけている余裕なんてなかった。

 ゴキブリにやられたんだ。気付かなかった。ああ、金髪の女性の人がいない……。


 この場にいるのは六人。

 たった六人。ここまでの道のりで、半分近くがいなくなった……!

 ああ、だめだ、嘆いてる暇はない。ここはモンスターの巣窟だ。いつまた、凶悪なモンスターが現れるのか、分からない。気が抜けない。泣いてる暇はない。


「俺たちはじゃあ……右のルートに行く!」


 話し合いなんてするまでもなく、一人の若者がそう言った。

 筋肉質で、息切れもしていない。リーダーシップがありそうな男の子だ。

 彼が言うのであれば……と、他の皆も、無言の肯定を示す。


「わかった。なら俺は左だ。いいか。食料をバッグ一杯に詰めたら、すぐに広間まで戻るんだ。絶対に振り向くな。スピードを落とすな。……何を犠牲にしてもだ……」


「……待って! 私は、田中さんといく!」


 咄嗟にそう答えてしまった。

 いや、これは直感だ。田中さんは、最初に、勘を信じろと言っていた。

 だったら私はここで、自分の勘に頼る。

 それに、もし罠にかかって、一人で死ぬのは、ここまで世話を焼いてくれた田中さんがあまりにも悲しすぎる……。


「いいのか?」


「一人よりも、二人の方がモンスターの気が散って、生き残る可能性が高いと思うんです。こっちが不正解だったとしても、頑張って食糧庫まで辿り着きましょう」


「嬢ちゃん……ありがとう」


 私達は、互いに不安を拭えない表情で別れた。

 覚悟を決めて、バクンバクンと跳ねる心臓の鼓動に身を任せて、闇雲に走る。


 ──モンスターは、出てこなかった。


「こっちが……正解の道だったんだ……私達、助かった……?」


 目の前には、なんとも、場違いなふすまがあった。

 急いで開け放ち、中に入る。

 これまでの『肉ヒダの回廊』のブヨブヨ床からは一変して、無機質な打ちっぱなしのコンクリートが四方を囲んでいた。

 そして、山程の食料が、乱雑に詰め込まれている……!


 肉や魚は生のものから、加工済みのものまで、多種多様。野菜も瑞々しく新鮮なものがずらりと並んでいる。

 あと、水! 飲み物!

 ジュース、炭酸、お茶もコーヒーもある!


 バシっと背中を叩かれる。

 痛っ……。


「ぼけっとするな。ありったけ食料を詰めろ。ここで少し食べていってもいいが、あまり食べ過ぎると腹が重くなって走れなくなるぞ。帰りの体力を最低限まで回復させたら、すぐに帰るぞ」


 田中さんはそういうと、まず飲み物からリュックに詰め込んでいった。

 そうだ、うかうかしてられないんだ。私も積めないと……ああ、でも、二日ぶりの……!


「は、はい! はい! う、う、お、おいしい、おいしいよぉ……!」


「ああ、水もうまい。うま過ぎる……。くっ、はやく皆にも飲ませてやりたいな」


「はいっ!」


 自分で言うのもなんだけど、まるでケダモノのように、そのまま食べれそうなモノをとにかく口に詰めた。

 ああっ! お菓子もある……! うそ、信じられない。このチョコバー! 私が大好きなやつ! 持って帰ろう! 絶対に生きて!




「──よし……行くぞ。いいか、帰り道はより過酷だ。反対側にいた、最大級に凶悪なモンスターも、こぞって追いかけてくる。絶対に、生き延びるんだ」


 こくと頷いて、食糧庫の襖を開け放った。二人で共に駆け出す。

 みんなと別れた場所までは、すぐに到着した。


 ──そして聞こえてくる、阿鼻叫喚の音色。


「ぎゃあああああああああ!」


「助けて! あああああああああああああああああ!」


「ごめんなさいれ ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさああああああい!」


「反対に行った人たちが……! ううっ!」


「よしっ、彼らが足止めしてくれているうちに……急ぐぞ。もたもたしてられない」


「え……?」


 田中さん、今、「よし」って言った……?

 仲間の悲鳴を聞いて、安堵していた……?

 私の不信感をよそに田中さんは走っていく。私も、後ろ髪を引かれながらも……生きるために、彼についていく。


「トンボは……よしっ、よしよしよし! まだ餌に夢中だ! イケる! イケるぞ! はは、ははははははっ!」


 再びゴキブリが蔓延るゾーンへと突入した私達の頭上で、未だに……悲鳴を上げ続ける声が、上空から聞こえてきていた。

 したたる血飛沫が辺りに飛散し、ゴキブリもそれをベロベロと舐めとるのに忙しいようで、私達へ向かってくる固体は行きよりも少なかった。


 そんな状況で、田中さんは、とうとう、感情をあらわにした。

 蔓延るモンスターと、同じ嫌悪感を、彼に抱いた。


「田中さん? なんで……笑ってられるんです……?」


「はは? ああ、すまない。不謹慎だったね。だけど、今回も、生きて帰れることが嬉しくて……! すまない、自分勝手だが、やっぱりどうしても堪えきれない! うはははは! 今日も生き延びれる! 食料もある! 最高だ!」


 すっかり浮かれてしまっている。

 確かに、これまでの道のりを考えれば、ここまでくればあと広間まではあと少しだ。

 ……気持ちは、わかる。わかってしまう。

 それも含めて、気持ち悪い……。


「まだです。気を……引き締めましょう。みんなに食料を届けましょう!」


「ああ、ああ。そうだな。急ごう。ははっ」


 グチャ。と寄ってくるゴキブリの頭部を踏み潰して、田中さんは走るスピードを上げた。

 私は、足元のぶよぶよに加えて、リュックの重さも想像以上にのしかかってくる。思うように走れない。なんとか、彼の後ろを無我夢中で追いかけた。

 扉が見える。『肉ヒダの回廊』の最初のステージへの扉だ!

 ゴキブリに注意しつつ、無事にそこを抜ける。あと、あと少し!




 ――ギャハハハハハ!


 背後で聞こえる、不気味な笑い声。

 途端に、身体が硬直する。出鱈目な恐怖心が沸き起こった。だって、私の背後にはもう、生きて帰れる人はいない。少なくとも笑い声を上げられるような人なんて、いるはずがない。


 振り向いちゃいけない。絶対に、そこにいるのは、とてつもないバケモノだ。

 さっさと走り去ってしまう方がいい。そんなのわかっている。

 だけど……ダメだ。振り向いてしまう。


 それは好奇心。それは猜疑心。それは希望的観測。

 待っているのは絶望だと、本心ではわかっているのに、私はそれらの心を止めることができなかった。どうか、私がこれまで見捨ててきた人が、自力で戻ってきたんだと、わずかな希望を胸に、振り向くのだ。


 そして案の定、後悔する。

 私が通り過ぎた、扉のその奥に、何か、人の形をした……でも決して人ではないナニカが、笑いながら走ってくるのだ。


「え……な、なにあの、バケモノ……!?」


 足がすくむ……! そんな腑抜けた足をぶん殴って気合を込めて、全速力で、バケモノ共と反対方向に舵を切った。

 田中さんも私と同様に、まるで人のようなバケモノの笑い声に振り向き、後悔していた。その証拠に、まだそれほど私と距離が広がっていない。足を止めて、目視してしまったのだ。


 気合を入れた分、私はだんだんと、田中さんに追いついてきた。

 すると、彼はひねり出すように、口を開いた。


「ヒトモドキ。俺たちは、あのバケモノ共をそう呼んでいる。食糧庫の番人であり、食料を手にした者を、あの不気味な笑顔で追いかける……だ、だが、あっちに行ってくれた奴らのおかげか、現れるタイミングはいつもより遅い! 勝てるぞ! 走れ走れ! もうすぐゴールだ!」


「ハシレハシレ! モースグゴールダ! アヒヒヒヒヒヒヒ!」


「――え?」


 田中さんが自分を鼓舞するように叫んだ言葉は、しかし、素っ頓狂なおぞましい声色で、オウムのようにリピートされた。

 私のすぐ背後。人が喋っているようで、絶対に人の声じゃない。背筋がぞわぞわとする音色……。

 咄嗟に振り向く。


 ――その、犬のような外観は毛がなく、四足は異様に細長く、人の顔をしていた。

 鼻面が長いのに、鼻先は尖って、口には牙ではなく人間のような歯が並んで、ニタニタ笑っている。なにこれ、気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 不気味の谷が迫りくる!

 ヒトの形をした、絶対にヒトではないナニカの存在に、感性がトチ狂う! 喉がヒリつく……!


「きゃあああああああああああああああああああっ!!!」


「ヒトモドキ! そんな、こんなにも足が速い個体なんて!? あと、あともう少しなのにいいい!」


 見てしまった。さらに吐き気さえ催す気味の悪さ。犬の体は、両脚とも……いや、その四足は、全部腕だった。

 四本の腕で走っていた。き、気持ち悪い!


 遊び半分の子供のようにギャハギャハと絶えず笑うヒトモドキ。だけどやがて、弄ぶように私の真後ろをついてきていた四足歩行は、ゆっくりと二足歩行に移行し、前の両手で掴みかかってくる。

 あああああ、田中さんよりも遅い私が狙われてる! そんな! そんなあ!


 両手を伸ばして、だんだんと、だんだんと近づいてくる!

 走っても走っても! 追いつかれる! 嫌だ! 嫌だ! そんな、あともう少しなのに!


「――嬢ちゃん! 俺にリュックを渡せ! 軽くなれば……もっと速く走れるだろう! 早く!」


「田中さん!」


 ああああ! 田中さんが助けてくれる! 涙で、視界がぼやける!

 でも感動してる暇はない! 急いで、リュックを肩から下げた。少しスピードを落としてくれた田中さんの手がこちらに伸びて来る。私は、その手に、投げるようにリュックを託すのだった。

 見事にキャッチしてみせた田中さんは、軽々とそれを肩に引っ提げて――。


「よしっよくやった嬢ちゃん! ――じゃ、さよならだ」


 田中さんは、激励と共に、馬のように後ろ足で私を蹴り上げた。

 突然の衝撃に、呆気なく尻餅をつく私……。


「た、田中さああああああん!」


「悪いな嬢ちゃん。これも、待ってるみんなのため。犠牲になってくれ」


 走っていく田中さん。一瞬、何が起こったのか、わからなかった。

 だけど、瞬時に、頭が高速で回り出す。そうか、田中さんは、私を生贄に、自分だけ助かろうと――。

 



「違うっ田中さん! モンスターが狙う優先順位は――!」


 モンスターは、『食料を持っている人間を優先的に襲う』!

 一番最初に、田中さんが説明したことだ。


 そして、ヒトモドキは、その言葉通りに、私を飛び越して、あっという間に田中さんを羽交い絞めにした。重いリュックを二つも背負う彼のスピードは、極端に低下していたのだ。


「サヨナラダ! サヨナラダ! アーッヒャヒャヒャヒャヒャー!」


「へ? あ、う、うそだ……嘘だぁあああ! へあああああ……!」


 犬型のヒトモドキは田中さんの首根っこを掴むとケタケタ笑いながら、『肉ヒダの廊下』の奥へと消えていった。

 食料も、一緒に……。


「取りに戻らな……ひぃ!」


 ギャハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!!!


 田中さんが、リュックを落としていってくれていないか、振り返る……。

 視線の先には、様々なヒトモドキが、今回の探索者全員の顔を胸の前に掲げて、私を見ながら笑っている。大小さまざま、膨れていたり細長かったり、どれもが人とは絶対に違う存在なのに、顔は異様に、人間臭い。


 そんな不気味の谷の住人共が、私を見て、笑っている。

 犬型のヒトモドキも、田中さんの悲痛な顔を、ぶら下げて……。


「いやあああああああああああああああああああああああああああ!!!」


 戻れるわけない! あんな地獄に! 急いで、死に物狂いで、広間まで駆け抜けた。

 開け放たれた扉が見える。すがるように駆け抜けた。


「おい、大丈夫か!」


「よく戻った! で、食料は……」


 誰もが私の帰還を……いや、食料が来ただろうことを喜んだ。

 だけど、私がリュックを背負っていないことに気付くや否や、みんな、表情が冷たく変わった。


 ああ、そうだった。

 食料調達できなかった私にとっては、ここに戻っても地獄──。

 体格の良い男性が、拳を振りかぶるのが見えた。

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