海霧の迷宮

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海霧の迷宮

 クルーズ船は、港を離れる瞬間からすでに煌びやかな照明で彩られていた。

 その明かりは金色に輝く糸のように甲板やマストを縁取り、まるで巨大な宝石箱が海上に浮かんでいるかのようだった。

 遠くの海面は月光を反射して銀色に輝き、まるで夜の海に一筋の道を描き出しているように見える。船のデッキからは、漆黒の天幕に無数の星が散りばめられた夜空が一望でき、星々はまるで天の川の宝石のようにきらめいていた。

 夜の海は静寂に包まれ、波の音だけがささやかに耳に届く。

 その静寂は、深い闇に包まれた別世界の入り口のようであり、無限の謎と神秘が隠されているような感覚を二人に抱かせた。

「これ、本当に豪華だね。夢みたい!」

 クルーズ船の手すりから身を乗り出すようにし、女性は子供のように目を輝かせた。

 彼女はパステルブルーのエレガントなミディワンピースを着ており、その色合いが彼女の明るい性格にぴったりだった。ヌードカラーのパンプスが足元を引き締め、シルバーのブレスレットがさりげなく手首を飾っている。

 鮮やかな茶色の髪を持ち、軽やかなハーフアップスタイルにまとめていた。スポーティな体格と活発な笑顔が特徴で、自然体な魅力を放っている。健康的な肌に、明るく輝く目が印象的で、彼女の活発さを象徴していた。

 顔立ちは整っていているが、大学生にしてはやや幼いところがあった。背丈はそれほど高くなく、平均的な女性よりも少し低いくらいである。

 名前を平山ひらやま里奈りなという。

「そうだね。まるで映画のワンシーンね」

 彼女はネイビーブルーのフレアスカートと白のレーストップスを身に着けており、その組み合わせが彼女の清楚な魅力を一層引き立てていた。ベージュのヒールサンダルが足元を美しく彩り、パールのイヤリングが知的な雰囲気をさらに強調している。

 落ち着いた黒髪を肩まで伸ばしており、前下がりボブヘアに仕上げていた。色白で清楚な雰囲気があり、知的さと落ち着きを兼ね備えた美貌を持っている。

 身長は高くモデルのような体型をしており、すらっとした手足が印象的な美人だ。

 目鼻立ちがはっきりしており、美人だが可愛らしさも兼ね備えている。

 名前を呼ぶとこちらを向いてくれるような、親しみやすい優しさを感じさせる。

 名前を大川おおかわはるかという。

 遥も感嘆の声を漏らしながら、海の上から輝く都市の光を眺めていた。普段はクールに見える彼女だったが、今は無邪気な子供に戻ったかのような笑顔を見せる。

 遥は続ける。

「それにしても、里奈がデパートの福引で一等のナイトクルーズ旅行を当てるなんて……。すごい強運の持ち主ね」

 それを聞いた里奈は少し照れくさそうに微笑んだ。

 二人は高校時代からの親友同士で、同じ大学に通っていて同じクラスでもある。

 先日、二人で大学の帰りに一緒にショッピングを楽しんでいた際に手元に溜まった福引券を使い、里奈が豪華客船のナイトクルーズの旅を当てたのだ。

 夜景の美しい都市を周遊するこのツアーは、二人が住む街からもさほど遠くない場所にあった。

 里奈はその幸運に恵まれたことを喜び、遥と共にナイトクルーズに行くことにしたのだ。

 豪華客船に乗ってのナイトクルージングなど初めての体験だったため、里奈はこの旅をとても楽しみにしていた。

 しかし、その一方で里奈は懐を痛めていた。

 なぜなら、遥が参加にあたってのドレスコードがあることに気づいたからだ。

「……お陰で、私のバイト代はすってんてんになっちゃった」

 そう言って溜息をつく里奈に、遥は優しく声を掛ける。

 それは、彼女がよくやる慰め方だった。

「良いじゃない。こんな体験めったにできないんだから。お金以上に得るものがあるはずでしょ」

 その言葉に、里奈は萎れた花が水を吸うように元気を取り戻すのである。

「そうよね。川の遊覧船とは桁違いの贅沢だし……。ともすれば、いい男との出会いもあるかも」

 そんな期待を胸に膨らませる里奈を見て、思わず苦笑する遥であった。

(まったく、げんきんなんだから)

 そう思いながらも、そんな友達の姿にどこか安心感を覚える自分に気づく。


 ◆


 船内のバンケットホールでは、夜のパーティーが始まっていた。

 クラシックな音楽が流れ始め、ウェイターたちがカクテルを運んでくる姿が視界に入る。

 会場には煌びやかな衣装に身を包んだ人々が集まり、談笑しながら料理を楽しんでいるようだった。

 ホールの中央には、豪華なバイキングのテーブルが設けられていた。

 銀のチューフィングディッシュがずらりと並び、それぞれに彩り豊かな料理が美しく盛り付けられている。テーブルの端には、氷の彫刻が涼やかに輝き、その周囲にフレッシュな果物が芸術的に配置されていた。

 鮮やかなサラダが目を引く。

 色とりどりの野菜が美しく並べられ、ドレッシングが絶妙なバランスでかけられていた。新鮮なトマトやキュウリ、パプリカがまるで花のように盛り付けられ、その上にパセリの葉が軽やかに乗せられている。

 まるで絵画のような美しさだ。

 その隣には、シーフードの前菜が並んでいる。

 ぷりぷりのエビやカニ、貝類が盛り合わせられ、レモンのスライスやディルの葉がアクセントを添えていた。透明なガラスのボウルには、色鮮やかなフルーツポンチが美しく盛り付けられ、氷の冷たさが涼しげな印象を与えていた。

 メインディッシュのコーナーには、ローストビーフやチキン、シーフードのグリルが豊富に揃っていた。

 特に、ローストビーフは見事な焼き色が付けられ、カットされた断面からはジューシーな肉汁があふれ出ている。横には、特製のグレービーソースが温かく保たれ、好きなだけかけて楽しむことができた。

 デザートのテーブルも見逃せない。

 チョコレートケーキやフルーツタルト、エクレアなど、甘い香りが漂い、どれも美しくデコレーションされている。クリスタルの器に入ったフルーツサラダは、まるで宝石のように輝いていた。

 里奈と遥は、その豪華なバイキングを前に目を輝かせていた。

「凄い、豪華ね」

 遥は感嘆の声を漏らすと、里奈も同意するかのように頷きつつ告白する。

「……実は私、この時に為に朝から何も食べずにお腹を空かせてたの」

 それを聞いて遥は思わず吹き出す。里奈らしい行動だと思ったからだ。

 里奈は自分の欲望に忠実であり、それを我慢することが苦手であることを知っているため、遥はあまり驚かなかった。むしろ予想通りの反応だと感じていたくらいだ。

「食べ過ぎてお腹を壊さないでね」

「分かってるって」

 笑いながらそう言う遥に対して、里奈もまた笑顔を浮かべながら応えるのだった。

 遥は料理を皿に取り分け始める。

 まずは前菜からだ。前菜は食欲を増加させるために、軽めで酸味や塩味の効いた料理で大抵は温かくない料理だ。

 サーモンのマリネとキャロットラペの組み合わせを取り皿に乗せる。そこで彼女は一際可愛い料理に目が止まる。

「ねえ見て、里奈。このプチトマトのミニサラダ、ハート型になってる」

 遥は、里奈の方を見て唖然とする。

 なぜなら里奈の両手の皿には、各種料理が山盛りに積まれており、今にも零れ落ちそうな状態だったからである。

 加えて里奈の口には、ローストチキンが咥えられていた。

「はに?(何)」

 口をもぐもぐさせながら話す里奈。

 そんな光景を見ながら、遥は呆れてしまうが、その顔は笑っていた。

(まったくもう……)

 そう思いながらも、内心嬉しく思っている自分がいることにも気付いていた。

 二人は周囲に注目されながらも、楽しそうに食事を楽しむことにした。

 遥が色々な料理を少量ずつ味わうのに対し、里奈はとにかく量を食べるタイプだった。その為、あっという間に皿に盛られた料理が消えていき、おかわりを取って来ることになる。

「まだ食べるの?」

 そんな遥の問いかけに、満面の笑みで答える彼女の姿があった。

「デザートよ。遥は私の分から食べたら良いから待ってて!」

 そう言うと足早に去っていく彼女の背中を見送りながらも、どこか微笑ましく思う自分がいることに気付く。

(やれやれ……)

 そんな思いを抱きつつも、里奈の気持ちいい食べっぷりを見ていると不思議と心が和むのを感じた。彼女は取り皿に取った食べ物を残すようなことはしない。あの痩せた身体にどうやって入っていくのか不思議になるくらい、たくさん食べているのだ。朝から食事を抜いていたというのは伊達ではないようだ。

 そんなことを考えているうちに、里奈が戻ってきたようだ。手には二つのプレートを持っている。どうやら二人分のデザートを持ってきたようだった。

 皿は一枚だが、そこには色とりどりのスイーツが載せられていた。

 イチゴのショートケーキ、ブルーベリーパイ、チーズケーキ、抹茶ロール、そしてシュークリームが載っている。

「遥。お待たせ~」

 里奈は元気よくテーブル席へと戻って来ていると、突然の船の揺れと共にぐらりと体が傾く。持っていた皿を落としそうになる。

「里奈!」

 遥は思わず声を上げてしまうが、距離がありすぎて間に合わない。

 しかし里奈が身を崩そうとしている所で、彼女の動きは時を止めたように固定される。

 間一髪で持ちこたえることができたというレベルではない。

 重心は前に崩れ、身体は前のめりになっているにもかかわらず、ぴたりと静止しているのだ。まるで見えない糸に縛られているかのようだった。

 するとそこに、一人の女性が里奈に手を差し出した。

 ブラックのフレアスカートに、黒のシースルーブラウスに身を包んだ女性だ。

 年齢は二十代前半といったところ。

 ナチュラルなウエーブをかけた黒髪を一つ結びにし、耳前の後れ毛をしっとりと流し、細面のどこか淋しい顔は朝露に濡れた花のよう。ほっそりとした首元には黒真珠のネックレスが首元で控えめに輝いている。

 黒で統一された服装のせいか、昏さがある。

 しかし、カラスのように艶めき、その姿は妖艶でありながらも神秘的で、近寄りがたい雰囲気すら感じさせた。

 荘厳な滝を見た時に感じる、霊気を伴う涼しさ。

 歴史を感じさせる拝殿にある清々しい空気と厳かな雰囲気。

 夜明け前の静寂に一筋の光が差し、心が浄化される光景。

 声をかけることすらはばかれるような、汚れのない外貌を持った人。

 昏いながらも、神使のように美しい女性だ。

 女性は白い手を伸ばして、里奈の身体を支える。

 それから、そっと里奈の姿勢を正す。

「大丈夫? ケガはない?」

 そう尋ねる彼女に、里奈は慌てて頷く。

 そこに遥が辿り着く。

「里奈、大丈夫。すみません、私の友人を助けて頂いて、ありがとうございます」

 そう言いながら、遥は頭を下げつつ、呆然としている里奈を見て注意を促す。

「ほら、あんたもお礼を言いなさい」

 そう言われると、ようやく我を取り戻した里奈は、慌てて礼を述べる。

「遅れてすみません。ありがとうございます」

 その様子を見た彼女は、静かに微笑んだ。

 その笑顔は、先ほどの神秘的なイメージとは打って変わり、優しげな雰囲気を纏っていた。それは、親しみやすい印象を与えてくるものだった。

「危なかったわね。もう少しでデザートが台無しになるところだったね」

 彼女はそう言って、里奈の手元を見る。そこには、無事だったデザートがあった。彼女はそれを見て安心したような表情を見せる。

 里奈はその反応を見て、改めて感謝するのだった。

「それにしても。今の揺れ、何だったのかしら」

 遥は周囲の人々の状況を確認しつつ疑問を口にする。

 ホールに居た人々も突然起こった船の揺れに戸惑いを見せていたものの、ケガをしている人は見当たらないようで安心する一同であった。

 しばらくして船内アナウンスが響く。


「ご乗船の皆様、こちらは船内アナウンスです。ただいま、船が予期しない揺れに見舞われました。現在、船長およびクルーが状況を確認し、安全を確保するために最善を尽くしております。どうかご安心ください」


 それを聞いて里奈達は安堵する。

 船は航行を続けているが、再び揺れが起こることもなく順調に進んでいたからだ。

「今の何だったのかな?」

 里奈は不思議そうに首を傾げながら呟く。そんな彼女に対して、遥は冷静に対応する。

「私は、このクルーズに何回か参加したことがあるけれど、今までこんなことは一度もなかったわ。だから今回のことは例外よ」

 女性は、二人にそう告げつつ、まだ名前も知らないことに気づき自己紹介をすることにする。

「まだ名前を言っていなかったわね。私は月夜つくよみぎわよ。よろしく」

 そう言うとにっこりと微笑む汀に対し、里奈と遥もまた名乗ることにする。

 そうしてお互いに挨拶を済ませた後、三人はしばらく雑談をしていたのだが――周囲の海面に霧が立ち込めてきたことに気がつく。

 周囲は徐々に白く染まりつつあった。

 先ほどまで見えていたはずの夜景の風景が見えなくなりつつあるのだ。周囲を見渡す限り、濃い霧に覆われているようだ。視界はかなり悪くなっていた。

「海霧? こんなにも急に……」

 遥は思わず不安そうな表情を浮かべる。

 一方、汀の表情は少し険しげなものであった。何か考え込んでいるような様子である。

「どうしました月夜さん?」

 里奈の問いかけに、はっと我に返った様子の彼女だったが、すぐに取り繕うように言う。

「……瘴気を感じるの」

 汀の表情は少し硬いように見えた。それから彼女は誘われるようにデッキに出る。里奈と遥もそれに続いた。

 3人が外に出ると冷たい空気が頬を撫でるのを感じた。

潮の香りが鼻腔を刺激する。

「なんだか……」

 何とも言えない違和感を覚えた遥は、周囲に視線を向ける。

 すると甲板から見える景色が一変していることに気が付く。先程まで見えていて明かりに満ちていた風景とは違い、辺り一面真っ暗なのだ。まるで墨汁を塗りたくったような暗闇が広がっているのである。

 そして何よりも異様なのが、船を中心にして真っ黒な靄のようなものが立ちこめていることだろうか。

「これは一体……」

 里奈が、そう思った瞬間のことだった。

 船が漆黒の海を切り裂くように進む中、突如としてその側面を巨大な岩礁が横切った。暗闇の中に突き出た岩は、鋭利な刃物のように黒く、冷たい月光にわずかに照らされて不気味な影を落としていた。

「どういうこと。今、岩礁が横切ったわよ」

 思わず声を上げた遥の言葉に反応するように、里奈は青ざめる。闇に目を凝らすと、無数の黒い影が蠢いているのが見えたからだ。

 岩礁地帯だ。

 岩礁はまるで生き物のように蠢きそれは、船を目がけて近づいてきているように見える。

 その数は数え切れないほどであり、とてもではないが避けきれそうにない数であった。このままでは確実に衝突してしまうだろう。


 その時、操舵室では、船長とクルーたちが緊迫した表情で計器を見つめ、急速に変わる水深計の数字に目を見張った。船内にはただならぬ緊張感が漂い、誰もが無言のまま、各自の持ち場で全神経を集中させていた。

「水深が急激に浅くなっている、船長!」

 航海士が声を震わせながら報告した。

「分かっている、全速で舵を切れ! このままじゃ衝突するぞ!」

 船長の声には、経験豊富な船長としての冷静さと、迫りくる危機への焦りが混ざり合っていた。


 船の舵が切られているようで、里奈は船が大きく傾くのが体感的に分かった。

 里奈は近くに居る船員を呼び止める。

 船員の顔には緊張がはっきりと浮かんでおり、状況の深刻さを物語っていた。

「すみません! どうなっているんですか? この岩礁地帯を抜けることができるんですか?」

 里奈は声を震わせながら問いかけた。

 船内には、すでに岩礁地帯に入っている警戒放送は流れており、全員が何か掴まれる物を掴み床に座り込んでいる。

 船員は一瞬ためらった後、深刻な表情で答えた。

「全力で操舵していますが、この岩礁地帯は予想外のものです。通常の航路にはこんな岩は存在しないハズなんです」

 その言葉に里奈は驚きと恐怖を感じた。見たことのない岩礁地帯に突然迷い込んだことが、一層の不安を引き起こした。

「どうしてこんなことに……」

 遥が震える声で呟いた。

「分からない。でも一つ確かなことがある。この岩礁地帯はただの自然現象じゃない。何かの力が働いている……」

 汀が険しい表情で言った。

 すると汀は立ち上がると、船首へと向かって走り出す。

「月夜さん、どこへ!」

 里奈が慌てて呼び止めたものの、汀はすでに走り出しており、里奈も遥と共にその後を追った。

「ああ。もう」

 遥は戸惑いながらも走り続ける。

 里奈もまた、汀の後を追っていた。

 3人が船首の方まで行くと、船の前方に一隻の客船が航行しているのが見えた。

「船が、もう一隻……。そうか、あの船の後を尾いていけば岩礁地帯を抜けることが……」

 遥は思わず安堵の声を上げる。

 しかし――汀は、その船を睨みつけたまま動かない。それから操舵室を見上げた。

「この船、岩礁を抜ける為に前の船を追っているのね。でも、それだとダメだわ」

 汀の声は冷静だったが、どこか焦りの色が滲んでいるように思えた。

 その時、遥は前方から何かが近づいてくるのが見えた。それは大きな黒い影で、ゆっくりとこちらに近づいて来るように見えた。

 そして、その影の正体が分かると同時に、3人は息を吞んだ。

 それは巨大な岩石であった。海面から突き出た巨大な岩肌が、凄まじいスピードでこちらに向かっていたのだ。それはもはや隕石のような勢いで迫りくる。

 その大きさたるや、数10mはあるだろうか。

「私が少しでも時間を稼ぐから、二人は灰を集めて来て」

 汀は里奈と遥に頼む。

 二人は顔を見合わせ、汀の言っている意味を考えた。

「灰って、あの物を燃やした後に残るやつですか?」

 遥の問いに汀は頷いた。

「そうよ。灰なら何でもいいわ。私を信じて、お願い」

 汀の言葉に嘘偽りは無いと感じたのか、二人は真剣な表情で頷き返した。

 すると、汀は船の前方の海に向かって右手を突き出す。右手の指を全て伸ばし、人差し指の一節だけを直角に折った。


【苦手の印】

 これは医療の神・少彦名神が伝えた秘術・苦手の法であった。

 少彦名神はこの苦手の法をもって軽い病はもちろんのこと難治とされる病を癒し、この法をもって悪しき獣、害をなす虫を祓除し、あるいは滅尽したという。


 汀は左手で右手の手首を掴み支える。

 そのまま腕を水平に構えると、掌の上に青白い光が集まり始めた。

 光は徐々に大きくなり、輝きを増していく。光が強まるにつれて、周囲から空気が渦を巻き始めるような音が聞こえ始め、同時に強風が巻き起こった。

 竜巻にも似た強い風が吹き荒れる中、船は激しく揺れる。船上のあらゆる物が吹き飛ばされそうな勢いだった。

 そんな中でも、汀だけはしっかりと立ち続け、両手をかざし続けている。

(負けない……!)

 心の中でそう呟き、全身全霊の力を注ぐようにして霊気を練り上げた。

 やがて、霊気の球は次第に大きくなっていく。まるで太陽の如き眩いばかりの輝きを放ちながら、膨張していくのだ。

 そしてついに限界が訪れた瞬間、放たれた霊気が吹き荒れ岩礁が粉々に砕け散っていく光景が見えた。

「凄い……」

 遥は里奈が転びそうになった時の事を思い出し、あれが汀の《力》なのを理解した。

「急いで、いつまでも保たないわ」

 汀の言葉に、里奈が答える。

「分かりました。待ってて下さい」

 里奈は遥の手を取ると、船内へと向かった。

「灰って、一体どうするの?」

 遥が走りながら訊く。

 里奈は走りながら船内の案内板を見つけると、現在位置と船内の構造を把握していく。

「手分けしましょ。私は厨房で炭を集めて来るから、遥は喫煙所でタバコの灰を取ってきて。それから船首で落ち合いましょ」

 遥は頷くと、二人は二手に別れた。

 遥は階段を駆け下り、喫煙所へと向かう。階段を駆け下りる間、彼女の心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が額に滲んでいた。船が揺れるたびに足元が不安定になり、必死に手すりを掴みながらバランスを保った。

「早く、早くしなきゃ……」

 遥は自分に言い聞かせながら、喫煙所のドアを開け放つ。

 中には、タバコの煙と灰皿の山が視界に飛び込んできた。

 周囲に人はおらず、遥はすぐに行動を開始した。

 ゴミ箱を空にすると、灰皿をひっくり返し灰を集め始めた。

 その頃、里奈も厨房に入ると動揺している料理人を尻目に、炭火焼グリルの扉を開けると熱気と焦げた匂いが、彼女の顔を襲った。

「この炭、もらっていくから」

 里奈は水の張った鍋を見つけると、水をぶっかけて火を消しす。

 水が一気に蒸発する音と共に、白い煙がもうもうと上がる中、手近にあったスキンマーを使って消し炭を鍋にかき集めた。

 その作業を繰り返し、大量の炭を抱え上げると、急ぎ足で甲板に向かった。

 デッキでは、依然として巨大な岩が船に迫っていた。

 船が大きく傾き、波飛沫が激しく飛び散っている。

「里奈!」

 遥の呼び声に反応して振り返る。

「準備は?」

 と、里奈が訊くと遥は両手に抱えたゴミ箱いっぱいに入った灰を見せた。その量はかなりのもので、彼女がいかに必死になって集めて来たかを物語っていた。

「万事OKよ」

 それを見た里奈は一瞬微笑むもすぐに真剣な顔つきに戻り、再び前を向く。

「急ごう。月夜さんが待ってるわ」

 二人は急ぎ船首へと向かうと、そこに居た汀に声をかけた。

 汀の姿は堂々としており、右手を前方に向けていた。

「ありがとう。その灰を海に向かって撒いて!」

 その言葉に里奈たちは頷くと、二人は手すりに近づき海の中を見てゾッとした。

 なぜなら暗い海の中に、水玉のような光が不気味に浮かび上がっていたからだ。その光は、まるで深海の闇から這い上がってきた妖怪の目のように、冷たく光を放っていた。

 その光は、大小様々であり、一つ一つが不規則に輝いている。光の輪郭はぼんやりとしていて、どこか幻想的な雰囲気を醸し出しているが、同時に底知れぬ恐怖をも感じさせる。光は海面に近づくにつれて徐々に明るさを増し、まるで何かを誘い込むかのように揺れ動いていた。

「遥、灰をぶちまけるわよ!」

「了解!」

 里奈の声に促され、遥はゴミ箱に入れていたタバコの灰を海にばらまいた。

 里奈は鍋をひっくり返し、炭の燃え残りを海にぶちまける。

 灰は風にさらわれつつ海に広がり漂い始める。

 何か変化が起こると思って、里奈と遥は海面を見つめるが何も起こらない。

「そんな……」

 遥は、行ったことの意味を虚しく思った。

 しかし、その時――。

 海中の光が急に激しく明滅し始めた。

 まるで怒り狂うように、光は上下左右に激しく動き、その輝きが一層強くなった。里奈と遥は恐怖を感じながらも、目をそらすことができずにその光景を見つめていた。

「月夜さん、これで大丈夫ですか?」

 里奈が震える声で尋ねる。

 汀は前方に右手を突き出したまま冷静な表情で光の変化を見つめ、やがて頷いた。

「ええ、これで……。あの船は沈みます」

 汀の言葉に、二人は驚く。

 彼女の言う船が何のことか理解すると、二人は前方の客船が傾いていることに気づいた。その動きが次第に加速していく。船体は斜めに傾き、やがて横倒しになると、ゆっくりと沈んでいった。

「なんてこと……」

 遥は、眼の前で起こった惨劇に両手で顔を覆った。

 客船が完全に沈むと、周囲は静けさに包まれた。

 聞こえる音は、船の沈んだ音だけだった。

 そんな遥の肩に、汀はゆっくりと手を置く。

「安心して。あれは鮫の船よ」

 汀の言葉に、二人は顔を上げた。


【鮫の船】

 神奈川県葉山町真名瀬などに伝わる。

 夜になると鮫が偽物の船を見せて船頭たちの進む方向を迷わせたりすることがあった。

 この様な船のあとについて船を走らせている内に、進路や方角を外していることが多かったという。

 陸上で狐や狸が人を化かす様に、海では鮫が化け術を使った。船の姿で現れることから船幽霊の一種ともされている。

 鮫の船に遭遇した場合、火床の灰を海に撒くと鮫は去るとされる。


 里奈は海を眺めると、霧も無く穏やかな表情の海が見えた。先ほどまで漂っていた不気味な気配が消えており、ただ静かに凪いでいたのだった。

「終わったんだ」

 安堵の溜息を里奈が漏らすと、それに答えるように汽笛が鳴った。その音はまるで長い戦いを終えた戦士を労うような、勇壮な響きがあった。

 遙もその音に耳を澄ませながら、静かに息を整えた。

「本当に終わったんだね」

 と遙が呟く。

「そうね。平山さんと、大川さんのお陰よ」

 汀は微笑みを浮かべて答える。

 里奈は再び海を見つめ、その穏やかな表情に心を癒された。先ほどまでの恐怖と緊張が嘘のように思えた。月明かりが水面に反射し、銀色の道が遠くへと伸びていた。

「これからどうする?」

 遙が里奈に問いかける。

「決まってるでしょ。消費したカロリー分を取り戻すのよ!」

 立ち上がってガッツポーズをする里奈の姿に、遥と汀は顔を見合わせて笑った。

 船の甲板で見上げた空には、無数の星々が輝く。

 その光は、彼女達の旅路を祝福するかのように、優しく煌めいていた。

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