イグニス王国秘密情報局
冬木 慧
序章
001 (約4300文字)
「疲れた……」
男はつい口からこぼれた言葉に驚きつつ、重い体を引きずるようにして家の鍵を回した。
男にとって今日、特別に何かあったという訳ではない。男はただ行かなければいけない場所に行って、やらなければならないことをこなしてきただけだった。
通勤、通学、人にはいろいろあるが、男にとってそれらに大した差はない。やりたいことではなく、やらなければいけないことが日常だった。
「……はぁ」
ドアを開けると、男はまっすぐベッドに向かい、そのまま鞄を持ったまま飛び込んだ。風呂に入って休んだほうが良いということは頭では分かっているが出来ないのだろう。
「風呂……入らないと……」
理性だけで体を動かすことはできない。
最初は睡魔に抗っていたが、抵抗むなしく男は帰宅から1分で深い眠りに落ちた。
――――――――――――――――――――
深い海の底から引き上げられるような感覚に、瞼を微かに開く。
(……あ、風呂はいってねぇ)
うつ伏せで目が覚め、ベッドに飛び込んでそのまま寝たことを思い出す。
瞼の隙間からは微かに明るいことが分かった。
(まだアラームなってないし)
ただの偏見でしかないが、現代社会において前日どんなに疲れていても一度のアラームで起きられる人というのは少数派だろう。
十分な睡眠時間が取れているかと言われれば疑問符を浮かべずにはいられないが、スヌーズの回数を減らせるというのは助かる。
いずれにしても、アラームに起こされていない今、まだ寝られるのだろう。
再び目を閉じようとした時、ある違和感に気がついた。
まるで知らないベッドで寝ているような?
「……何だこのベッ……は?」
ベッドを確認しようと頭を上げると、見知らぬ部屋が視界に入ってきた。
「おはようございます。ルーク様」
急速に覚醒していく脳。それを置き去りに爆走する混乱。
「どうされましたか?」
目の前にはメイド服のコスプレをした外国人。その後方に見える窓には白銀の髪の男がこちらを見ているのが反射していた。
男は18歳くらいだろうか、ベッドで体を起こし呆けた顔をしている。俺が一番呆けたいんだが……ん?なんか動作が同じ?
「か、かがみ」
「鏡ですか?どうぞこちらです」
少し乱れた白銀の髪の間からは、青い目がこちらを見ている。鏡の中からこちらを見る男は窓の男と瓜二つだった。
「あ、夢か」
あまりの混乱に思考を放棄せざる終えなかった。
視界が徐々に暗くなっていくが、どうしようもない。気絶する前に俺の思考回路が焼き切れていないことを祈る。
「ル、ルーク様ぁぁぁ!」
――――――――――――――――――
知らないベッドの感触の中、周囲の気配で再び意識が覚醒してくる。
(まだ夢かよ)
とはいえ、どうせ起きてもつまらない日常が始まるだけだ。というか夢を見ていると自覚できるということは明晰夢なんじゃないか?
それなら人生初の明晰夢を楽しむほうがいいか。
まずどんな夢か知りたいし、状況把握からしてみるか。
ベッドの周りの気配は全部で3つあるようだ。すぐ近くに2人で、3メートルぐらい離れたところに1人だな。
目をつぶったまま分かるとか俺すげぇ、と夢の中で自画自賛しながらも今起きましたというふうに目を開いた。
「こ、ここは?」
「「ルーク様!」」
ベッドの近くにはやはり2人居た。1人は最初に見たメイドのコスプレをした少女だ。
綺麗な金髪を編み込んで後頭部でまとめているのは、仕事の邪魔にならないようにしているのだろう。落ち着いて見てみるとかなりの美少女でメイド服がよく似合っている。
そしてなにより、至近距離で見つめられると落ち着かないほど綺麗な碧い瞳をしている。
ん?いくら夢でも金髪碧眼美少女メイドって……少し欲張りすぎではないだろうか。
自らの強欲さにあきれながら、もう一人に視線を移す。
初老の執事っぽい男性だ。白髪を綺麗に整え、執事服にも一切の乱れがない。初老とはいってもその眼光は鷲のように鋭く、肉体は常人以上に鍛えられていることが分かる。まさに鷲のような老執事だ。
(見た目で言えば……セバス?いや――)
「――ウィンストン、状況を説明してくれ」
勝手に似合いそうな名前をつけた。勝手もなにも俺の夢なんだがな。
「はっ、今朝エディスがルーク様を起こそうと部屋に入った所、一瞬起きられた後に気を失われました。当家の専属治癒士によると極度の疲労のよる気絶ではないか、とのことです。加えて、体内の魔力にも異常は見られません」
少し離れたところで椅子に座っている髭の長いお爺さんが頷いた。
「今は日が落ちて1時間程ですので、半日は目を覚まされませんでした」
「そうか。心配をかけた、すまない」
「「「……」」」
「どうした?」
「わ、我等などに頭を下げるなど。恐れ多いです」
「そうか?心配してくれたのだ、頭ぐらい下げても良いだろう」
「ル、ルーク様……」
金髪碧眼メイドが涙を流しているのが視界にはいって、そんなことで泣くのかと驚いた。
成程、金髪碧眼メイドと老執事に専属治癒士、魔力、そして二人の反応。恐らくこの夢の設定は異世界のお貴族様といったところか。
うん、どう考えてもラノベの読み過ぎだな。
明晰夢だし夢の内容を変えようと思えば変えられるのか?でもコントロール不能になって悪夢が始まるのも困るしなー。あんまり下手に手を加えないでおくか。そのままでも面白そうだし。
まあ現実でできないことを色々やっておくか。
「このぐらいで泣くなエディス」
そう言いながら少女の涙を指で拭う。自分でやっておいてなんだが気障な言動である。
イケメンにしか許されざる現実世界ならビンタものだろうが俺の夢なので許して欲しい。
「さて、少し休みたいので1人にしてくれるか?食事は1時間後にもてきてくれ」
「はっ」
感動した様子で部屋を出て行く3人。それを見ていた俺は一言呟いた。
「……まったく、どんな夢だよ」
―――――――――――――――――――――
俺は屋根に座ってひとり空を眺めていた。
夜空には無数の小さな光のほかに、地球とは異なる青緑色の大きな月が浮かんでいる。
あれからかれこれ一週間は、異世界貴族の子供の夢を楽しんだ。
いわゆる坊ちゃんというやつだ。坊ちゃんというような歳でもないし、呼ばれてもないけどな。
午前中は計算や歴史、帝王学から礼儀作法まで幅広い勉強をして、午後は剣術や馬術など体を動かす。夢にしてはなかなか充実していた。
「夢、ね……」
流石におかしいとは思っている。帝王学なんて名前しか知らないのに習った内容は実に理にかなっていた。そのうえ剣術なんかは素人目でも分かるほどに、剣術というものを理解した動きをしていた。
実際、夢においては自身の知識や体験だけでなく想像力から生まれる情報も含まれることがある。
だが、これは明らかに度を超えているだろう。これが俺の想像力だとしたら、俺の想像力優秀過ぎないか?
「やはり異世界転生なのだろうか?」
夢ではない可能性を考えてからは、ルークの中身が一般人に変わっていることがバレない様に、ずっと貴族らしい言動を心掛けていた。
その弊害で独り言が多くなったようだが。
貴族らしい言動といっても、喋り方や礼儀作法などはこの身体に染み込んでいたので助かった。
剣術の稽古でも剣なんて持ったことないのに、手に剣の柄を握った瞬間使い方が分かった。身体が覚えるほど鍛錬をしていた身体の持ち主に感謝だよ。
でも、ただの貴族に転生とは――
「――スライムとか骸骨の
「何かご不満でしょうかルーク様」
(――ッ)
「……いや、考え事をしていただけだ」
「さようですか」
さようですか、じゃねーよ。急に隣から声が聞こえるから驚いて悲鳴をあげそうだったわ。
基本的にある程度壁や距離があっても気配は感じ取れるが、今みたいに考えに没頭している時は気づけないことがある。大体はウィンストンなんだがな。
ていうかここ屋根の上だぞ。老執事が来る所じゃないだろ。
「……それで?ウィンストンも夜空を見に来たのか?」
「はは、ご冗談を」
じゃあ屋根の上まで何しに来たんだよ、と言いたい。
「任務依頼です」
貴族の子息には縁がなさそうな言葉だな。でもうちの家なんか生粋の武家っぽいから騎士の任務かな?
「任務依頼?」
「はい。先程、秘密情報局の特務作戦担当官から連絡がありました。明日ハンツマンに来てほしいそうです」
ん?知らない言葉が多すぎて理解できなかった。
だが、こういう時どうするかはこの一週間で学んでいる。任せてほしい。
「ああ、わかった」
流れに身を任せるのみ。この一週間、何回知らないことを知っているように演技してきたことか。
今ならアカデミー賞の主演男優賞をとれるね。間違いない。
――――――――――――――――――――――
「なるほど、ハンツマンは高級テーラーの事だったのか」
「何かおっしゃいましたか?」
「いやなんでもない」
テーラーとは服の仕立て屋だ。ハンツマンはこの世界には珍しくショーウィンドウがあり、地球のスーツみたいな服が飾ってある。
少し眺めた後にショーウィンドウの右にある扉から中に入った。
中は普通の高級仕立て屋で、カウンターには眼鏡をかけた男が立っていた。30代ぐらいだろうか、すらりとしていてスーツが良く似合っている。この世界でスーツと言うのかわからんが。
「ルーク様、お久しぶりです。奥でナサニエル様がお待ちです」
「ああ」
「ルーク様、私は御者に指示を出して待っております」
「ではこちらへどうぞ」
「ありがとう」
おおー、フィッティングルームが奥の部屋とやらにつながっているのか。秘密基地みたいでワクワクしてくる。
名前を知らないので店員さんと呼ぶが、店員さんがフィッティングルームの壁に触れて魔力を少し流すと、なんと鏡の中に通路が現れた。
「いつもと同じ奥の会議室です」
「わかった」
店員さんは一言残してフィッティングルームから出て行ってしまった。
入ってきたところを見てみると店員さんが透けて見えていたが、向こうからはただの鏡にしか見えないのだろう。
奥の会議室か。通路の左右にはいくつか扉があるが、一番奥の突き当りにある両開きの扉だろうな。
助かった、いつものところです、だけだったら見える扉を全部開けないといけないところだった。
床は大理石のようなものでできており、歩いているとカツコツ音が鳴る。
通路の幅はある程度広く、調度品も窓もないが何故か気品を感じさせる。
「さて、何が待っているのか」
気が付くと両開きの扉の前に立っていた。ボロが出るかもしれないという不安と、これから何が始まるのかという好奇心などがないまぜになった気持ちで扉を勢いよく開いた。
「待っていたよ、エージェントルーク」
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