『ささくれ』

『雪』

『ささくれ』

 今更気にしたって仕方が無いのに、何時まで経ってもソレが気になって仕方が無い。胸の内に燻るモヤモヤはやがて棘めくイライラとなって、どうしようも無い程にまで癪に障る。そうなるともう駄目で、退勤時間と同時に真っ先に会社を飛び出して、オフィスのある商業ビルの裏手にあるスペースへと駆け込んだ。

 忙しなく鞄を漁り、お目当てのものを取り出す。せっつく様にして箱の底を強く叩き、震える手で煙草を掴み取る。百均ライターで火を付けて、煙を吸い込んで、そこからもう一度深く息を吸う。瞬く間に身体中を毒が巡り、視界の端がチカチカとする。くらくらとする頭を押さえながら、堪らず咳き込むようにして肺に溜まった煙を吐き出して、再び煙草を咥えようとしたその時だった。


「あら、今日は随分と荒れてますね」


 声のする方へと視線だけ向けると、其処には見知った顔があった。真っ黒のスーツ姿に暗い茶髪のボブカット、ノンフレームの眼鏡が良く似合っている。同じオフィスビルで働いているという事だけは互いに知っているが、後の事は殆ど知らない。この喫煙スペースで知り合ってからは、たまにこうして言葉を交わしている。


「……どうも、お見苦しい所を失礼しました、それはそれとしてお疲れ様です」


「はい、お疲れ様です」


 恭しくお辞儀をしてから彼女は此方の隣に並ぶように歩み寄る。そして、彼女の方も手にした鞄からレトロな木製のシガレットケースを開き、特徴的な黒い煙草を取り出した。ケースを開いてすぐに辺りに広がる甘い匂いが鼻腔を擽る。そして、何の躊躇も無く彼女はそれを口に含むと、徐に此方へとその先端を向けた。

 一瞬の硬直の後、ジャケットのポケットから入れっぱなしになっているライダーで彼女の煙草に火を灯す。煙草の先に灯る火が淡く輝くと、先端の数ミリを灰塵と化す。彼女は紫煙をゆったりと吐き出すと、拗ねたように視線を遠くの空に追いやった。


「貴方は絶対にシてくれませんね」


「……火はあげたじゃないですか」


 私の言いたいこと分かってるくせに、と彼女は呟いて再び煙草を咥える。煙草特有の香ばしい風味が仄かに香るバニラに混じって独特の雰囲気を作り出す。


「それで、何をそんなに苛立つ事があったんです?」


「大した話では無いですよ、ましてや貴女に聞かせる程の事ではありません」


「まあまあ良いではありませんか、今日初めてお会いした間柄という訳でも無いですし」


「……ホントに下らない話ですからね、面白くなくても責任取りませんから」


 そうして彼女に促されるまま話す、どうだっていいはずの出来事を。



□□□


 ある案件の資料作成をしていた際の事だった。客先への資料提出前の資料確認を行っている最中、中途採用で入社した年上の同僚に話しかられた。


「それ昨日部長に許可貰ってなかったか? 追加案件でも入ったのか?」


「いえ、そういう訳でもありませんが、最後にもう一度自分で確認しておこうかと」


「いやいや、部長がオッケー出してる以上なんかあっても俺らの責任じゃないんだからさ。そんな無駄な事やってないでさっさと顧客先に送って手が空いたらウチの案件手伝ってくれよ」


 ウチも暇じゃねぇんだからさ、と此方の肩を叩き去ってく同僚の謂れも無い言い種に心の内で嘆息する。


 此方の案件は提出期限に余裕がある上に、同僚は別にこの案件に携わっている人間でもない。それに同僚の案件が遅れているのは単に彼自身が業務に対し、まるで集中出来ておらず、そのしわ寄せが誰かに掛かる事に対しても何とも思っていないどころか、是としてる節まである。

 何が悲しくて仕事の出来ない同僚にケチ付けられた挙句、彼の尻拭いまでさせられなければならないのだろうか、と現実の理不尽さを疎みながら業務に戻った。 


□□□



「という事です、下らないでしょう?」


 夕焼けに染まる橙色の空を見上げてため息をついた。無駄に長く話し込んでしまったせいで、一本で終わらせるはずの煙草の消費は四本目に突入していた。

 一方で彼女は吸い殻に手持ちの煙草を落として、そのまま口元を隠すように思案する。


「いえ、私はそうは思いませんよ」


 はっきりと、透き通るようなその声はそう告げた。


「貴方が感じた事は決して間違っていない。貴方は貴方の領分の範囲で出来る最善を尽くそうとしただけだ

。それを見ず知らずの相手に無駄だとかおせっかいだなどと言わせる筋合いは無い。貴方自身がそう感じているからこそ、そうして苛立ちを覚えている、と私は思いました」


「……かも知れません、ね」


「腑に落ちませんか?」


「いえ、と言うよりも単純に驚きの方が勝っていて。よく他人の事を見ているなと思いまして」


「私も結構気にするタイプなので」


「意外です」


「ふふっ、よく言われますよ。けれど、こう見えて全然打たれ弱いし、案外繊細なんです。そうですね、具体的には何度もお誘いしているのに、未だに応じて下さらない事についても毎夜毎夜何が悪かったのかなと考える日々でして……」


 明後日の方角を向きながらわざとらしい泣き真似をしつつ、彼女はそう言う。


「……揶揄わないで下さいよ」


「うーん、私自身揶揄ってるつもりは無いのですがね……。ま、良いでしょう」


 でもまあ、と告げて彼女の方に視線を向ける。


「それとは別に話して良かったです。自分の中で一先ず区切りは付いた気がしますよ。愚痴に付き合って貰ったお礼に晩メシでも奢りますよ」


「然したる事もしていませんが、下さるなら貰うのが私の流儀。全力でお供致しましょう」


 吸い掛けの煙草を弾いて柄入れに落とす。彼女と並んで喫煙所を後にする。いつの間にか日は落ち始め、空も暗くなり始めていた。




 嫌な事、良い事、印象に残るような事はどうしても記憶に残りがちでそれを何時までも引き摺るのは良くはない、とそんな事は自分だって百も承知である。

 ただ忘れられないのならば、それ以上の何かで上書する他に手は無い。出来なくても、まずは一歩。一人でダメなら誰かの手を借りて、そうしていけば気にならない訳では無いけれど、ソレに構っていられる時間はグッと短くなってやがて記憶の片隅にすら残らなくなる。

 そうやって少しでも明日が良い日になれば良いと強く思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『ささくれ』 『雪』 @snow_03

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ