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虚空が広がる大宇宙、だった場所。
かつてルアル文明と呼ばれていた領域は、ルアル文明時間に換算して二十日前に全てが侵入生物の手に落ちた。宇宙大艦隊も、偉大なる神々の宮殿も、煌めく星々も――――何もかも侵入生物に喰われ、跡形もなく消えている。
残ったのはそれらを糧にして増えた、数多の侵入生物達だけ。
増えに増えた侵入生物の版図は、今や旧ルアル文明領域だけに留まらない。観測しかされていない、僅かな繋がりしかない宇宙にも進出をしている。支配した宇宙の数は今や九✕十の三十乗に達した。それはルアル文明が観測した宇宙のごく一部であるが、遠からぬうちに全てが喰い滅ぼされると確信出来る速さでもあった。
正に繁栄を謳歌する侵入生物達。
しかし種族の繁栄が、個体としての幸せに繋がるとは限らない。種族が繁栄したという事は、見方を変えれば周りには同族だらけという事でもある。
侵入生物の行動理念はシンプル――――自分の遺伝子を増やしたい。他種どころか他個体すら、子孫を残すために邪魔ならば疎ましく思う筋金入りの自己本位主義。だからこそ他の存在が『何』であるかなど気にもしない。
ルアル文明であっても扱いは同じだ。己の子孫を残すために進化・適応し、その生存競争の過程でルアル文明が絶滅したというだけ。ルアル文明がなくなれば、今度はそこに居座る侵入生物達が競争相手。究極の文明をも食い荒らす能力が、全て同族へと向けられる。
『彼女』が生きているのは、そんな世界だった。
「フシャアオオオオオッ!」
「シャアアァッ!」
宇空間を震わせる雄叫びと共に、彼女の姉妹達五体(彼女含めていずれも名はない。名を必要と思う感性もない)が宇宙を飛んでいく。秒速二兆八千億光年を超える神速の機動力を惜しみなく発揮していた。
仮にその速さを視認出来ても、五体の姉妹を見付けるのは困難である。何故なら宇宙のほぼ全てを満たすように、小さな生き物達が飛び交っているのだ。
小さな生き物はイモムシに翅が生えたような姿をしている。それは侵入生物の祖先種によく似た姿であるが、形態は極めて多様だ。大きさも一マイクロメートル以下のものから十センチメートル以上あるものまで様々。
そして数が膨大だ。宇宙の隅々まで埋め尽くし、一メートル先さえ見通せない。更に十一次元の全てに渡って生息しており、例え四次元や五次元の視点を用いても、三次元と光景が変わらない。
それほどまでの数を有するイモムシ型侵入生物……最も繁栄したグループであるそれらの名を『祖先型生産種属』という。名付ける者などいないが、名を付けなば他と区別出来ない。ここだけの呼び名だ。
姉妹が属するグループは『二足歩行型捕食種属』と呼ぶべきだろうか。彼女達の一族(ひとまず二足歩行型捕食種と呼ぼう)は、祖先種とは大きく異なる外見をしている。触角から変化した二本の角、左右に開く顎、翅から変化した手足、体長よりも長い尻尾、筋肉隆々の肉体、その肉体を覆う密集した黒い体毛……それはかつてこの宇宙にどの同族よりも早く進出した、
とはいえ変化もある。例えば体長が三メートル近くまで巨大化したのも、その変化の一つ。背ビレも大きさと鋭さを増し、上手く扱えば武器となるだろう。背中にある神経束はより大きくなり、枝分かれした末端は全身に広く分布している。そして神経束と共に発達した優れた演算能力を『制御』すれための、知能もまた発達した。更に言語能力を持ち会話も行える。最早知的生命体と称しても問題ないほどに、彼女達は賢い。それらはこの宇宙の環境に適応した結果だ。
他には食性も先祖個体から変わっている。先祖個体は自分と同等、或いはやや小さな種を好んでいた。食性は広く、生産種も捕食種も手当たり次第に食べている。だが二足歩行型戦闘種は、それらの獲物に見向きもしない。
というよりこの宇宙に、先祖個体と近い体長一〜三メートルの中型種は殆ど見られない。
それは先祖個体の行動――――十メートル級の大型生産種を連れてきた事に起因する。本来侵入生物の生態系は、小さくとも自力で生きられる生産種が入り、その生産種を食べる小さな捕食種が定着し、小さな捕食種のエネルギーを糧にする中型生産種が訪れるか進化して、それを食べる中型の捕食種が発生し……と、徐々に生息する種が大型化する形で発展していく。大きな身体を維持するには多くのエネルギーが必要なので、生態系が十分育たねば生きていけないからだ。勿論これは決まりでもなんでもなく、例外はいくらでもあるが。
ところが先祖個体は、その基本的な流れを無視して大型生産種を連れてきてしまった。数世代後には絶滅してるだろうと思われていた大型生産種は、侵入生物らしいしぶとさで新たな環境に適応。超広範囲のエネルギーを根こそぎ吸い尽くすという荒業で生き残る。
大型生産種の食事により、広範囲のエネルギーが涸渇した。小型生産種は代謝が低く、元々自前の
結果としてこの宇宙に生息する侵入生物は大型と小型の両極端に分かれ、中型種がいなくなってしまったのである。先んじて定着すれば自分の遺伝子を増やせるという先祖個体の行動が、子孫達の生活環境を破壊してしまった。
しかし子孫も侵入生物。新たな環境に適応するように進化していく。本来の獲物となる中型種がいないのであれば、今いるものを食べ、その生き方に合わせた身体へと進化する。ある血統は小型化して小型種を襲うようになり、ある系統は体長十数メートルにもなって大型生産種を積極的に襲うようになり。
そして彼女達の血統は、比較的祖先と同じ大きさを保ちつつ、大型種を群れで襲うよう進化した。彼女の姉妹達は今正にその狩りをしている最中だ。
「ギャボオオオオオオオォォッ!」
咆哮を上げ、姉妹達と向き合うは体長十三メートルの生物。
形態は、ルアル文明に侵入した祖先種とよく似たもの。少し硬めの頭部を持ち、脚のない身体と肉質の翅を持つ。しかし翅の数は六枚に増えており、長さも二十メートル以上にまで肥大化していた。また身体の末端にはうねうねと蠢く無数の触手が生え、こちらも長さ一メートルはある。そして頭部は左右に開き、中にずらりと牙を持つ。
この種は大型生産種から進化し、その大型生産種を獲物にする大型捕食種だ。飛行能力に優れており、大型生産種を仕留められるところ戦闘能力も高い。獲物とするには危険な存在だが、その戦闘力を維持する肉体には生産種とは比にならないエネルギーが溜め込まれている。リスクはあるがメリットも大きい。
一対一では勝ち目もないが、五対一であれば勝機は十分。得られるエネルギー量の多さから、子孫もたくさん生み出せるだろう。
無論、大人しく負けてくれるほど生易しい相手でもないが。
「ギョオボボボボオオオアオオッ!」
大型捕食種は空間を震わす雄叫びと共に、広げた翅の末端から虹色に輝く『光線』を数百と放つ。光線と称したが実際には空間の崩壊現象だ。空間を形成する十一次元が砕け、その余剰エネルギーが光として放たれた結果眩く見えるだけ。空間を伝播する力は、光速度を超えて飛んでいく。
姉妹達のみならず、ネビオスから進化した侵入生物は多少なりとエネルギー吸収能力を持つ。特に電磁波や光エネルギーへの適性が高いため、ただのレーザーであればどんな出力だろうと吸い尽くしてしまう。だから余剰エネルギーの方は(例えそれが掠めただけでブラックホールすら吹き飛ばすほどの)高出力でも、姉妹達を傷付ける事はない。
しかし十一次元の崩壊は、エネルギー攻撃ではない。耐え抜くには次元の再生成による『中和』などの対処が必要だが、彼女達にそのための能力は備わっていなかった。それでも小規模な破壊力であれば、姉妹達の身体を形作る異次元物質の耐久性ならやり過ごせたが……大型捕食種の放つ攻撃は、拡散させれば無数の宇宙を破壊するほどの威力だ。それも光線全てではなく、一本当たりの破壊力である。
ネビオス生態系の構築により、侵入生物は世代を重ねるほど強大化していく。その生態系で最大級の大きさである大型捕食種は、今やルアル文明の戦闘艦さえも超える力を持つに至った。最早数多の宇宙が束になろうと、この一体の捕食者からすれば羽虫の群れと大差ない。
だがその強さは、今の侵入生物からすれば大きさ相応のもの。姉妹達にとっても破壊力自体は想定内だ。
重要なのは、その攻撃が自分目掛けて飛んできている事である。
「フシャ、アグォ!?」
五体の姉妹のうち四体はこれを回避したが、一体は避けきれず直撃。どうにか耐えようと身体を強張らせるも、あえなくバラバラに砕けてしまう。
そのバラバラの肉片はまだ生きていて、どうにか再生しようと蠢くが……その前に大型捕食者が改めて光線を照射。跡形もなく吹き飛ばす。
姉妹に犠牲が出た。しかし彼女達はそんな事で止まるような精神性を持ち合わせていない。知的ではあってもその思考は極めて合理的かつ無感情。恐怖も絶望も後悔もしない。
むしろ今こそがチャンスと、相手の隙を見付け出す。
確実に仕留めるため、大型捕食種の意識が一体の姉妹にのみ向いていた。この隙に姉妹四体は肉薄し、大型捕食者の身体に纏わり付く。大型捕食者は身体を大きく捻り、姉妹を振り払おうとするが……姉妹達は指先にある鋭い爪を突き立て、肉に食い込ませて身体を固定。簡単には離れない。
「フォオアッ!」
「フシャアアァッ!」
大型捕食者に張り付いた姉妹達は、次々に攻撃を繰り出す。
攻撃方法は主に物理的な、殴るというもの。空間破壊攻撃と比べなんとも原始的であるが、しかしこれが最も効果的だ。姉妹達の身体にもエネルギー吸収能力があり、これが大型捕食者の持つ吸収能力と相殺。本来ならば糧にしかならない
そして打撃の角度は、大型捕食種の胴体中央部分……中枢神経化した神経束に衝撃が届くよう調整していた。
捕食種の多くは身体能力に優れる。それは獲物よりも強く、速く動ける方が狩りの成功率が高いからだ。しかし優れた筋肉だけでは俊敏な動きは出来ない。その動きを制御する神経、それら全身の神経の働きを統合する中枢神経があって、初めて高い身体能力を持てる。
それ故ある程度進化した捕食種の多くは、身体の中に発達した中枢神経系を持つ。お陰で身体は素早く動かせるが、しかし全身の神経を統合しているという事は、中枢神経が全ての身体の動きを担っている事でもある。つまり中枢神経が破壊されると、身体の動きが制御出来ない。
侵入生物の生命力であれば、中枢神経もいずれ再生するが……動かなくなった身体が天敵にどう扱われるかは言うまでもない。
「ギョ、ギョボ、ボ、ォ……」
中枢神経のダメージが蓄積し、大型捕食種の動きが鈍る。振り解かれる心配がなくなれば、姉妹達の攻撃は更に苛烈になっていく。
やがて大型捕食種の動きは、完全に止まった。
とはいえまだ死んでいない。死んでいないなら、いずれ回復して反撃してくる。侵入生物とはそういう存在なのだと、彼女達は本能的に理解していた。
更に何千と殴り付けて中枢神経を完膚なきまでに破壊。これでも死んでいないが、再生にはかなり時間が掛かるだろう。
「フシャ! シャグッ!」
「シャグシャグ!」
姉妹達が大型捕食者に齧り付いたのは、それからの事だった。
激しい戦いだったが、ここまでの戦闘は僅か
それは勿論一秒を効率的に使う事で、戦闘や逃走で有利になるからだ。そして短い時間で繁殖が行えれば、時間を圧縮していない個体よりも単位時間当たりで多くの子孫を残せる。より子孫を残すための進化であり、そして祖先種――――ネビオスの持っていた力である。
ネビオス生態系の構築後、侵入生物達は急速にネビオスの領域へと戻っている。それが窺い知れる狩りだった。
……そんな姉妹達の狩りを、一光年先から観察している個体がいる。
姉妹達と同じ形態をしつつ、体長四メートルにもなるその個体は、姉妹達の母親だった。我が子が一体バラバラにされたが、母親は動じた素振りもない。その結果は『想定内』であるし、この母親も自分の姉妹と一緒に暮らしていた時に経験した事。何より侵入生物は姉妹愛も親子愛も持っていない。合理的に、数学的に全てを判断する。
だから母はそこそこ満足していた。姉妹五体が協力して挑んだ結果、大型捕食者を仕留める事が出来た。つまりあの姉妹達は、もう群れとして独立出来る。
二足歩行型捕食種は二〜五体の姉妹で群れを作り、共に狩りや子育てをするという生態をしている。群れる事で大物を安全に狩り、また大物を狙う事で他のライバルと食べ物の競争を避けるよう進化したのだ。ただしこの母親の場合、少し前にちょっとした『事故』で姉妹が全滅しているため、一体でこの姉妹を育て上げた。遠からぬうちにこの姉妹は独立し、母の手は空くだろう。
しかしそこで余暇を楽しむような事を、侵入生物達は行わない。
余裕があれば、自分の遺伝子を増やすための行動にそのリソースを全て注ぎ込む。それが彼女達の本能であり生き様。母は確かに群れの仲間を失い、子が独立すれば独りぼっちになる。だがそれがなんだと言うのか。まだ繁殖能力が失われていないのなら、たった一体だろうが繁殖を行う。本来群れで生きる種がたった一体で子供を育てるのは大変だが、出来ない訳ではない。
余裕や幸福感のある生涯など端から求めていない、全てを自身の繁栄のために費やす。それがネビオスから進化した、彼女達の根源だ。
大変困った事に『彼女』にとって、その根源は非常に厄介である。
何しろ母親が片手に掴んでいる直径一メートルの卵から出る事も出来ない、非力で脆弱な彼女をわざわざ活かしておく理由は、姉妹が独り立ちした後ではなくなってしまうのだから……
……………
………
…
彼女は所謂『落ちこぼれ』だった。何処が姉妹よりも劣っているのか? と問われれば、全てと答えるしかないほど劣っている。
まず、力が全くない。姉妹達が誕生時から拳一発で銀河一つ分の範囲を容易く破壊する中、彼女は成長した今でも卵の殻(厳密には弾力と伸縮性のある半透明な膜。よく伸びるため姉妹達と同じぐらい大きくなった彼女の身体もすっぽり収まっている)すら壊せない。
次いで身体が軟弱だ。姉妹達ならちょっと宇宙が消し飛ぶぐらいの攻撃なら、真面目に防御すれば耐えられる。対して彼女は『普通の生物』が死ぬ程度の打撃で悶てしまう。時空振動を伴う鳴き声も出せない体たらくだ。
おまけに感覚器もしょうもない。姉妹達が空間の歪みやエネルギーの存在で世界を見ているのに、彼女にはそれが出来ない。卵の中で細胞をあれこれ変化させ、どうにか額に形成した『目』で世界を見通す力を手にしたが……捉えるのはよりにもよって光。エネルギーが吸い尽くされたこの宇宙には光なんてなく、そもそも超光速移動と時間圧縮が基本となった今の侵入生物にとっては遅過ぎる。母親経由で『情報』が来なければ、何も見えない。
おまけに能力がない。時間圧縮どころか、程度の差はあっても全ての侵入生物が持っているエネルギー吸収能力さえ備わっていなかった。これが使えなければ狩りどころか、小さな虫すら触れない。
止めに知能が低い。姉妹達なら数十年分の惑星運行シミュレーションを百億個同時にやっても、一フェムト秒(一千兆分の一秒)以下で結果を出す。対して彼女は十桁の掛け算を行うだけで一秒も掛かってしまう。しかも偶に間違える。これでは獲物と戦闘をしても、相手の動きを予測するどころか身動きすら出来ない。尤も、端から動きにはついていけていないが。
……生物の世界において、身体能力というのは高ければ高いほど『良い』とは限らない。強い肉体はエネルギー消費が激しく、多量の餌がなければ飢えてしまうからだ。それは侵入生物達の生き様を見れば、よく分かる事だろう。むしろ徹底的に弱い肉体へと『進化』し、余ったエネルギーでたくさんの子を生むのも一つの戦略だ。天敵が生存出来ないほど
しかしそれは「環境に適した範囲で」という前置きがあっての話。
確かに弱ければ弱いほど、消費エネルギーは小さくて済む。だが星さえも破壊する力が空間を埋め尽くす中、それに耐えられない身体ではそもそも生きていけない。自身が星を破壊する必要はないが、破壊に耐えられる肉体がなければそこにいられないのだ。
彼女の身体は、侵入生物のいる世界で生きていくだけの能力がない。故に『落ちこぼれ』なのである。
母親もそれを理解しており、彼女の傍にいる事で守っている。エネルギーだって(吸収能力の応用で卵の膜と掌を融合させる事で)送り込んでくれる。母の世話がなければ、彼女は生まれる前に餓死していただろう。それに母の時間圧縮領域に入っていなければ、皆の生活スピードにも付いていけない。
「フシュルルル……」
今も彼女は、母親からエネルギーをもらっていた。それを糧にして成長する……にも卵の膜が破れないので、今や彼女は卵内にギチギチに詰まった状態だ。ここまで育っても、やはり自力で卵から孵る事すら出来ない。
とはいえ実のところ、彼女は生まれたい訳ではない。
遺伝子がゼロになるぐらいなら、一つのまま現状維持に勤しむ方がマシだ。
だから彼女は卵の中に引きこもっている。安全な卵の中で生き、次世代は生まない。母親から分けてもらうエネルギーに頼り、ひたすら『自分の遺伝子』を守り通す。遺伝子を最重要視すればこそ、これが最も合理的な方針だった。
しかしこんなのは、悪足掻きに過ぎない。
遺伝子を増やしたい、残したいのは母親も同じ事。確かに彼女は大事な子であるが、数ある子のうちの一体に過ぎない。彼女を養うために母親は時間も栄養も手間も取られている状況だ。貧弱な彼女の世話で消費するエネルギーなど微々たるものだが、『手間』である事は間違いない。今までは姉妹の『ついで』に養ってもらえたが、その姉妹達は今や立派な狩人。そろそろ独り立ちするだろう。
姉妹が離れた後も、母は彼女のような落ちこぼれの世話を続けるべきだろうか?
否である。世話に必要な時間と手間を考えれば、生存の見込みがない子などリサイクルして次世代の投資に回した方が良い。多くの知的生命体からすれば倫理観のない発想は、合理的で数学的に物事を見る侵入生物としてはごく普通のものだ。リサイクルされる身である彼女自身、それが正解だと思うぐらいには。
彼女に恐怖や絶望の感情はない。親への情愛もなく、喰い殺される事に哀愁すら抱かない。しかし生存を諦めるつもりもない。どうしたものかと卵の中で彼女は何時も考えていた。
尤も、卵から出る事すら儘ならない彼女があれこれ考えたところで、名案が浮かぶ筈もない。考える時間の長さも、本気さも、どうしようもない現実を変える力などないのだから。
「フシャアアアアアッ!」
そうして虚しく、予定調和に、タイムアップが告げられた。
母親が姉妹達に向けて獰猛な咆哮をぶつけたのだ。それは独り立ちを促す雄叫び。ある程度育った子を親が威嚇・攻撃し、縄張りから追い出す事で独り立ちとする。生物の多くで見られる行動であり、彼女達の種でも採用されている方式だ。
十三メートル級の大型捕食者を仕留めた事で、もう姉妹達は独り立ちして良いと判断されたらしい。
「シャゥゥゥ……」
「シャゥウゥ」
姉妹達が抵抗して親元に居座ろうとすれば、今しばらく独り立ちは延期になったかも知れない。しかし威嚇された姉妹達は、すんなり親の傍から離れていく。
自分達だけで生き抜く力を持っている。母からの威嚇はその証明であり、つまり自分の子孫を生み出す準備が出来たと言えよう。自分の子孫を残せるようになったのだから、さっさとその行動を起こすのが合理的だ。母への親しみがあれば、少しぐらいこの生活への未練が出るだろうが……生憎数学的思考の侵入生物にそんなものはない。
これから群れとして共に暮らす姉妹の存在さえ、狩りのパートナー以上の価値はない。侵入生物にとって重要なのは自分の遺伝子をより多く残す事。強いて言うなら似た遺伝子を持つため、自分が死んだ時の『バックアップ』の役割を果たすが、その程度の存在だ。ましてや狩りの能力がない姉妹など、何故一緒に暮らす必要があるのか理解出来ない。
彼女も、姉妹と同じ立場なら同じ事をしただろう。何より自分の思い通りにいかなかったからと、不平を述べたところで現実は何も変わらない。それよりも現状を踏まえて思考を巡らせるのが合理的だ。
例えば、母が自分を喰らおうとしたタイミングで脱出を図る。喰うためには卵の膜を破る筈だ。卵すら破れない身体能力で母から逃げ切れるとは到底思えないが、しかしもしかすると食べようとしたタイミングで恐るべき天敵が現れ、何故か弱い彼女ではなく母の方を襲うかも知れない。その後一体でどうやって生きれば良いかも分からないが、なんやかんやいい感じになるかも知れない。
最早奇跡と呼ぶのも生温い、極めて『都合の良い』展開だ。しかしこれ以外に生き残る術があるかと言えば、少なくとも彼女にはより確率の低いもの(急に母が情愛に目覚めて捕食を躊躇う。母が気紛れに自分を育て続ける。他種が何故か自分を守ってくれる)しか思い浮かばない。一番現実的な可能性なのだから、これに賭けるのは『合理的』な判断である。
全身の力を昂らせながら、彼女はその時に備える。
が、ここで一つ想定外が起きた。
母は彼女がいる卵を掴むと、引っ張って移動を始めたのだ。身動き一つろくに出来ない自分を食べるのに、何処かに持っていく理由などない。母の思惑が読めず、彼女は更に警戒心を強めていく。
そして疑問はますます深まる。
母親の移動速度は超光速。なのに彼女に掛かる慣性は殆どない。これは母親が慣性のエネルギーを吸収し、無力化してくれているお陰だ。言い換えれば、わざわざ彼女の安全を確保している。食べるつもりなら、そんな手間を掛ける必要はない。それにエネルギー供給の仕組みを利用し、外界の情報まで自分に渡してくれている。お陰で外で何が起きているか、光しか見えない彼女にも把握出来た。そして時間圧縮を使う事で、ナノ秒未満の出来事を難なく体感出来る。
母親は自分を食べる気がないのだろうか? しかし何故? 彼女が疑問を抱く中、母親は目的地に辿り着いたようで動きを止めた。
そこはこの宇宙の端だ。
周りに侵入生物の姿は殆どない。全くゼロではないが、今まで暮らしていた場所……十一次元すら埋め尽くすほど祖先型生産種属に満ちていた領域と比べれば、皆無といって差し支えない。
どうしてこれほど少ないのか。その理由は間もなく明らかとなった。
「フシュウゥゥウゥ」
母親が止まり、遠くに届かせるように鳴く。時空が揺らぎ、それが声になって辺りに響く。
母親の顔が向く先には、一体の『同種』がいた。かなり老いぼれた個体であり、寿命が近い事が張りのなくなった表皮と痩せ衰えた体躯から分かる。しかし長い月日(とはいえ実時間換算で数ミリ程度だろうが)を生きてきた存在故か、立ち振る舞いに隙はない。力で劣れども、技で他個体に勝るだろう。
そして老個体の背後には、直径百メートルはある巨大な『リング』が浮かんでいた。彼女に詳しい事は分からないが……自然物とは思えない。
ならば誰かが作った筈だが、しかし自分達の一族とも思えない。姉妹が狩りの際に見せたように、二足歩行型捕食種は優れた肉体こそが武器。道具なんて作らないし、そもそも今の侵入生物の力相手に耐えられる道具も技術もない。仮に作ったところで、そこらを飛び回る生産種に食べられてしまうため作るだけ無駄――――
と、ここで彼女は気付く。
この老個体こそがリングを守ってきた存在なのだ。生産種や捕食種が近付かないよう、激しい威嚇を絶え間なく繰り返してきたに違いない。
「フシュゥゥー」
母親の声を聞くと老個体は答えた。警戒心の薄い、友好的な声だった。
彼女は知らないが、老個体は母親の血縁者だ。子孫がやってきたと分かったがために、敵意がない事を示したのだろう。
彼女は聞き耳を立てたが、空間の振動を声とする母や老個体の言葉は上手く聞き取れない。二体はしばらく会話を行うと、移動を始めた。リングからざっと数キロほど離れた位置で立ち止まると、老個体は(息などしていないが)深呼吸するように力を溜め込む。
「フシャアァアアアオオオオオオオ!」
そして凄まじい大声で叫んだ。
時空なんてさっぱり分からない彼女にも伝わるぐらい大きな、とんでもない絶叫だった。
あまりにも大きな時空振動を受け、付近にいた少数の祖先型生産種達は慌ただしく逃げ出す。放置すれば奴等はリングを食べただろうから、守る上では欠かせない行動だ。
だが、子孫繁栄を思えば好ましくない。大型生物を獲物とする彼女の一族にとって、小さな祖先型生産種はその獲物を養う大切な存在だ。それを追い払う事は、獲物を追い払うも同然。
二足歩行型捕食種は侵入生物の中でも優れた身体能力を持つ。五対一とはいえ体長差四倍、体重差にして六十倍の相手に勝つほどだ。その強大な力を保つにはたくさんの食べ物がなければならない。
年老いて代謝が衰えたとしても、それなりには食べ続ける必要がある。獲物を追い払うのは自殺行為に等しい。だからこそ老個体は痩せているのだろう。
そこまでして守る価値が、このリングにはあるのか?
「フシュッ!」
謎が深まる中、老個体は更に謎の行動を起こす。
尻尾を力強く振ったのだ。その力は空間を震わせながら伝播。やがてリングに到達する。
リングは時空の揺らぎを受け、ガタガタと揺れ動く。
……揺れ動くだけで何も起こらない。「あれ?」とばかりに老個体は首を傾げ、もう一度尻尾を振るう。
またリングがガタガタ揺れた。それでもやはりリングに変化はない、が、その代わりとばかりに一匹の小さな侵入生物が逃げていく。
どうやらまだ隠れていた個体がいたらしい。それを見た老個体はもう一度尻尾を振り、三度目の時空振動を起こす。
ガタガタと一際大きく揺れたリングは、ぼんやりと光り出した。
更にリング中心に、渦のようなものが出来始める。渦はどんどん巻いていき、突如中心が白い光となった。何処かに通じている、穴のような光景だ。
――――彼女は知らない。
それがルアル文明から、マジックリングと呼ばれていた道具である事など。説明不能の魔法により動くそれは、本来侵入生物では起動させられない。ただ近くにいるだけで、侵入生物が常時発動している量子ゆらぎ操作の影響で魔法が消えてしまうために。
だが進化した知能を持つ彼女達、正確にはその先祖は閃いた。
要は近付かなければ良いのだ。リングに近付く小型種を一匹残らず追い払い、量子ゆらぎ操作の力を排除。物理法則の改変をなくし、その上で遠距離から時空の振動でいい感じに叩けば……リングは再稼働する。時空を揺らす力は量子ゆらぎ操作由来だが、時空の揺れそのものはただの現象。量子ゆらぎ操作ではなく、物理法則の改変もないため説明不能の魔法に悪影響は与えない。
尤も、再稼働したところで侵入生物が近付けば魔法は消えてしまうが。
そんな事など知らない彼女は、じっとリングを観察していた。それが出来るのも、卵の膜と繋がっている母の手から送られる情報のお陰である。
ところが突然、何も見えなくなった。
「フキュウ? ウキゥ?」
なんだ? 何が起きた? 彼女は状況が分からず、それでも情報を集めようとして卵の膜に手を触れる。
そこで違和感を覚えた。
卵の膜が薄くなっていたのだ。恐らく原因は母。母が吸収能力で膜を吸い取ったのだろう。しかし全て取り込む事はせず、途中で止めたらしい。
この薄さなら彼女の力でも破れそうだが、何故今になってこんな事を……謎は深まったが、それ以上考える事は出来なかった。
なんの予告もないまま、彼女は卵ごと放り投げられたのだから。
「フギゥ!? ギ!?」
投げ飛ばされたと感覚的に理解した彼女であるが、まだ卵にいる彼女には何かする余裕などない。凄まじい速さでリングの中心目掛けて飛んでいくだけ。
やがてリングが『見えた』時、彼女は(知的生命体のような感情はないが)慌てた。あの渦は一体なんなのか。何が起きるのか、母は何を考えているのか。何も分からず、対処法を演算する余裕がない。
ならばせめてもの抵抗として、身体を丸めて衝撃に備える。果たしてそれは意味があったのかどうか。彼女は分からないまま卵ごと渦に飛び込む。
――――彼女は知らなかった。
何故自分が落ちこぼれなのか、何故自分が姉妹達のような力を使えないのか。
その理由は侵入生物達が用いていた量子ゆらぎを操る力にある。いや、厳密に言うなら『ない』と言うべきだろう。
そう、彼女には量子ゆらぎ操作の力がない。
されど進化とは、単に力が強くなる事ではない。
むしろ力を失った事で、新たな能力を獲得する事だってあり得る。彼女のように意図せず物理法則を塗り替えてしまう事がないのも、見方を変えれば一つの力。物理法則を書き換えないからこそ、侵入生物達では接する事も出来ない『説明不能の力』を消してしまう事もない。
故に彼女は、辿り着く。
理論上侵入生物達には超える事の出来ない、マジックリングの向こう側へと――――
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