堕天
喰われる。
ヤントイッヒはそれを理解した。つまり自分の全知が、全能が、この『生物』には通じなかったという事を意味する。
【(何故だ)】
ヤントイッヒは考える。全知全能であるヤントイッヒが、恐怖や混乱で思考を鈍らせる事はない。冷静に状況を整理していく。
負けた事、そのものは許容出来る。
自分より『強い』全知全能が現れれば、そうなるのは当然だからだ。無論『全知』であるヤントイッヒに、自分の知らない全知全能など存在し得ない。この侵入生物のように情報を隠していて、見付けられないという事はあり得るかも知れないが。
しかし今回負けたのは、全知全能ではない存在。
確かに侵入生物は強い。膨大な数の仲間が力を合わせて生み出した、特殊個体である事も考慮すべきだろう。これでも奴等の祖先たる存在……全知でも全く情報を掴めない『何か』は、特殊個体の比ではない力を持つと思われる。奴等は度し難い化け物であると、ヤントイッヒからしても言わざるを得ない。
だが、それでも単なる『強さ』なら全能であるヤントイッヒの方が上だった。宇宙を無尽蔵に創り出せるエネルギーさえも操り、無限の力にも耐えられる身体を持ち、神速に達する速さを認識する。この侵入生物の戦闘力を1とするなら、ヤントイッヒの戦闘力は――――数値化すれば無限大だ。端から比にならない。
なのに何故負けたのか。何故喰われる事になったのか。
全知が答えを探れば、全ては明らかとなる。
【(奴にとっては、私さえもあり触れた存在なのか)】
侵入生物は、ヤントイッヒが繰り出したあらゆる攻撃を的確にやり過ごした。単に力があるだけでは、そう上手くはやれない。ヤントイッヒの力はどれも瞬時に発動し、考える時間さえ与えない。
これに対応出来たという事は、侵入生物は、その先祖はかつて全知全能と戦った経験があるのだろう。それも生存競争として日常的に。思考するまでもなく、本格的な対処が身体に備わっている……備わっている個体だけが生き延び、繁栄してきた。
なんて事はない。侵入生物達にとっては全知全能さえも、驚きに値する力ではなかっただけだ。
【(このまま、消えるのか)】
死への恐怖はない。全能であるがために感情のコントロールも難なく行える。
しかし、知的生命体への想いはある。
全知全能の神が自分達を見守り、真の困難が訪れた時には助けてくれる……ヤントイッヒは知的生命体にそう祈られて生まれた。だからヤントイッヒは知的生命体を守る。全知全能であろうとも、自らの存在意義は無視出来ない。
絶対無敵の自分が滅びれば、侵入生物は再びルアル文明を襲うだろう。そして全てを食い尽くす。実際作り出した数多のパラレルワールドは、あっという間に食い滅ぼされた。ヤントイッヒはルアル文明が誇る最高戦力なのだから、ヤントイッヒが負けた後の策などある訳がない。
ヤントイッヒを生んだ信仰者達も、喰われて死ぬ。
それをただ傍観する気はない。
【(どうすれば良い)】
何かしら人を守る術はないのか。せめて一矢報いる手はないのか。
ひたすらに思考。全知が持つ知識を総動員し、全能の力で幾億と繰り返し――――ヤントイッヒは一つの考えに辿り着く。
全能では侵入生物に及ばない。
ならば、全能の代わりにこの生物と同じ力を得れば良いのだ。全能であるがために、この生物と同じ力もヤントイッヒには備わっている。
再現する事は造作もない。
【この、まま……楽に食えると思うな!】
悪足掻きを宣告するや、人型をしていたヤントイッヒが崩れる。それと同時にヤントイッヒの全身から膨大な量の『力』が吹き出した。
ヤントイッヒに張り付く侵入生物は、吹き出る力の直撃を受ける。尤も、この程度で消し飛ばせるならヤントイッヒはここまで追い込まれていない。今も侵入生物は苦しむ様子もなく、むしろ吹き出すエネルギーを受けてより活発に成長・肥大化している。
そう、今吹き出している力を侵入生物は吸収出来ていた。
今まではそうならないよう、ヤントイッヒが力に様々な性質を付与していた。だが、今吹き出している力にはその性質がない。少しでも知能があれば違和感ぐらい覚えたかも知れないが、侵入生物にそんなものはない。
だから最初は悠々と力を吸い続け……ほんの一瞬の遅れの後、侵入生物はヤントイッヒを突き飛ばすようにして離れる。
侵入生物は語らない。口すらないのだから喋る訳もなく、感情すらないため怒りや焦り、驚きさえも見せない。
だが侵入生物がヤントイッヒに向ける視線は、ヤントイッヒの勘違いでなければ、警戒心を含んでいた。
恐らくは、人型から遠く離れた姿になった事への警戒だろう。
ヤントイッヒは姿を変えた。三メートルを超える巨体は二十センチぐらいに縮み、手足のようだった部分は一気に縮んでいく。頭も人型らしい丸みを帯びたものから、やや流線型に近い、動物的な様相へと変化した。
背中からは四つの突起物が生えてくる。翼、と言いたいところだが細長く肉厚なそれに『翼』という単語は似つかわしくない。『翅』と言うべきだろう。構造は単純。お世辞にも全能の存在が持つものには似付かわしくない。
そして光で出来ていた身体が、肉を持つ。しかも筋肉質ではなく、パンパンに張り詰めた腸詰め肉のような質感。輝きは一切失われ、宇宙よりも濃い黒さに色付く。
変形は一秒も経たずに終わった。それでも今の侵入生物にとっては、ライフサイクルを完結出来るほどに長い時間。だがそれを目の当たりにしても侵入生物は動かない。
どれほど隙だらけに見えても、警戒は解かない。全知全能の絶対神なんかよりも、その『生物』が何よりも恐ろしい事を知っていると言わんばかりに。
【……成程。こちらが散々繰り出した力よりも、この姿を警戒するか】
ヤントイッヒはぼやく。
その身体は、かつてほどの力を持たない。
頑強さはない。スピードもない。無限も使えなけれ全能でもない。何しろこの身体はあらゆる説明不能を受け付けない。自分の能力さえも例外ではなく、説明いらずでなんでも出来た全知全能が使える訳もなかった。
全ての数値的データが自身の弱体化を示す。正常な判断力があれば、間違いなく今まで以上に勝ち目がないと思う。
だが目の前の怪物とは互角。何故なら『同じ』だから。
侵入生物と同じ性質の身体……全知全能と引き換えに、ヤントイッヒは侵入生物の機能を完璧にコピーする事が出来たのだ。量子ゆらぎを自在に操作し、思うがままに世界を改変し、説明不能の力を全て無視してしまう。散々辛酸を舐めさせられた力は、今やヤントイッヒのものである。エネルギー消費の激しさや、細胞結合が弛いため物理的衝撃で簡単に崩れるという弱点も同じだ。
しかし違いもある。
一つは内包するエネルギー量。全知全能の力を失う直前、ヤントイッヒはそれらを活動のためのエネルギーに変換した。『なんでも出来る』力は無限を内包したもの。侵入生物の身体でこの無限を抱える事は出来ないが……宇宙数万個分以上のエネルギーは溜め込める。
『元ネタ』である侵入生物よりもヤントイッヒの身体が大きいのは、蓄積したエネルギーの多さに由来する。細胞の機能が同じでも、身体が大きければその分強い。それは余程捻くれた進化をしていない限り、宇宙の何処でも見られる真理だ。
更に、全知から引き継いだ『知識』を持つ。有限の神経系に
【(これならば……!)】
ヤントイッヒは闘志を取り戻す。最早神としての力は失った。だが、今の力であればこの侵入生物を打ち破り、人々を守る事も出来る筈――――
ヤントイッヒはそう考えていた。考えようとしていた。
だが、
【(私がこいつヨリも栄えラレる)】
脳裏を過ったのは、全く別の思考だった。
ヤントイッヒは疑問を抱く。はて? 果たしてこれは自分が求めていた事だったか? 一番大事なのは、もっと違う事ではなかったか?
考えても答えは浮かばない。いや、人への想いが浮かびはするが、それは瑣末事だと無意識に排除してしまう。そうではない、それは重要だと思おうとしても、全く『気分』が乗らない。
――――ヤントイッヒは見誤っていた。
侵入生物はろくな心理を持ち合わせていないと、ヤントイッヒは考えていた。事実侵入生物の神経系は演算能力に特化しており、情緒など細菌未満のものしか持ち合わせていない。性欲や食欲さえも数値的にしか感じず、あらゆる要求がデータとして処理されている。数値故に明確な優先順位が付けられ、合理的に制御可能。カッとなる、我を失うという言葉から、最も縁遠い生命と言えるだろう。
されどその身体にはただ一つ、明確な衝動がある。
自らの遺伝子を増やす事だ。性欲ではなく、『増える』事そのものへの衝動。感情も決意もなく、けれども全ての行動が繁殖へと向かう。そしてその衝動を生み出すのは肉体だ。決して、細胞内にある遺伝子ではない。遺伝子は『設計図』でしかないのだから。
勿論ヤントイッヒはこの事態を想定している。それでも問題ないという『予知』が出るほど、全知全能であるヤントイッヒの精神は堅牢だ。神経束もその精神だけは残るよう構造を弄っている。だから本来ならば全知全能を失おうとも、超常的肉体が生み出す衝動なんて抑え込める筈だ。
だが侵入生物の肉体から生まれる衝動は、その全知さえも蝕む。底知れない、いや、底がない。
宇宙すら喰らう食欲さえも、この衝動の前では芥子粒のようではないか。
【(なん、なんだこれは……!? なんなのだこの生物は……!?)】
肉体が全能を凌駕するのは、この際良い。だが精神さえも凌駕する衝動は、この繁殖への絶えない欲望はなんなのか。
確かに生物は繁殖の衝動を持つ方へと進化する。繁殖したがらない生物より、繁殖したがる生物の方が、より多くの子孫を生むからだ。死に瀕した時も、繁殖への衝動が強い方が気力を保ち、生き長らえる可能性が高いだろう。
それでも普通なら、適度な水準で留まる。過度に強い衝動はコントロール出来ず、適切な繁殖機会を無視してしまうのだから。例えば性欲は子孫繁栄に欠かせない衝動だが、だからといって天敵に襲われている時に産卵や交尾を始めても、そのまま喰われてしまう。なんでも強ければ良いというものではない。
侵入生物の衝動は、あまりにも強過ぎる。
何故こんな衝動を制御出来るのか。何故ここまで強くなければならないのか。一体どれほどの生存競争を経れば、『無限』にも思えるこの衝動が進化するのか――――
学術的には興味深い、されど見舞われている身としては考える余裕がない。全能の肉体が侵入生物の力に敗れたように、全知の精神もまた侵入生物の衝動に敗れようとしていた。
【(ワタし、は! かか、カカかミトシて、ひ、人、ヒト、ひとニ……!)】
襲い掛かる衝動を抑え込もうとするヤントイッヒ。このまま侵入生物と同じになっては、姿を変えてでも貫こうとした意思が消えてしまう。
だが勝てない。
どれほど抵抗を試みても、心の変質は止まらない。瞬く間に高尚な理性は失せ、貪欲で底のない衝動が塗り潰す。
【ワタシぃわあァアッ! ォおマえヲオオおおオおお!】
空間を震わせる雄叫びを上げた時、ヤントイッヒの中からかつての想いは消える。その感情は、侵入生物のものに置き換わってしまった。
侵入生物は変容したヤントイッヒを警戒しているのか、少しずつ距離を取ろうと後退る。しかしヤントイッヒは離れた侵入生物に躙り寄った。速い動きではなかったが、自らの意思で距離を詰めようとする。
今やヤントイッヒの中には、侵入生物への敵対心など残っていなかった。無論人間への想いなど欠片一つも残っていない。あるのはたった一つの衝動のみ。
自分の遺伝子を増やす。
形と素材だけを真似したヤントイッヒの細胞に、侵入生物の遺伝子など含まれていない。だが同じ身体であるがために衝動は変わらない。そして目の前に、自身に匹敵する巨大な『エネルギー』がいる。
これを取り込めば、さぞやたくさんの子孫を残せるだろう。
【クウ】
自らの繁殖のため、ヤントイッヒは最も合理的な選択を下した。
【クゥウウウィウウィイイッ!】
理性のない雄叫びを上げ、ヤントイッヒは侵入生物目指して突撃する!
そして前に進みながら、その身体を更に『変形』させた。
完璧なコピーをし、身体から湧き出す衝動に飲まれた事でヤントイッヒは完全なる理解をする。この身体は自由に変形させる事が可能だと。ならばより攻撃的な形態へと変化すれば、高い戦闘力を発揮出来るだろう。理性はなくとも、聡明な知性はあるがために肉体改良という手段を閃く。
では、どんな攻撃方法が良いか?
ビーム発射口を作る? 時空破壊爪で切り裂く? 因果循環打撃を叩き込む? どれもこの身体ならば出来るが、どれも最適ではない。そもそも目的は目の前の侵入生物を殺す事ではないのだ。重要なのはそのエネルギーを取り込み、自らのものにする事。
だから喰うのであり、喰うために必要なものを揃えれば良い。難しい能力など必要ない。
【グボアァッ!】
ヤントイッヒが真っ先に作り変えた身体のパーツは、頭部。頭を形成する細胞の配列を変え、更には性質さえも作り直す。
侵入生物の細胞は全能性、即ち後から細胞機能を変化させる事が出来る性質を持っていた。この性質は本来再生のために使うものだが、応用すれば文字通りの『肉体改造』にも使える。
ヤントイッヒの頭は上下左右の四方向に裂け、長く伸びて顎を形作る。顎の内側に無数の牙が生え、一噛みで肉をズタズタに切り裂くのに適した構造と化した。
喰い殺す事に特化した、捕食者の口器だ。しかし新たな『武器』を手に入れても、ヤントイッヒの中には喜びなどの感情は湧かない。そんな事を考えるよりも、一プランク秒でも早く侵入生物に喰らい付きたい。
距離を詰めてくるヤントイッヒを目の当たりにし、侵入生物は後退を止めた。四枚の翅を広げ、威嚇と思われる体勢を見せる。
どうやらこの小さな
この行動を蛮勇と見下す、なんて真似をヤントイッヒはやらない。そんな不要な感情は肉体の衝動によって消えた。今のヤントイッヒは繁殖のために全てを餌として喰らう。全知だったかつての知性は、その目的を達成するために使われるのだ。
【キィキャアアアアアアア!】
構えていた侵入生物に肉薄したヤントイッヒは、侵入生物よりも速く動く。侵入生物が広げていた翅の一枚を、その大きな口で噛み付いた。
本来なら、侵入生物の身体に触れた存在は直ちに吸収されてしまう。質量はエネルギーの一形態であり、侵入生物が持つエネルギー吸収能力の対象なのだから。
しかし侵入生物と同じ体質を獲得した、今のヤントイッヒならば話は違う。吸収能力に対し、吸収能力をぶつける事で相殺する事が出来る。
侵入生物同士であれば、余程の事がない限りこのまま拮抗状態に陥る。精々結合が緩い細胞同士が、ぶつかった衝撃で少し混ざるぐらいか。されどヤントイッヒの身体は侵入生物と違い、攻撃のための口が備わっていた。
ヤントイッヒは牙を押し込む。鋭く、硬質化した牙は、侵入生物の細胞同士の隙間に入り込み……本体から切り離す。そして切り離した『肉片』は丸呑みにしてしまう。
飲んだ後は体内の細胞が、一斉に吸収を試みた。確かに侵入生物の細胞はエネルギー吸収能力を相殺出来るが、それは力が同等だから可能な事。圧倒的な出力差や数の暴力を用いれば、侵入生物の細胞を逆に吸収出来る。
全身の吸収能力で、侵入生物の細胞を無理矢理身体の一部にしてしまう。この繰り返しによってヤントイッヒは侵入生物を食い尽くす算段だった。
だが侵入生物も大人しくやられる訳ではない。
噛み千切られた翅は即座に再生。元の形に戻ると、バタバタと激しく羽ばたかせ始めた。一旦離れようという目論見だろうか。
【ゴキァアアッ!】
そうはさせない。ヤントイッヒは逃がすまいと、更に身体を変形。全身から細長い触手を七つも生やす。
触手の長さは五十センチ程度。長いとは言い難いが、今のヤントイッヒの体長は二十センチしかなく、侵入生物に至ってはたったの十センチ。身体のスケールで考えれば十分な長さだ。ある程度肉薄した状態で、軽く一回りさせるだけならこれで事足りる。
侵入生物の頭や胴体、翅にヤントイッヒから伸びた触手が巻き付く。振り解くためか侵入生物は身体を動かすが、七本もの触手で縛り上げたのだ。殆ど身動きは取れず、拘束を破るには至らない。翅だって素早く羽ばたかせるのは(元々構造上得意でないのもあって)無理である。
【ギキギギギ】
力では完全に圧倒した。それを確信し、ヤントイッヒの口から余裕ある呻き声が漏れ出す。
もしもヤントイッヒに理性が残っていれば、こうなるのは当然だと思っただろう。
侵入生物の身体を完全に模倣したからこそ、ヤントイッヒには分かる。侵入生物の身体は全く荒事に向いていない。どんな損傷もたちまち再生する万能細胞は、見方を変えれば未分化で中途半端な代物。
イモムシのような外見は「戦闘しても勝てないのだからそんな機能はいらない」という合理性の果てに辿り着いたもの。どうせ勝てないのだから戦い自体放棄するというのは、『種』として考えれば一つの適応であり、そして繁栄する正解でもある。無力で非力な植物や昆虫が、圧倒的強者である頂点捕食者よりも遥かに数が多いのはその証左だろう。
しかしヤントイッヒと侵入生物の戦いは、個体同士の争いだ。ならば勝つのはより強い方に決まっている。
そしてかつて全知だったヤントイッヒは、強い生き物の姿を知っていた。
侵入生物の身体は、コントロールが難しい。情報処理を担う神経束が身体の中心にある一本しかないからだ。そこでヤントイッヒは体組織の一部を神経細胞へと変化させ、身体中に張り巡らせる。これで全身をより精密に、素早く制御可能だ。
骨格がないのも弱さの原因である。骨がないと
手足がないのも戦闘向きとは言えない。故に身体から八本の手を生やす。形はものを掴み、殴るのに適したもの……ヒトの手に似た形だ。勿論中には骨を通しておき、強い力を出せる構造を持たせた。
侵入生物の面影のない、歪な外観。だが間違いなくより戦闘的になった身体が、侵入生物に迫る。侵入生物は未だ触手を振り解こうとしていたが、七本の触手は微動だにしない。
【ガパァア……】
ヤントイッヒは大きく口を開けた。侵入生物を頭から喰らうために。頭がなくなった程度では致命傷にならないが、何度も何度も噛み千切れば、いずれ再生する余裕もなくなるだろう。
そして十分なエネルギーを蓄えたら、繁殖を始める。ヤントイッヒの知性は未来を思い描く。油断とすら言えない、小さな雑念。
対する侵入生物は何も考えていない様子だ。ヤントイッヒのような知性すらないのだから、何も感じないのが当然。繁殖しか考えられなくなったヤントイッヒのように、恐怖も怒りもないのだ。仮に何か言うとしても、ただ一言だけだろう。
この間抜けが、と。
ヤントイッヒの口が間近に迫った、瞬間、侵入生物はその身体を大きく捻る。無論今更触手は振り解けない……だが、なんの変化もない訳ではない。
捻る動きにより、その身から翅が一枚千切れたのだから。
翅を失った断面が蠢き、瞬く間に新しい翅が生えてくる。とはいえ自由な翅が一枚あったところで、雁字搦めになっている状態は変わらない。それは侵入生物も理解しているようで、自由な翅で脱出を試みようとはしない。
代わりにその肉質の翅の先端をぐっと、握り拳を作るように丸めて――――力いっぱい振るう。
拳が狙う先はヤントイッヒの横顔だった。
【!? ギ、ガバッ……!?】
あと少しで噛み付けるというタイミング、更に打撃という予想外の攻撃にヤントイッヒは反応出来ず。直撃を喰らい、大きく仰け反る羽目になる。
とはいえ今のヤントイッヒに痛覚はない。痛みで怯む事もなく、即座に状況を理解する。
獲物が反撃してきた。ならばこちらは動きを止めれば良い。そのための攻撃手段など、いくらでも用意出来る。
【ギバァッ!】
例えば口内からの射撃。
ヤントイッヒは細胞内にエネルギーを集め、束ねた状態で撃ち出そうとしていた。ただのエネルギー射撃なら吸収されるだけだが、今回ヤントイッヒが用意したのは『過次元レーザー』と呼ばれるもの。これは量子ゆらぎ操作を用いる事で、本来十一次元まで存在し得ない時空に、更に三十六次元を追加した合計四十七次元に渡る光線のようなもの。しかもただ複数次元があるだけではなく、個々の次元が複雑に関連し合う極めて難解な『構造』をしている。
複数次元に跨って存在するこれを吸収するには、次元構造について解析し、過剰な分を自身の身体が存在する十一次元の座標に変換する必要がある。ただ解析・変換するだけなら侵入生物にとって難しくないが、ヤントイッヒが放った一撃は宇宙数百個分はあろうかという高出力。量の多さもあって解析には時間が掛かる。
その僅かな時間のうちにレーザーは物理的性質を発揮。対象を焼き切り、破壊するという技だ。
これには侵入生物の吸収能力も間に合わない。放たれた過次元レーザーは侵入生物の頭部を貫通し、大きな風穴を開けた。それも一つではない。一度に十三発も放ち、侵入生物は瞬く間に穴だらけとなる。
尤も、痛覚も臓器もない侵入生物にとっては致命傷でもなんでもない。
むしろヤントイッヒが大技を繰り出した結果、生じてしまった身体の硬直を狙って――――触手で拘束されたもう一枚の翅を千切り、新たに生やす。
そして今度はヤントイッヒの下顎に向けて、強烈なアッパーカットを叩き込む!
【オグベェエエッ!?】
あまりに強力な打撃に、二つに分かれたヤントイッヒの下顎の一つはぐしゃぐしゃに潰れる。更に勢いよく殴られた勢いで下顎が上顎に叩き付けられ、鋭い歯が自身の口に突き刺さった。
侵入生物は運動エネルギーの吸収が(他と比べてだが)苦手だ。その弱点は侵入生物の身体を真似たヤントイッヒも継承している。更に侵入生物の翅にもエネルギー吸収があるため、能力が相殺された事でほぼ直撃に等しいダメージがヤントイッヒに入ったのだ。体組織の細胞は幾つかが破裂し、『怪我』を負う。
しかしこの程度であれば活動に支障はない。周辺細胞が即座に分裂し、受けた傷は一瞬で塞がる。
身体を元通りにしたヤントイッヒは、反撃として腕を振るう! そちらが打撃で応戦するなら、こちらも同じ方法で攻撃しようというもの。八本の手が一斉に侵入生物に向かう。
ところが侵入生物は僅かに身体を仰け反らせて躱し、或いは自由な翅で迫る拳を僅かに叩いて軌道を変え、直撃を避ける。それどころかこの間に更にもう一枚、三枚目の翅も千切って新たな翅を生やす。
三枚目の翅は、弾かれて伸び切ったヤントイッヒの腕の真ん中辺りを叩き割るように殴る!
【ギァイッ!?】
この一撃にヤントイッヒが呻く。痛覚なんてないというのに。
その呻いた僅かな瞬間、ついに侵入生物は四枚目の翅も生やした。胴体は未だ触手に拘束されているが、最早どうでも良いのか。
四枚の翅でヤントイッヒを、徹底的に殴り飛ばす!
【ウゴフッ!】
二枚の翅が顔を左右から叩き潰す。圧迫された中身の一部が口から溢れる。
【ベゴボッ!?】
その出てきた中身に、強烈な翅の打撃が叩き込まれた。
押し戻された中身は止まらず、背中側の組織を圧迫。背中側にぼこんっと大きな瘤を作るほど、奥へと押し込まれる。
【ギブゥ!】
どうにか体勢を立て直そうと口を閉じたヤントイッヒだが、侵入生物は手を組むように二枚の翅を組ませ、薙ぎ払うような横殴りを顔側面に叩き付けてきた。
【ゲバギャアッ!?】
そして殴られた衝撃で横に吹き飛んだ顔を、今度は反対側から侵入生物は同じく二枚の翅で殴ってくる。
一方的な暴力。吸収しきれない衝撃が、ヤントイッヒの身体を少しずつ弱らせていく。
【(理解不能理解不能理解不能理解不能)】
僅かに残った、全知全能時代の知性が混乱する。
『自分』は侵入生物の身体構造をコピーし、その後より戦闘向きの身体に変化した。だから侵入生物よりも遥かに強い筈である。
なのに今、ヤントイッヒは押されている。一度は拘束したのに抜け出され、今やろくな反撃も出来ず一方的にやられている体たらく。反撃しても躱され、いなされ、逆にカウンターを食らう。
何故勝てないのか。何故押されているのか。
――――ヤントイッヒは答えに辿り着けなかった。自分のしてきた全ての行いが、自分を追い詰めていると。
確かにヤントイッヒの身体は、侵入生物よりも遥かに攻撃的となった。数値的な意味での戦闘能力は、間違いなく侵入生物よりも上である。
だがその肉体の『元』は侵入生物だ。
侵入生物の身体は、数え切れないほどの世代交代の果てに辿り着いた形態だ。過酷な生存競争を経験し、生き延びてきた個体の末裔。自然淘汰を経て、進化してきた肉体である。
そして進化したのは肉体だけではない。
身体を動かす神経も、それを維持する細胞機能も、敵に襲われた敵の戦い方さえも、進化により洗練されてきた。その『身体』に最適化するように。侵入生物は自分の身体の最良の動かし方を知っているのだ。
ところがヤントイッヒはその完成された身体を弄り回した。
【ベギョオ!?】
運動機能を向上させるために張り巡らせた神経系は、打撃の『刺激』を拾ってしまう。過度の刺激は情報処理時のノイズとなり、例え痛覚がなくとも身体の動きを鈍らせる。
【ギ、ギアッ!】
折角生やした腕も、中に骨を入れては台なしだ。骨格は強い力を生み出すが、同時に動きを制限する。
変幻自在に動き回る侵入生物の翅からすれば、攻撃範囲が狭く、予測しやすい。受け流すのは簡単であり、こちらの攻撃は入れやすい。一方的に攻撃出来て当然だ。
【ゴアアアッ!】
新たに編み出した大技・過次元レーザーなど無駄の極み。
身体を貫通する程度など、侵入生物にとって大した傷ではない。それにダメージの方が大きいとはいえ、多少は吸収出来ている。見た目ほどのダメージではないのだ。
大して放つ側であるヤントイッヒは、膨大なエネルギーを消耗している。ただでさえ高度で複雑なのに加え、攻撃向きでない身体を無理矢理作り変えて放つ事も消耗を大きくさせている。使えば使うほど、追い込まれるのはヤントイッヒの方だろう。
全てが裏目に出ている。
ヤントイッヒは自ら、完璧なバランスに進化した肉体を崩してしまった。『完全』が『不完全』に勝てる訳もない。この帰結は当然のものと言えよう。
それでも素早く、力強く動けば勝てる、と知的生命体ならば思うかも知れない。だが侵入生物には知性がない。つまりその身体は、やはり意識的に動く事を想定していない。反射的・演算的な動きをする事が前提だ。思考を挟む時点で動き出しは遅く、意識的に制御した動きなど非効率の極みで力も出ない。
理性はなくしても知性が残るヤントイッヒには、そもそも使いこなせない身体なのだ。
【オ、オオ、オギ、ィアガアァアアッ!】
猛り狂う雄叫び。傷付いた身体は更に強く『本能』を呼び起こし、理性を完全に塗り潰す。本来ならばそれは身体機能の枷を取り外し、更なる力を引き出すためのものだが……ヤントイッヒが侵入生物に付け足した部分は、知性的な制御を前提にしたもの。ここで知性を捨てても、扱えない武器が身体の動きを妨げてしまう。
いよいよ動けなくなるヤントイッヒに、侵入生物は更に肉薄。そして身体の肉を広げ、ヤントイッヒの顔面に張り付いた。
侵入生物には口がない。何故なら必要ないからだ。全細胞が吸収能力を持っているのだから、わざわざ口を形成する必要はない。張り付くだけで『捕食』が行える。
本来、ヤントイッヒの細胞にも吸収能力がある。しかしヤントイッヒは肉体に改造を施した事で、高い戦闘能力を得てしまった。戦闘能力を維持するには、多くのエネルギーを使わねばならない。その分吸収能力に割ける力は減ってしまう。つまり今のヤントイッヒは、吸収能力が著しく弱体化しているのだ。
ヤントイッヒが今まで侵入生物と触れ合えたのは、あくまでも吸収能力が拮抗していたから。弱体すれば力負けし、その肉体は吸収されてしまう。
【ァ、ガ、キ……ギ、キ……ィ……】
理性をなくしたヤントイッヒは腕や翅を振り回して抵抗するが、そんな事をしても侵入生物は振り解けない。崩れた身体は植物の根のように、ヤントイッヒの体内を侵食しながら吸い上げる。
断末魔を上げる間もなく、ヤントイッヒの身体は侵入生物に飲み込まれた。その身体はエネルギーへと分解され、侵入生物の血肉へと変換。
でっぷりと太った侵入生物の『成長』が、どちらが勝者かを物語る。
全知全能の敗北としては、あまりにも呆気ない最期。されど侵入生物は勝ち誇らない。代わりに考える事は、倒される前のヤントイッヒならばすぐに分かっただろう。
取り込んだエネルギーを使い、一刻も早く繁殖したいのだと――――
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