第一章 安全な国
第一話
麻里香の父親は東北地方にある中小企業勤めのサラリーマン。母親は近所の店でパートをしている。麻里香は地元の短大に通う学生で、高校生の妹がいる。経済状況は日本の平均であり、まさに絵に描いたような平凡な家族だ。
それが麻里香は嫌だった。なんてつまらない生活だと。
常々刺激が欲しいと願っていた麻里香だが、今は違う。
同じ日々の繰り返しでもいい。山も谷もなくて良い。ただ、平凡で平和に暮らせれば。
麻里香の考えが変わった原因。それは目の前にいる男。
短めのウルフカットにホリの深い顔。芸能人にいそうなかなりのイケメンだ。そのイケメン男は腰を屈め、満面の笑みを浮かべながら麻里香を見下ろしている。麻里香の目線がしゃがんでいる男よりも低いのは、麻里香の姿勢が地面に横たわるものだから。
今の麻里香は両手両足を縄で縛られ、
麻里香が誘拐されたのは、友人達とのショッピングからの帰り。駅で別れ自宅の直前まで来た時、高級車に乗った男に声をかけられたのだ。
「すいません、道を教えてくませんか?」
イケメンから爽やかな笑顔を向けられた麻里香は「はい、いいですよ」と揚々と答える。これは運命の出会いなのではと、内心舞い上がっていた。
「この場所なんですけど……」
男が指し示す地図を覗き込もうと、運転席に麻里香が近づいた時。首元に冷たいモノが当てられる。それは刃渡五センチほどのナイフ。
「麻里香ちゃん、車に乗ってくれる?」
笑顔のまま命令してくる男。麻里香は男の命令に従うしかなかった。
麻里香は車に乗ると、男に手足を縛られた。そして、この廃墟となったホテルに連れてこられたのである。
ラウンジの埃臭いカーペットの上に転がる麻里香に対し、男は熱の籠った視線を向けている。まるで愛しい恋人のように。だが、一方の麻里香は全身にまとわりつく視線に激しい嫌悪感を抱く。気持ち悪くて仕方がない。
男は笑顔を張り付けたまま、麻里香の猿轡を外す。発言をようやく許された麻里香は怯えながらも質問。
「あ、あなたは一体誰?」
「
男は特に隠すこともなく、正直に自身の名前を名乗った。
麻里香は男の名前に記憶がない。やはりこの男のことは知らないはずだ。
「何故こんなことをするの?」
石江は悲しそうな表情を作る。
「わからない? じゃあ、これならどう?」
石江はあるものを麻里香の目の前に置いた。
それは手紙の束。中には汚れていたり、ちぎれているものがある。その手紙達に、麻里香は見覚えがあった。そして、同時に顔を青ざめる。
「それって……」
「そう! ようやくわかってくれたね。僕がラブレターの送り主だよ」
麻里香の平凡な日常に変化が訪れたのは、二週間ほど前。大学から戻って自宅のポストの中身を確認した際、チラシに混じって麻里香宛の手紙が入っていた。手紙には切手や消印が無い。つまり送り主は直接麻里香の家まで来て、手紙をポストに投函したということだ。本来なら気味悪く思うが、麻里香は違った。手紙には麻里香のことをどれほど愛しているのか、ロマンチックな表現で書かれていた。特に一目惚れという表現に嬉しく思う。
相手がわからないということも、麻里香の心を強く刺激した。
一体、どこの誰かしら。こんな手紙を書く人なんだ、きっと素敵な人に違いない。ついに自分にも王子様が現れたんだ。
正体不明の王子様の出現に麻里香は浮かれたが、考えをすぐに改める。
次の日以降もラブレターが毎日届き、内容も次第に過激になっていく。麻里香の行動を監視していることも読み取れた。
ラブレターの投函が一週間ほど続き、麻里香は送り主が白馬の王子様ではなく、ただのストーカーだとようやく気づいた。
身の危険を感じた麻里香は家族と共に警察に相談。応対した強面の刑事は親身になってくれたが、手紙だけでは警察は動けないとのこと。対応はパトロールの強化に留まった。それから麻里香はなるべく複数人で行動することを心がけ、ラブレターも読まずに捨てることにした。
今、麻里香の目の前に置かれたのは捨てたはずのラブレター。つまり石江は麻里香の家のゴミを漁り、ラブレターを回収していたのだ。
「僕はね、君のことを想って、一文字ずつ気持ちを込めて書いたんだよ。……なのに、君はさ!」
石江は麻里香の腹を勢いよく蹴った。圧迫感と痛みで麻里香は息が詰まる。
「この僕の純情を踏み躙って、ゴミとして捨てて。人を傷つけるなんて、最低の行為だよ!」
石江はもう一度蹴りを入れる。
「せっかく直接話をしようと思っても、僕のことを警戒していたみたいだし!」
自分勝手な批難をしながら、何度も麻里香を蹴る石江。麻里香は痛みに耐えられず嘔吐してしまった。
石江は蹴るのをやめ、麻里香に自身のスマートフォンを見せた。
「僕はなんとしてでも君と話をしたかった。だから、このアプリに力を貸してもらうことにしたのさ」
スマートフォンの画面には、白い背景に不気味に笑っているキャラクターのアイコンが映っている。
「麻里香ちゃんも知ってるよね? ルシファー」
天使から堕天した悪魔の名を冠するこのアプリは文字通り、悪魔のようなアプリ。望む犯罪行為を言えば、実現するための計画を提案してくれるのだ。しかも、隠蔽方法も丁寧に教えてくれる。
「麻里香ちゃん、今日友達と買い物に出かけるってSNSに書いていたよね。そのことをルシファーが見つけたんだ。そして、こう提案してくれたんだ。友人達は家の方向が違うから、駅で分かれる。その間に拉致すればいいって。この廃墟のホテルも教えてくれた。君とじっくり話ができると。それにしてもダメだよ。SNSに予定を書くなんて。悪い人間に見つかったら大変だよ。やっぱり俺が君のことを守らなきゃ」
石江は一転真顔になり、麻里香の髪を掴み上げ、じっと見つめる。光がない。とても暗く、とても深い目だ。
「ねえ、謝って。謝ってよ。俺を傷つけてごめんなさいって。早く謝って」
本来麻里香に謝る義務はない。石江が一方的に好意を募らせ手紙を送ってきたのだ。むしろ迷惑であり、石江が麻里香に謝るべきなのである。
だが、言う通りにしなければ殺されると麻里香は思った。
「……ご……」
「なに? 聞こえないよ」
恐怖と痛みで麻里香の口から言葉がなかなか出てこない。その様子に石江はイラつき、掴んでいる麻里香の髪を揺らす。
「なんて?」
「ご、ごめんな……」
「もっとはっきり言えよ!」
拳を振り上げる石江。来るであろう痛みに備えるため、麻里香は反射的に目を瞑った。
その時だ。
「やめろ!」
鋭い男性の声が響いたのは。
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