第6話 はじめて

 

 やわらかな風が木々の若い緑をゆらす。わたしに春休みが訪れた。

 今日はアレックス様に誘われて、ティーグレ公爵家の私有地にある湖のほとりの草原にピクニックにやってきた。


「わあ、すごくきれい……っ」


 湖はとても透き通り、草原には黄色やピンク色の花が咲いている。湖面は、やわらかな彩りを幻想的にうつしていた。


「気に入ってくれて嬉しいよ。ここの湖は、夕焼けがすごくきれいなんだよ」

「わたしも見てみたいな」

「うん、もちろんソフィーが見たいなら、ゆっくり過ごそうか?」


 アレックス様の言葉が嬉しくて、ぷるぷるたれ耳を震わせながらうなずく。


「えっと、あの、アレク様は、どれが食べたい……?」


 大きなピクニックシートの上に座ったアレックス様の膝の上で、バスケットをひらいて尋ねる。仲のいい婚約者はピクニックの時に食べさせあうと教えてもらったばかりで、顔が火照ってしまう。


「どれも美味しそうで迷うから、ソフィーに選んでほしいかな」


 わたしとアレックス様の好きなものをいっぱい詰め合わせた宝箱のようなバスケットをじっと見つめる。アレックス様の好きな肉厚なローストビーフと野菜たっぷりのサンドイッチを選び、そっとアレックス様の口もとに運ぶ。


「ソフィーに食べさせてもらうと、すごく美味しいね」


 目をやわらかく細めたアレックス様にどきどきする。わたしを抱きしめて両手が塞がっているアレックス様にサンドイッチを運び終わる。


「ソフィーはどれにする?」

「ハニーキャロットラペのサンドイッチにする」

「はい、どうぞ」


 鮮やかなオレンジ色のハニーキャロットラペサンドイッチが目の前に差し出され、ぱくりと食べる。ふわふわの人参と林檎の酸味と甘みが口の中に広がっていく。


「アレク様、美味しい……っ」

「うん、よかった。いっぱい食べてね」


 食べさせあいをした後は、湖のほとりを手を繋いで歩く。きれいな花を摘んで花かんむりを作ったり、大きめのクッションに並んで横になって昼寝をして、夕焼けの時間までを過ごした。



「きれい──…」


 湖の近くに並んで立つ。茜色にきらきら輝く湖面がすごく美しくて、たれ耳もぷるぷる震えるほど感動してしまう。

 しばらく言葉を忘れて、湖に映る茜色のゆれるようすを見つめる。ふと視線を感じてアレックス様を見上げれば、とてもやさしいまなざしで見つめられていた。


「ソフィー、今年も僕がポミエス学園の魔術を教えることに決まったよ」

「ええっ? ほ、本当に……?」

「うん、本当だよ。何度採用しても辞退が続いてしまって、結局誰も残らなかったと学園長から聞いたよ」


 驚きと嬉しさで、たれ耳がぷるると震えはじめてしまう。

 ポミエス学園では、魔術科の先生がいない時は王宮魔術師を派遣する決まりがある。けれど、ポミエス学園の教職はとても人気なので、今年はアレックス様と離ればなれになると思っていた。

 穏やかな笑みを浮かべたアレックス様が言葉を続ける。


「学園長と魔術師長に相談されて、魔術科をあと2年教えることになったよ」

「っ!」

「僕は、ソフィーと学園で一緒に過ごせると思うと嬉しいよ」


 驚きすぎて言葉が出てこない。アレックス様の漆黒の黒眼をただ見つめてしまう。

 アレックス様は、わたしのたれ耳をめくりあげて耳元にささやく。


「ソフィーは、僕がいない方がよかったかな?」


 アレックス様の掠れた声に、首を横に大きく振る。ふわりと笑ったアレックス様にたれ耳をやさしく撫でられ、心がとろりと甘くなっていく。


「わ、わたしもアレク様と一緒に過ごせるなんて夢みたいに嬉しいけど──…」


 素直に答えたあとで、ずっと気にしていることを口にした。


「アレク様は、王宮魔術師とポミエス学園の先生を掛け持ちするの大変じゃないの……?」


 アレックス様は画期的な魔術式をいくつも発表して褒章を受けていて、王宮魔術師として期待されている。窺うようにアレックス様を見つめると、端正な顔立ちが真剣な表情に変わり、静かに射抜かれた。


「うん、そうだね。すごく大変だよ」


 あっさりと答えたアレックス様になんて声を掛けていいのか分からなくて、思わずうつむいたまま沈黙が流れる。


「すごく大変な時は、ソフィーに癒してもらえたら僕は疲れが吹き飛ぶよ」


 ふわふわな縞模様の尻尾に頬をすりすりと撫でられるのに誘われて顔を上げる。癒してくれるかな、とアレックス様が小さく首を傾げるかわいい仕草に、胸がきゅんと音を弾ませた。


「うんっ、わたしにできることならなんでも言ってね」

「ソフィー、なんでもなんて言ったら悪い虎にすぐに食べられちゃうから気をつけてね」

「悪い虎? 大好きな虎アレク様にしか言わないよ……?」


 首をこてりと横に傾ける。アレックス様がたらりと横に流れたたれ耳をそっと持ち上げて、キスをひとつ贈られた。


「僕はね、ソフィーと一緒にいて、ふわふわな耳にさわっているとすごく癒されるよ」

「ほ、本当……?」

「うん、本当だよ。これからも疲れたときはソフィーに癒してもらうね」


 アレックス様の役に立てることが嬉しくて、大きくうなずくともう一度たれ耳にリップ音が弾ける。

 2人で微笑みあう。湖にゆっくり視線をうつすと、世界がオレンジ色に染まっていた。



「ソフィー、この湖にはジンクスがあるんだよ」

「そうなの?」

「うん、夕日を見ながら好きな人とキスすると、ずっと一緒にいられるんだよ──…」


 ふわりと笑ったアレックス様から熱のこもった瞳で見つめられる。その瞳を見ていると、身体中が心臓になったみたいにどきどきしていく。

 いつもたれ耳や頬にキスされているけど、それ以上のキスはしたことがない。16歳のわたしは21歳のアレックス様から見たら子どもだと思われているのかなと思っていたから、嬉しくて、でも恥ずかしくてたれ耳がぷるぷる震えてしまう。


 アレックス様の大きな手のひらが頬をなぞって、あごを掬う。



「ソフィー、大好きだよ」



 その言葉を合図にまぶたをとじて。

 背の高いアレックス様が屈んで顔を近づけるささいな気配に胸がどきどき高鳴って。


 はじめてのキスは、すごくやさしくて、でもとびきり甘くて──…


 夕陽が沈むのを2人で眺めながら、大好きなアレックス様とずっと一緒にいたいと思った。

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