異世界天誓
赤井天狐
序章
第一話【女王フィリアと少年ユーゴ】
「————標的を発見。三——いえ、四頭。行けますか、ユーゴ——」
望遠鏡で覗いた先、深い林の奥には、悍ましい化け物の姿があった。
魔獣——と、我々はそれをそう呼んでいる。
数多の獣を繋ぎ合わせたような、この世のものとは思えない異形。
それが、この世界には蔓延っている。
「——任せろ——」
私の願いに応えたのは、まだ身体の小さな少年だった。
黒い髪に黒い瞳、まだあどけない顔。
どこにでもいるような、普通の子供——に見える者——
少年は馬車から飛び出し、そして鬱蒼とした木々の間を駆け抜ける。
その走りは風よりも速く、何に阻害されることも無い。
丈のあっていないローブをはためかせ、彼はみるみるうちに魔獣へと接近していく。
「————はぁああ————っ!」
魔獣が彼を認識したのは、既に彼が剣を抜いて飛び掛かってからのこと。
獣の嗅覚、聴覚を以ってしても捕捉出来ないほど速く、ただ真っ直ぐに突き進んで、彼は瞬きの間にその全てを斬り捨てた。
「——お疲れ様です、ユーゴ。周囲に他の魔獣の気配はありません。帰還しましょう」
「——分かったよ、フィリア——」
“この世のあらゆるものよりも強い”少年ユーゴは、歳に似つかわしくない、どこか退屈した顔で馬車に乗り込んだ。
強大な魔獣との戦闘も、それを殺すことも、彼にとっては心を揺らすものではない——と。
そう突き付けられているようで、それが少しだけ苦しかった。
或いは私は、この見ず知らずの少年に、深い業を背負わせてしまっているのではないか——
黒く長い髪。釣り上がった鋭い眼。男性の中に混じっても埋もれない上背。
鏡に映るその姿が、私——フィリアだ。
アンスーリァ王国。小さな島国でありながら、しかし豊かな土壌と海洋資源に恵まれた国。
その国の三代目国王の長女として——フィリア=ネイ=アンスーリァとして生を受けた。
それと同時に、政略に使われる道具としての一生を義務付けられた————筈だった。
「——女王陛下、お食事の準備が整いました」
「よろしい。退がりなさい」
ここから遠くない大陸での魔王の台頭、それをきっかけとした魔獣の増殖。
混乱に乗じた反乱や内紛、盗賊の増加。
そして、王の暗殺。
私が幼い頃、先代国王は——私の父は、民の手によって殺められた。
悪行を働く暴君というわけではなかった。
それでも、魔獣との戦いに心を荒ませた民には、何もしない王は悪王に見えたのだろう。
「——ユーゴ。出てきてください、食事にしましょう」
そうして私は、数年の後に女王になった。
フィリア=ネイ女王という肩書きは、幼かった私には重た過ぎるものだった。
それでも、せめて父のようには——救うべき民に見限られるようにはなるまいと、必死に心を律してきた。
「ユーゴ。出てきてください、冷めてしまいますよ」
私は王女であり、そして女王である前に、魔術師であった。
素養があると、幼い頃から国でも有数の術師五名に師事し、遂には彼らをも超える魔術師となった。
その力を以って、幼い私はどうしても父を蘇らせたいと——家族を取り戻したいと願った。
願ってしまった。
この世界には——魔術の世界には、屍術というものがある。
死者の魂——精神を取り戻すというものだった。
私はその意味をきちんと理解せず——いいや。理解しようとせず、目を背けたまま術を実行した。
結果——父は死ぬことも生きることも許されない、無限の地獄へと幽閉された。
「——ユーゴ、まだ眠っているのですか。入りますよ」
失望した——
魔術とは——私が培ってきたものとは、この程度のものだったのか——と。
身の丈に合っていない希望を打ち砕かれ、私は自らの罪禍よりも、自らの挫折を大ごととして捉えた。
そして私は、魔術を捨てた。
もう何にも縋らない。
自らの力だけで国を治め、誰に刺されることも無い立派な王になろうと決めた。しかし……
魔獣の侵攻はあまりに苛烈だった。
国はみるみるうちに疲弊し、野盗で溢れかえった。
魔人——と、そう名乗る外国の組織まで現れる始末。
これはもう、人の力のみでは覆せない。
そうして私は、再び魔術師として——屍術師として、最後の大儀式へと臨んだ。
「……起きていたのですね。食事の準備が出来ましたよ、温かいうちに召し上がってください」
「——うるさい。食って欲しかったら運んでこい。俺はお前と一緒になんて食いたくないんだ」
————召喚屍術式————
外法も外法、あらゆるものから石を投げられかねない、醜悪極まりない行為。
悪行と呼ぶにも憚られる、生命を侮辱する魔術儀式。
六十日足らず前の晩、私はそれによってユーゴという少年をこの世界に召喚した。
魔力の全てと、そして五名の魔術師の命を生贄にして。
「……まだ、信用していただけませんか。ユーゴ。貴方はまだ、私を赦してはくださいませんか」
「——うるさい! いいから早く持ってこい!」
ユーゴは——彼の魂は、別の世界で死を迎えた少年のものだ。
召喚術式は生者の精神を呼び寄せ、肉体に定着させるもの。
故に、元の肉体との縁は切れない。
それが原因となって、式は複雑に、維持はより困難になってしまう。
しかし、彼の場合は違う。
精神はこの世界に完全に定着し、肉体との縁はひとつだけ。
維持する為の補助術式も必要無く、ユーゴはひとりの人間としてここに独立している。
召喚の式も単純で、“不必要な要素”を付け足すことも簡単だった。
「……ユーゴ。ここに、置いておきますね」
「召し上がったら、声を掛けてください。空いた食器がそのままでは、貴方も良い気分ではないでしょう」
——この世のあらゆるものよりも強い——
それが、私が式に挟み込んだ余計な一節。
こんなにも曖昧で大雑把な追加式でも、その効果は絶大だった。
少年の身体には、その外見からは想像出来ないような力が備えられていた。
大人にも、鍛え上げられた兵士にも、野を駆る獣——魔の獣にも負けない。
腕力も、脚力も、何もかも。
あらゆる面であらゆる生命を凌駕した存在。
それが、唯一の召喚屍術式成功例、ユーゴだった。
「明日もまた、よろしくお願いします。魔王は斃されたとの話ですが、しかし魔獣の数が減る気配はありません。貴方だけが頼りです、ユーゴ」
「——言われるまでもないよ。この力を振るえるなら、俺は何が相手でも構わない」
けれど……呼び出された精神は、その力に相応しいだけの強さを持っていなかった。
戦いの中で命を落とした強者の魂を——と、私は勝手にそう願っていた。
けれど、ことはそう上手く運ばない。
ユーゴには、大き過ぎる力を御するだけの心が足りていなかった。
「……それでも……私は……」
けれど、どんなに危うい心であろうと、その力は本物だった。
彼が降り立った戦場に敗北という文字は無い。
強大な魔獣もものともせず、一撃で全てを蹴散らしてしまう。
彼と一緒なら、もう一度豊かな国を取り戻せる。
それは願望ではなく、確信でもない。厳然たる事実だ。
魔獣を駆逐する。盗賊団を排除する。魔人なるもの達を撃退する。
眼前の課題はまず三つ。
しかし、もうひとつ放って置けない噂がある。
これ以上火種を増やされる前に、手を打たなければならない。
大丈夫、やってみせる。ユーゴの力さえあれば、どんな難題も——
翌日、私はユーゴを連れて宮を出た。
少数の護衛と共に馬車に乗り、先日魔獣の巣を壊滅させたばかりの森林の奥地を目指す。
背の高い広葉樹の茂る森の中は、日中でもランタンが必要なほど暗い。
そんな中でも、ユーゴの眼は魔獣や外敵の痕跡を見逃さない。
「——フィリア、止めろ。少し先、魔獣がいる。蹴散らしてくるからここで待ってろ」
「はい、お願いします。ご武運を」
祈りなんていらない。ユーゴはそう言って馬車を降りると、また風のように走り出した。
その背中もすぐ闇に紛れ、少し後になって魔獣の断末魔だけが耳に届く。
それは、馬車を走らせても良いという合図だった。
「……しかし、よろしいのですか。いくら替えの利かない稀代の戦士とはいえ、女王陛下にあのような……」
「よいのです。ユーゴは国に無くてはならない存在で、私はそれを繋ぎ止めるのが使命」
「まだ幼い少年ですから、わがままならいくらでも通しましょう。それで国が救えるのなら」
兵士達は皆、目を伏せた。
不服——だろうか。
自分達はずっと国に仕え、鍛錬を積み、危険な戦場を駆け抜けてきた。
それなのに、まだ百日も国にいないユーゴばかりが特別な扱いを受ける。
顔色を窺うまでもない。
それでも、彼らはユーゴを認めざるを得ない。何故なら——
「——戻ったぞ。昨日のと同じやつだった」
「そうですか。では、恐らくここへ逃げ込んだか、或いはここの魔獣を駆逐したが為に縄張りを広げようとしていたのでしょう」
走っている馬車に、ユーゴは平気で乗り込んできた。
返り血こそ浴びているものの、どこにも怪我などしていない。
馬と並走したというのに、息を切らせた様子も無い。
誰も、この圧倒的な存在を前に異議など唱えられない。
馬車は森の奥へ奥へと走って行く。
目指すは山の麓の洞穴——吸血鬼が住まうという横穴。
これ以上国を荒らすものは看過出来ない。
この最強の少年の力を以って、私は全ての害悪を処罰する。
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