Day29 焦がす

 サマーブルーム境町。今はもう、取り壊されて存在しないアパートの名前だ。

 退去を決めた日のことを思い出す。あのときは大変だった。


 展望台で友人に「早く引っ越した方がいい」と言われて以来、なんとなく部屋の中にいると落ち着かなかった。おまけにここ数日で住人の数がどんどん減って、現在の住人はおそらく三人だけだ。

 一階はわたしが住んでいる104号室だけ。二階は202号室と――たぶん、201号室にも今月引っ越してきたばかりの人がいるはずだ。

 もう潮時かもしれない。家賃は安いし、通勤にも便利だから助かっていたけれど、そろそろわたしも引っ越すべきかもしれない。そのときに備えて服でも整理しておくか――と、部屋の中に積んでいた衣装ケースを動かしたとき、気づいた。

「うわっ、なにこれ」

 壁が黒くなっている。何か液体をこぼした、とかではなく、焦げた跡のように見える。指で触ってみると、煤のようなものがついた。

(本当に何これ。気持ち悪い……)

 黒くなっていたのは、103号室との境目にある壁だ。衣装ケースの背面はほぼ真っ黒、今まで気づかなかったのが不思議なくらいだった。

 焦げたようになった壁を眺めていると、背中がぞわぞわしてきた。理由もないのに「これは厭なものだ」と感じる。本当にまずいかもしれない――

 わたしは片付けを一時中断することにした。スマートフォンで不動産会社のウェブサイトを開くと、早々に内見の申し込みをした。管理会社にも電話を入れ、留守電に退去する旨を吹き込む。無駄に家賃がかかってしまうだろうが、致し方ない。

 週末に引っ越し先を決めて、早めにここを出よう。それまで少しの辛抱だ。


 夜、やけに騒がしい気がして、目が覚めた。

 わたしは電気を点けたまま眠っていた。目を覚ますと、煌々と光る電灯が視界に飛び込んできた。

 騒音は夢ではなかった。どこかで大勢の人が騒ぐような声が聞こえる。まるで、少し離れたところでお祭りをやっている――みたいな感じだ。目をこすりながら体を起こしたが、眠気は一瞬で醒めた。

 103号室との境の壁が、半分以上真っ黒に染まっている。

「うわ……」

 声をあげたそのとき、騒音が急にこちらに近づいてきた。大勢の人の声と、それから足音も聞こえる。

 ばたばたばたばたばたばた!

 足音が目の前の壁を駆け上がり、頭上を横切った。それと同時に、煤けた黒い足跡がいくつも天井についた。

 わたしは部屋を飛び出した。家の鍵なんか開けっ放しだったけれど、走って近くの友達の家に駆けこんだ。

 次の朝、明るくなってから友達に頼み込み、一緒に部屋に戻ってもらった。財布だのスマートフォンだの、やっぱり取りにいかなければならない。

 中はどうなっているのか――おそるおそるドアを開けると、壁も天井も昨夜のままだった。

「これ、わたしがクリーニング代払うのかな……」

「さぁ……管理会社に聞いてみたら? あと早くここ出ようよ」

 友達の言う通りだった。でも、わたしが払うのは納得がいかない――そんなことを考えながら貴重品をまとめて部屋を出た。後でもう一度管理会社に電話をかけると、

『ああ、いいですよ。そのままで』

 と言われた。


『そのアパート、もう近日中に取り壊しますので』

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