Day28 ヘッドフォン

 サマーブルーム境町。

 今はもうなくなってしまったアパートの名前だ。

 すべての部屋に幽霊が出る建物。それでもいいという住人だけが集まって、それなりのバランスが保たれていたあの場所は、決して住み心地が悪いわけではなかった。でもある年の夏、そのバランスが一気に崩れて、そこからは早かった。


 私が101号室を出たのは、102号室が空き部屋になった直後のことだった。

「お姉さんも、早く引っ越した方がいいと思います」

 挨拶に来てくれた102号室の男の子は、真顔でそう忠告してくれた。「お世話になりました」よりも、そちらの方を伝えたかったのだと思う。

 ありがとうと答えたものの、私はぎりぎりまでこの場所に留まるつもりだった。縁側に出る子どものことが、怖いくせに離れがたかった。

 かつて生んであげられなかった私の子どもがもしも生きていたら、あのくらいの年になっていただろうか。顔のないあの子どものことを、私はそんなふうに見ていた。


 でもその夜、突然限界が来た。

 いつものようにヘッドフォンで音楽を聴きながら家事をしていると、ノイズが混じった。ヘッドフォンは無線だが、こんなことは珍しい。エレクトロ・スウィングの間にぶつぶつと異質な音が混じり、それが突然人の言葉になった。

『入ってきた』

 女の声だった。

『隣の人たちが入ってきた』

 泣くような、唸るような声が少し続いたあと、『いやだよぉ』とか細くささやいて、女の声は途切れた。

 その直後、音楽を押しのけるようにして、喧噪が頭の中にわっと満ちた。まるで利用者でごったがえす駅の構内に突然放り込まれたかのようだった。

 私は慌ててヘッドフォンを外した。その直後、102号室との境の壁がドンドンドンドンと叩かれた。

(隣から何かくる)

 とっさにスマートフォンと部屋の鍵だけを握って、部屋を飛び出した。外で何かに出くわしたらどうしようと思わなくはなかったけれど、それよりも室内の方が怖い。幸い何にも出くわすことなくアパートの敷地を出ると、それからは明るいところを目指して走った。

 気がつくと最寄り駅の前のコンビニに入って、冷蔵庫の前でぼんやり立っていた。

 もうあの部屋には住めないと悟っていた。

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