第23話 未練
8月から付き合い始めて3ヶ月が経ち、きみかさんに水をかけてしまったあの夏の日が遠く感じるほど肌寒くなった11月のある週末、近所の居酒屋で飲んでいる時、
「近くのライブハウスだからよかったら見に来て」
と、きみかさんから初めてライブに誘われた。詳しい場所を聞くと予想通りあのライブハウスだった。
ライブハウスでもきみかさんを見かけていたということは、いまだに言えていなかった。
音楽関係で知り合った人とは付き合わないと言っていたきみかさんにそのことを知られたら、この関係がなかったことになりそうで、なかなか伝えられずにいた。
とは言え、このままの状態でライブに行くことには罪悪感が消えず、私は仕事を理由にその返事を一旦保留にさせてもらった。
そのことに加え、もう一つ心配なことがあった。あそこに行けば、明ちゃんと出会ってしまう可能性がある。私と光の問題だから、いくら妹だからといって別にどうこうというわけではないはずだけど、どうしても明ちゃんには顔を合わせづらいと感じてしまう。
でもその日のライブはアコースティックライブで、出演者はみんな一人か二人組の弾き語りの人しかいないと聞き、それなら明ちゃんに会う心配はないと思い、数日後、私はきみかさんにライブへ行くと返事をした。そして、その日こそちゃんと、前に来たことがあることを伝えようと心に決めた。
ライブの日、一般のお客さんの開場はもっと後だったけど、きみかさんの連れという特権で、私はまだ準備段階のお店の中に一緒に入らせてもらった。
きみかさんはどこでも隠してはいないようで、ライブハウスの中に入るとすぐに私をある人のところに連れていって「彼女です」と紹介した。
きみかさんとこんな関係にならなかったら絶対に関わることのなさそうな、片耳に10個近くのピアスをしたピンクの髪の女の人は、このライブハウスのオーナーさんだった。
「へー!きみかが彼女連れて来るなんて珍しいねー!しかも美人さんじゃん!はじめましてー!」
とすごく気さくに話しかけてくれた。
「えー!?きみかさんの彼女ー!?」
オーナーさんの言葉に反応して、ステージ上にいたやけにスタイルのいい女の子が軽快に飛び降りた。お互いの顔がはっきり認識出来る2メートル手前まで彼女がかけ寄って来た時、向き合う私たちは同じ表情をしていた。
「うそでしょ……きみかさんの彼女って菜々未さんなの……?」
「………明ちゃん…」
「え?二人、知り合い?」
訳の分からなそうなきみかさんがそう言うと、
「菜々未さんはね、私のお姉ちゃんと付き合ってたんですよ、ついこないだまで。お姉ちゃんから菜々未さんと別れたとは聞いてたけど、まさかきみかさんと付き合ってるなんて、本当に意味分かんないんですけど…。菜々未さん、どうゆうことなんですか?もしかして、私のライブでここに来た時に目つけたんですか?」
明ちゃんは私を
「ち、違うの!……そうじゃなくて…!」
「ちょっと待って、ここに来たってどうゆうこと!?」
「……きみかさん知らないんだ?菜々未さん、前に一回ここに来てるんですよ。私がライブに誘って、お姉ちゃんと二人で。その時にきみかさんの歌も聴いてるし」
「えっ!?そうなの?菜々未さん…?」
「…ごめんなさい…。でも、そのことは今日ちゃんと話そうと思ってて…」
きみかさんはまだ状況が飲み込めないような顔をしていた。
「いくら妹だからって私がとやかく言うことじゃないのは分かってるけど、もし別れた原因が菜々未さんの裏切りなんだとしたら、私、菜々未さんのこと許さないから。お姉ちゃんをあんな風にして……」
「……あんな風にって?光、どうかしたの?!」
「……人が変わっちゃったみたいに全く笑わなくなっちゃいましたよ、菜々未さんと別れてから。あんなお姉ちゃん見たことない……会社も休みがちになっちゃって、ほとんど食べないし、ギリギリ生きてるだけって感じ。……まぁ新しい彼女と楽しくやってる菜々未さんにはもうそんなこと関係ないだろうけど」
「…………」
私が何も言えないでいると、明ちゃんはその言葉を最後に私の前から立ち去った。
「……あのさ、私、そろそろ準備してくるね」
と、それに続くようにきみかさんも私から離れていった。
そのまましばらくしてお客さんがぞくぞくとお店の中へ入ってきた。やがて初めの人のライブが始まり、二番手の人に変わり、何番目かにきみかさんの出番が来ても、私はずっと光のことを考えていた。
何年も長いことずっと一緒にいて、笑顔をなくした光なんて見たことはなかった。
私と別れた後だって、きっと光はあっけらかんとして、いつも通り太陽のような笑顔を振りまいているものだと思い込んでいた。
「菜々未さん、どうだった?」
名前を呼ばれて顔を上げると、さっきまでステージの上にいたきみかさんが私の目の前に立っていた。
「あ、うん!お疲れ様!すごくよかったよ!」
「……傷つくんだけど」
「…え?」
「ステージの上からでもこの席ってよく見えるんだよね。菜々未さん、ずっと上の空で全然聴いてなかった」
「あの……」
「私のライブ中、ずっと光さんのこと考えてたでしょ?」
「……ごめんね…、明ちゃんからあんな話聞いて、ちょっとびっくりしちゃって……」
「正直だね。否定しないんだ?」
「……ごめんなさい」
「悪いんだけどさ、今日は一人で帰ってもらってもいいかな?」
「あのっ!本当にごめんなさい!私……!」
「いや、別に怒ってるとかそうゆうんじゃないから。今は普通にお互い気まずいし、その方がいいかなって思って」
「……分かった」
私はそのまま席から立ち上がり、ライブハウスを後にした。タクシーに乗って家に着くと、扉の前に座り込んでいる人影があった。
「……光?」
私の声に反応して、悪いことをして先生に見つかった小学生のように素早く光は立ち上がった。そして、少し怯えたように私を見る。
「菜々未…」
光は笑ってみせたけど、そこにあの太陽はなくなっていた。
「……荷物……取りに来たんだけど、連絡もしないで突然ごめん……」
「ううん、いいよ。今開けるね」
鍵を開けて部屋の灯りをつけると、
「変わってないね、部屋…」
と光は小さく言った。
「別に変わらないよ」
「告白、うまくいったの?」
「……うん」
「…そっか。じゃあここにも来てるんだ?」
「………たまにだけど」
「ごめんね、元カノの私物とか邪魔過ぎるよね!もっと早く取りに来たかったんだけど、最近仕事が忙しかったから…」
光は嘘をついた。
「大丈夫だよ、そうゆうの全然気にしない人だから」
「大切にしてもらってるの?」
「……うん。すごくいい人だ」
「じゃあよかった」
どうしてだろう。久しぶりに会う少し痩せた光は痛々しいのに、そんな光を見ていると私の中で何かが満たされていくような気持ちになった。
そうか、私は私のことで太陽を失くした光を初めて見れて、喜びを感じてしまってるんだ……。
光はおぼつかない手つきで持ってきたリュックに荷物をしまいながら、たどたどしく、自然のつもりの会話を私にしてきた。だけど、上手に目すら合わせられていない。
光の言動はあきらかに私に未練があった。勝手だけど、それが私には嬉しかった。付き合ってた頃には感じたことのない感情だった。だけど、荷物を回収し終わった光は「じゃあ……」と立ち上がってためらわずに玄関へと向かう。
やっぱり離れていく。今は感傷的になって私のいない寂しさを強く感じてくれているのかもしれないけど、きっと光は結局、私が完全にいなくなっても大丈夫になる。だから、やっぱり離れていく。
今この時が、最初で最後の絶好のチャンスなのに、「やっぱり戻ってきて欲しい」なんて光は絶対に言わない。
もう本当に二度と私と会う口実がなくなった光は、まるでまた来週も約束があるかのような軽い挨拶で部屋を出て行った。
扉が閉まった後、私は力が抜けるように玄関に座り込んで泣いた。涙が枯れた後も、どのくらい経ったか分からないほどそのままでいた。いい加減もう立ち上がらなきゃ……とようやく部屋の中に戻り、スマホをバッグから取り出した瞬間、きみかさんから電話がかかってきた。
「もしもし……?」
まだ残る涙声に気づかれないように、一呼吸置いてから電話に出た。
「ごめん、さっきは一人で帰らせて。帰り道大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。私こそ色々ごめんなさい……あの場所で偶然見かけたこともずっと言わなきゃいけないって心に引っ掛かってたんだけど…。でもきみかさん、音楽で関わった人とはそうゆう関係にならないようにしてるって言ってたから……話したら拒まれるかもしれないと思うとなかなか言えなくて……」
「なんだ、そんなこと?…それは、ファンから入った人ってことで、たまたま見たことあるくらい全然気にしないよ」
「……そうだったんだ……よかった」
「……なんかあった?」
「どうして……?」
「なんとなく」
「……さっきね、光が突然連絡もなく荷物取りに来て……ごめんね」
「なんで謝るの?前から言ってたことなんだから別に謝ることじゃないじゃん。…それとも、他に謝ることでもあった?」
「別にないんだけど……」
「なんか菜々未さん、私に謝ってばっかりだね」
「……ごめんね」
「ほらまた!」
「無意識で……」
「てことは、無意識で悪いと思ってることがあるのかもね、私に」
「…別にそうゆうわけじゃ……」
「じゃあ光さんにかな」
「あ、あの……」
「ごめん、ごめん!ちょっといじめすぎちゃったね!あのさ、まだ一ヶ月も先で気が早いけど、クリスマス会えるよね?今年週末だし」
「……うん、大丈夫」
「イヴの夜、知り合いの店に飲みに連れて行きたいんだけどいい?近くなんだけど前から話してたとこ」
「うん。私も前から行きたいと思ってた」
「よかった!じゃあ空けといてね!」
結局いつもきみかさんは優しい。自分から近づいて告白したくせに、光のことでいまだに動揺してばっかりの私に気づきながら、深く問い詰めたり強く責め立てたりしないで、この関係を続けてくれている。
その温かさを感じながらも一方で、毎年かかさず二人で過ごしてきたクリスマスを、今年の光はどう過ごすんだろうと考えていた。
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