三つ立つと
おくとりょう
ひとつ。少年は雨の日に思い出す
「――その滝を昇った鯉は竜になる」
うとうと
「滝を昇っただけで、魚の鯉が空を飛ぶ竜になるなんて信じてるってわけじゃないんやけど――」
寝起きにしては、僕の頭は妙にすっきりしていた。ただ、先生の雑談を聴く気分にはならなくて、頬杖をついて目を閉じた。
教室に満ちる、重く湿った空気。もう存在しないはずの右手がじんわり痛むような気がする。それが何故だか可笑しくって、マスクの下でこっそり微笑むと、懐かしい記憶が頭に浮かんだ。
雨とは特に関係のない、僕が右手を捨てた日のこと。きっと手が痛いような気がするから、思い出してしまうのだろう。……なんて。しとしと降りゆく雨音に少し詩的な気持ちになった僕は、仄暗い空の色を想いを馳せる。
たしかあの日は今日と違い、天気が良くて丸っこい白雲が眩しかった。しゃがみこんだ僕の首筋をガンガン照りつけてくる夏の日差し。頭を流れる血の音がドクドクうるさかったのを覚えている。
じゃぼじゃぼと音を立てる近所の用水路。その頃は川との違いがわからなくて『川』と呼んでいたのだけど、近くに大きい田んぼがあるからか、そこは特にたくさんの水がいつも流れていて、まさに『小川』という感じだった。水面に太陽が反射してキラキラ眩しい。なのに、やけに涼しげでこのまま落ちてしまいたくなる。
でも、そろそろ学校に行かないと遅刻になりそうで、僕は川への気持ちを振り切るように立ち上がった。
“後ろ髪を引かれる”というのはこういう気持ちのことなのかもしれない。そんなことを思いながら、左手に握りしめていたものを用水路に放り捨てた。
「おい、お前。今、何を捨てた?」
低いぶっきらぼうな声。急に辺りがうす暗くなって、雨でも降るのかとびっくりした。見上げると、こちらを見下ろす大きな人影。――今にして思えば、それほど大きくはないのだけど、そのときの僕にはとても大きく見えた。
「……用水路に何か捨てただろ。川はゴミ箱ちゃうぞ」
その人影、もとい背の高いおじいさんは、僕を横目で見下ろすと、軽く舌打ちをして、用水路に手を伸ばす。さっき捨てたそれがまだ近くの水草にひっかかっていた。
「ったく、最近の子は――っ?!」
ブツブツ言いながら、それをつまみ上げたおじいさんは、息を飲んで目をむいた。青白い唇がパクパクするのを見ながら、僕は回らない頭で考えた。右手のタオルが先よりも重たくなっていた。また、血が出ていたみたいだ。
「最近の子は何を考えているのかわからん」
絞り出すようにつぶやき、つまみあげている白い白い塊と僕のことを見比べた。それは僕の右手。昨夜、手首から切り落とした。
僕に付いていたときより白く小さくなったように見えるそれは、もうすっかり血が抜けたらしく澄んだ雫を滴らせていた。何だかおじいさんが少し震えて見えると思っていたら、急に視界がふわっとなって、僕の意識はパチっと途切れた。
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