第二章/夜の指先が伸びる 3

 アレラルの北部オーランド県に属するストラストは、美しい平野と、翡翠色に輝く森に抱かれた無数の湖沼が点在する地域だ。空に英々と雲気たなびく姿を照らす湖沼は、大自然が生み出した遺跡だった。ストラストは、自然と人が織り成す独特な魅力に溢れている。


「色に恋するストラストとは言ったものだな」


 神が悪戯に大地を掬ったように点々とする大小様々な湖沼群。その一部を望みながら、ヴォルトが感嘆のため息を漏らす。湖面を揺らす風の音が全身を包み、自然の息吹を感じさせた。


 だが、レセナは景観に目をやることもなく、頭を抑えて疼く痛みに耐えていた。怒りや悲しみ、恐怖といった負の怨嗟が、街の雰囲気に似合わぬほど黒々ととぐろを巻いて漂っているように見えるのだ。心なしか、街の中に人の姿は殆ど見受けられない。復興を果たしたとて、十年前の事件が未だ根強く意識に残っているように、いたるところに死の空気が染込んでいる。


 まるで人類の墓場。それ以外の言葉が、レセナには思いつかない


 研究所時代、興味本位で覗いた資料を思い出す。人口一万ほどの小さな町で発生した酷死天使は、ひとりの少年を残してすべての生き物を殺し尽くした。唯一生き残った当時五歳の少年――エミール・シオラン――は、助け出された後、精神に異常をきたし自殺。事実上町を全滅させたこの事件は、国内のみならず周辺諸国を施術に対する恐怖へと落とした。


 十年の歳月を掛けてようやく復興を果たしたこの町で、再び事件が発生したのは一体何の因果か。呪われているとしか思えないほど大量の人命が失われたこの場所は、福音伝達者にとっては感覚するだけで地獄だ。


 卒倒しそうな身体をレセナはぎりぎりで踏ん張る。吐き気を催して口元を手で覆った。涙が溢れ視界がまだらに濡れる。


「おい、大丈夫か?」


 異変に気づいたヴォルトがレセナの身体を支える。


 助けて――と、救いを求める幼子の子を聞いた気がした。


 福音伝達者としての感覚が、街に眠る死者の無念を無作為に拾い始める。情景が頭に浮かび、惨劇が広がる。


 十年前。ストラスト研究所で産声を上げた酷死天使は、風に乗って瞬く間に街の住人に牙を向いた。


 最初は研究所付近を散歩していた男性だった。悪魔とも知らず金色の輝きに見惚れ、手に触れたその瞬間、指示式が働き増殖。毛穴から侵入した悪魔が血管やリンパ線を通り全身に入り込み、爆発。内側から次々に破壊し始め、全身の穴という穴から赤黒い血を吐き出す。爆破と同時に複製指示式が機能し、風に乗って悪魔が征く。ゆらゆらと漂う悪魔は道行く人に手を掛け、僅か一時間で街の半分を死体で積み上げる。


 その頃になると街のあちこちから悲鳴が上がり始めていた。全身を腫瘍に覆われた末期症状の人間が巷に溢れ、疫病の風が数少ない生存者へと追い付き、肉塊へと変える。


 少女がいた。緑豊かな公園でひとり遊んでいた癖っ毛の少女が、遠くに光る金を見つけた。そして、そのすぐ側に赤黒く豹変した人間の行列を見たとき、少女はあまりの恐怖で泣き叫んだ。


 まるで死の行軍だ。四肢から垂れた赤黒い血は生ある首を刈り取る鎌で、痩けた頬は悪魔そのものだ。彼らは死の谷の底から来たのだと、少女は考え、無間地獄に落とされたように恐怖した。


 金色の悪魔が少女を追う。勘の良い少女は、それが禍々しい存在であることを直感で理解した。


「お父さん! おとおさん!」


 父の名を叫びながら少女が逃げる。逃げる。涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら逃げる。背後から慟哭が合唱し、少女の心を未曾有の恐怖で縛る。


「おどぉさぁぁん!」


 少女がすれ違った主婦が悪魔に纏わり付かれる。主婦の輪郭がずれた。


 絶叫。主婦が血と体液を滴らせる。自重に耐え切れなくなった足首が崩れ、身体が倒れる。赤黒い液体が地面に広がっていく。


 この世を呪うように少女が叫ぶ。死が波濤となって追いかけてくる。必死になって走る少女が、地面の亀裂に足を取られて転んだ。すぐ足元まで死の疫病が差し迫る。


「おどぉさぁぁん! 助けて! 助けて!」


 助けを請う少女の嘆きを疫病が攫っていく。


「おどぉぉぉぉさぁぁぁぁん!」


 視界が夥しい数の金色に覆い尽くされる。


「――あっ、が……っ!」


 息が詰まったような己の声で、レセナの意識が戻った。視界が上下に揺れている。少しして、自分の身体が酷く震えていることに気づいた。


「おい、レナ! 大丈夫か? ロザリロンド! 一度戻るぞ!」


 ヴォルトの焦った声が聞こえる。大丈夫と開こうとした口がむせる。十年前と現在の光景が重なり合い、酷い酩酊感が頭の中を駆け巡る。


 少女の叫び声が頭にこびり付いて離れない。嘆きが、恐怖が、苦しみが、痛みが、十年の時を経て身体に蘇り、レセナに襲い掛かる。


「――っか、あっ……うぁ」


 呼吸が上手くできない。あの日の犠牲者もきっとそうだ。体内に取り込まれた酷死天使により喉が潰れ、気道が爛れ、肺は穴だらけになる。生きるために必要なあらゆるすべてを破壊し尽くす天使により、二分とかからず死に至る。人間らしく死ぬことすら許さない疫病に殺される苦しみは、一体いかばかりか。想像すら絶する。


 身体が浮く。すぐ近くにヴォルトの顔があった。


「おい、しっかりしろレナ!」


 声が出ない。本当に喉が潰れてしまったように、間の抜けた息だけがひゅーひゅーと漏れる。視界が明滅し、意識が薄くなっていく。


 苦しい、痛い、助けて――……。

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