第一章/人の背には糸がある 1
王立研究所を退職し、奢侈に誂えられた門扉を潜り抜けたとき、レセナ・グランジャが感じたのは、演ずるべき台本を失った役者にも似た不安だった。
世界は劇場で、人は演者だ。この世におぎゃあと産まれ出たその瞬間から、人は神に台本を渡される。そしてこう言われるのだ。生きろと。
レセナには、生きる意味はあっても、神を仰ぐこの国で生活する意思はなかった。
「人の背には糸がある」
ツァンパッハ叙事詩の一節をレセナは唱える。言葉は、黄昏に沈む白い街にたゆたい、消えてゆく。
「糸の終端は神の指先に結ばれている」
世界は劇場で、演出家は神だ。演者は神の采配により動かされ、定められた道を辿り、最後の時を迎えさせられる。
世の無常を皮肉った言葉を唱えても、世界は答えを返さない。あるのは生への無言の脅迫だ。
レセナは己の行く末が恐ろしくてたまらない。自らが引いた道が今この時をもって途絶え、神の傀儡になるのが嫌だった。
レセナが王立研究所に所属できたのは、ひとえに幸運だったからだ。だが、それも今日この日をもって終わる。幕を降ろしたのは他でもない、レセナだ。研究に身をやつしたのは、何も研究が好きだったからではなく、ここでなくば達成できない目標があったからだ。それを終えた今、無意味に研究と向かい合う必要もなく、しかし、同時に自ら敷いた道が途切れたのだ。
レセナの唇が震える。先を繋ぐ言葉を声にすることができなかった。きっと誰にも理解される事のない言葉は、投げても虚空に伸ばされた手の平と同じく何も掴めない。それは苦痛だ。
先を紡ぐことなく口を閉じ、レセナはひとり歩き出す。街のあちこちから漂う夕食の匂いが夜の到来を告げる。空が朱色から藍色に覆われ始めるに従い、等間隔に置かれた街灯に明かりが灯る。街路には、仕事帰りの住人たちが溢れ、軒を連ねた食事処は窓を見やることなくどこも満員だった。東方料理屋満腹堂も長蛇の列が伸び、看板娘のチョウが忙しなく動き回っていた。邪魔することもできずレセナは店を通り過ぎ、普段なら曲がる道を真っ直ぐ進んでゆく。
たどり着いた先は、四方を高い壁に囲まれた異質な場所だった。黄金で彩られた豪奢な門の先には、聖堂が建てられている。あらゆる一切の接触を阻む、その隔絶された区画は、福音伝達者が暮らす住居だ。福音伝達者は、この監獄の中で生涯を過ごし、聖都カルヴァリアから出ることを許されない。この牢獄の中で過ごすなど、レセナは考えられなかった。
しばし聖堂を眺めたあと、レセナは踵を返す。
ふと、レセナの視線が老婆の姿を捉えた。仕立ての良い法衣を着た老婆は、レセナを見やると皺を濃くして柔らかく微笑んだ。レセナも薄い笑みを返すと、左足を下げ、ちょこんと膝を曲げる。
「久しぶりねレセナ。元気だった?」
「ええ。ミネルヴァ様もお変わりないようで。システィーナ様へご面会に?」
「ええ、ええ。この歳になると孫の顔を見ることくらいしかやることがなくてね。暇を見つけてはついつい立ち寄ってしまうのだけれど、時間も時間だから躊躇ってしまったの」
目を細めて微笑んでいても、瞳の奥には太陽の輝きがあった。ミネルヴァを当主とするレンディッド家は、現福音伝達者を輩出するまでは落ちぶれた家系だった。それが、システィーナが福音伝達者であることが発覚すると同時に水面下で働きかけ、貴族家系の中でも有力な十二氏族にまで駆け上がったのだ。ミネルヴァは、見た目通りの人の良い老婆ではない。行動力の伴った野心家だ。
「そんなこと仰らず、お会いになられては如何ですか? きっと、システィーナ様もお喜びになられますよ」
そうは言ったものの、事前申請のない福音伝達者との面会は親族であっても謝絶されている。当然の処置だ。だからこれはただの社交辞令だった。
「そうねえ。でも、隣にロザリロンドのしかめっ面が並んでると思うと気が引けちゃうわ。彼女、孫を大事にしてくれるのは嬉しいのだけれど、少し融通がきかないから。シャルルのように、いつも微笑んでいれば貰い手もあると思うのだけれど。ふふふ、男性と比べるのは失礼かしらね」
苦笑しつつミネルヴァが言う。ロザリロンドの名前にレセナは僅かに眉を顰めた。レセナはロザリロンドが苦手だった。
「あらあら、少し無駄話が過ぎたわね。お時間を取らせてごめんなさいね」
皺を深くして笑ったミネルヴァが、緩慢な動作で歩き出す。レセナとすれ違うと立ち止まり、ミネルヴァが囁くようにして言う。
「福音伝達者の噂、あなたは知ってる?」
「噂……ですか?」
「福音伝達者は長生きしない。歴代の福音伝達者は、三十を差し掛かった年代になるまでに例外なく眠るように息を引き取るの。システィーナはもう二十一。私の三分の一も生きていないのに、福音伝達者の平均寿命の三分の二を越えているのよ。一体、あの子はあと何年生きることができるのでしょうね」
レセナは血の気が引いていくのを感じた。ミネルヴァが続ける。
「長生きできるといいわね。システィーナも、あなたも。若者が私たちよりも先に逝くのは、耐え難いものだから」
ミネルヴァの老齢の声には、運命を嘆く震えがあった。
「あなたには関係のない話だったわね。歳を取ると無駄な心配をしてしまうものだから」
あまり楽しくない話をしてごめんなさい。そう締めくくって、ミネルヴァは去っていった。
レセナはしばらく放心したように動けなかった。いつか来ることであると理解していたから、泥沼の思考に引きずられまいと頭の中から閉め出していたのだ。
死は遍くすべてに等しく与えられる最期の報酬だ。それは逃れようなく必ず降り注ぐ訪れである。
「時は破壊者であり、夢を法外な値段で売りさばく高利貸し。返済のそのとき、時は悪魔にも勝る死神へと変貌する」
無益な言葉は宙をまわり、棘を持った思いが胸に刺さる。
叙事詩の一説にも変わらず回答は沈黙だった。あるのは不自然に高鳴った心臓の鼓動だけ。レセナの独り言は、一人暮らしを始めてからの悪癖だった。
時の鐘が鳴った。街の中心部にそびえる時計台の鐘の音だ。街が眠りに入る時間だった。
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