エヴァンジエル・エクセキューション

ユーカリの木

第一部/酷死天使

序章/死を告げる天使

 試験管の中には天使がいた。花粉よりも小さい、黄金色に輝く天使が無数に蠢いている。無性生殖を模倣した自己増殖によって数を指数関数的に増やしていき、最初は試験管の下半分までしかなかった天使たちが、いまや全体を黄金にするほど夥しい数になっていた。


 酷死天使(こくしてんし)。その見惚れる荘厳な美しさには似つかぬ名で、人はこの光を呼ぶ。人が受けるにはあまりにも酷い死を与える天使という意味だ。


 その昔、この天使によって、ひとつの都市が滅んだ。半日にも満たぬ僅かな時の出来事だ。この酷死天使が世ではじめて人類に牙を剥いた瞬間だ。


 研究所の一室で、命を枯らす叫喚が響く。


 叫び声を上げたその男は、全身を血色に染めていた。肌に空いた毛穴から血を噴き出し、伸ばした手からも雨だれのようにぼたぼたと落ちる。血だまりの表面には金色の光が混じり、ぶくぶくと血を泡立たせていた。叫び狂っていた男が、突如身体を痙攣させ始める。大きく開かれた眼窩に嵌った眼球が血走り、表面から血の玉が浮き上がる。赤い涙を流した男が動きを止めると、ゼラチン状になった四肢が身体を支えきれず、足の先から自重で崩れてべちゃりと床に広がった。


 むっと生臭さが匂い立つ室内には、倒れた男を氷の眼差しで見下す浮浪者がいた。脂ぎった土気色の伸ばし放題の髪、濁りきった黒い瞳、髑髏のように骨が浮かび上がった輪郭、喪服のようなコート姿の長身。萎びた薔薇を彷彿とさせる不吉な男だった。


 浮浪者が髪を掻き上げる。浮浪者の手には、蓋が開けられた黄金に瞬く試験管があった。溢れ出た黄金が獲物を探す細菌の動きで室内に充満し、半開きになった出口の隙間から廊下へと這い出していく。


 絶叫。


 死が連鎖していく。研究室の外から次々と奈落へ落ちる断末魔が響き渡る。浮浪者の唇には残酷な笑みがあった。


「第一級施術災害指定――酷死天使。まさに名が示す通りの悪魔だな」


 所員らの慟哭は鳴り止まない。かつて一都市を文字通り滅ぼした魔の病原菌が、大地に遍く人の脆弱さを告げるように、その猛威を奮っている。


 金色の悪魔が浮浪者の足元にも忍び寄る。彼らにとって、生きとし生けるものは皆等しく犠牲者だ。浮浪者が金色の悪魔へ視線を落とす。その双眸に恐れの色はなく、憎悪の炎が宿っていた。


 浮浪者の指が動く。その所作に呼応するかのように、金色の悪魔が動きを止めた。浮浪者が試験管を持ったまま歩き出す。金色の悪魔が、従属するように浮浪者の足跡を追う。廊下に出ると、元の色が分からぬほど壁という壁に血が飛び散っていた。元は人間だった、血を吐き出した肉の袋が転がっている。


 絶叫は止まらない。研究所のありとあらゆる場所から所員の悲鳴が上がり続けている。浮浪者は死体には見向きもせずに歩いてゆく。


「試験管ひとつで街は滅ぶ」


 浮浪者の声には深い疲労があった。


「酷死天使もまた滅ぶべきだ。酷死天使の手によって」


 浮浪者の前には扉があった。研究所の責任者の部屋だった。浮浪者は扉をゆっくりと開ける。隙間から金色の悪魔がするりと入り込む。


「ゾルデ・クーパーか」


 室内から、鋭い眼光が浮浪者を貫いた。晩年に差し掛かった男であり、研究所の所長だった。


「いかにも」


 ゾルデと呼ばれた浮浪者が答える。金色の悪魔が室内の男へと忍び寄っていく。部屋の半分は、酷死天使の姿で霞がかっていた。


「酷死天使病事件の犯人にして、アレラルのみならずメルキセデク皇国にまで指名手配されている重犯罪者か」


 ゾルデは答えず指揮棒を振るうように指を動かした。金色の悪魔が男へと襲いかかる。


「無駄だ」


 金の瀑布が男へ触れる寸前、動きが空中で縫いとめられた。男を囲う、蚕の糸で作られた上質の編み物のように、薄く光る膜に阻まれていたのだ。


「我々は酷死天使を知り尽くしている。その性質だけでなく対処法すらね」


 膜が広がり金色の悪魔が押しのけられてゆく。晩年の男の瞳には自信に裏打ちされた強い輝きがあった。


「空気感染する酷死天使の対処法は大きく分けてふたつだ。物理的な遮断と火炎による滅却。そのどちらも施術士がいれば対処できる」


 ゾルデの唇が半月状に開かれる。嘲笑だ。


「いつの世も、親は子のすべてを知っていると言って憚らない」


 ゾルデが指を軽く振る。金色の波濤が小さく震えた。際限なく広がりを見せていた膜が止まる。対する男の表情には怪訝の色。


 ゾルデの笑みが深くなり、瞳には憤怒の焔が揺らめく。男を守護する光の膜が削られていた。金色の悪魔が貪り食っているのだ。


「子は成長する。親の手を離れひとりでに。だが、悪鬼になるも天使になるも、善悪の旗は親の愛にはためくのみ。お前らの子は俺の子を奪った。惨たらしく、人の尊厳すら棄てさせた。だが、あれより俺はお前らの子を奪い、この悪鬼を更に育て上げた。天上の悪魔にだ」


 縮む縮む。膜が縮む。薄く光る膜は、もはや男の肌を覆うだけの大きさとなっていた。金色の悪魔が膜に被さり、アメーバ状に広がり浸食していく。男は緩んだ余裕の顔から恐怖へ転じ、醜く歪んでいた。男が手を揉み頭を机に擦り付け命乞いを始める。目と鼻の先に迫った奈落が男を狂気に捕らえていた。ゾルデは感情の失せた鉄の視線で男を見下ろす。


「さらば、さらば、さらば、あの世でも忘れるなかれ。このゾルデ・クーパーの怒りを、煉獄に煮え滾る湯で身体を溶かしながら、魂の端の端まで刻み込むがいい」


 膜が破れる。生きた雨滴となった金色の悪魔が隙間から染み込み、男の開け放たれた鼻や唇、毛穴をこじ開け侵入してゆく。男の怒号が室内を震わせる。ゾルデは深呼吸でもするように両手を広げ、天井を仰ぎ瞼を閉じる。


「夜が明ける。悪夢の夜が、狂乱の末に喉を掻き毟った夜が明ける。朝が来る。黎明の果てに待ち望んだ朝が来る。復讐の時は来たれり。もはや何人たりとも邪魔はさせん」


 体内から人外の生物に蹂躙される苦痛に男が床をのたうち回る。金色の悪魔が命を喰らい、肉を爆ぜ、人の尊厳すら奪っていく。穴だらけのぐずぐずの身体から体液が滴り広がり、人の形すら失わせていく。


 嬉々として男の命を喰らい終えた金色の悪魔が、生温い血臭を巻き上げながら、室内にゆらゆらと美しい光を讃えていた。



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