東へ続く足跡

月狐

第1話 ある男との出会い

地面を激しく叩きつける雨の中、霧で一寸先も見えない山の小道を歩いている。昼間であるにもかかわらず辺りは薄暗い。この山を覆いつくす巨大な木々によって大雨を直接身に浴びることはないが、その木々から落ちてくる大粒の雫が時折この身を打つ。

昔この森のような深く、険しい森を通ったときは道すがら何度か森に棲む動物たちを見たことがあったが、この大雨のせいか一度もその姿を見たことがない。このような深い森ならば大きく美しい動物がいると思っていたため少しがっかりしてしまう。

今はこの地域は雨期のようでこの森に入って三日が経った今日にいたるまで、一度も晴れた日がない。

太陽の光の温かさを少し恋しくなりながら今日もまたこの人の体では歩くことが難しい山道を歩く。この森に棲む動物ならば軽々と乗り越えて進んでいくのだろうと、その体を羨ましく思いながらも歩き続けて一刻が経った頃。なにかが道にあるのを見つける。

最初は岩かなにかと思っていた”それ”は近づくにつれその正体が鮮明になってくる。雨と泥にまみれ元の姿を想像もすることができないほど汚れた無残な服を着た初老の男だった。


「おい、生きているか。」


「………………あぁ。」


待っていると酷く掠れた声で返事をした。

少し驚いた。もう死んでいるとしか思えない見た目をしていたため、念のための確認のつもりで声をかけたからだ。


「立てるか。立てないのなら肩くらい貸してやる。」


「……すまない。立てそうにない。」


初老の男は声をかけたときの体勢かが変わることはなく、本当に足に力が入らないのだろう。ひどく衰弱している。

俺は初老の男を背中に背負い、その上から俺の羽織をかけてやる。そしてここまで来る途中に見つけた岩の窪みに向かって来た道を戻る。人を背負ってこの道を戻るのは厳しいかと思っていたが、この男が異常なほどに軽くあまり苦労せずに歩くことができた。

四半刻ほどかけて岩の窪みまで帰ってくる。

背負ってる男をゆっくりと下ろし、体を拭いてやる。すると初老の男はゆっくりと瞼を開けた。


「助けていただきありがとうございました。なにかお返ししたいのですが、見ての通り何も持っていないのです。私自身ももう長く生きられない。本当に申し訳ない。」


初老の男はゆっくりと、だがしっかりとした口調で感謝の言葉と、その恩を返すことができない謝罪の言葉を述べてきた。おそらくしっかりとした男なのだろう。


「そんなことは気にしなくてもいい。助けを求められたわけでもないのに、助けたのは俺だ。それにどうやら助けるには遅かったようだ。」


初老の男はおそらく明日を迎えることができないだろう。それほどまでに衰弱していた。俺は人を救う術など知らぬし、今こうして岩の窪みで体を拭いてやることが今俺にできる最大限だった。


「どうしてあんな所にいた?」


「……娘が。いや正確には孫娘が、村の近くの森に棲んでいるといわれる神に生贄として捧げられることが決まりました。ですが私はどうしても。どうしても、あの子に生きていてほしかった。」


初老の男は涙を流しながら悔しそうに、苦しそうに孫娘への思いをこぼした。


「それから私は村長むらおさや、孫娘を連れ出そうとする奴らに必死に抵抗しました。最初は必死に言葉を尽くして。最後には力ずくで抵抗しました。……ですが私もこの歳です。村の若い連中には勝てませんでした。奴らは孫娘を力づくで連れていき、私を袋叩きにしてあの場所へ捨てました。」


こんな場所にある村だ。昔からの風習などが根強く残っていても不思議ではない。この男の幸福は村の風習によって急に崩された。もう明日を迎えることもできないほど衰弱していながら孫娘を守ることができなかったことに涙している男を見て自然と口を開いた。


「俺は嘘や気遣いが苦手だし嫌いだ。だから単刀直入に言う。お前はもう今日で死ぬだろう。だから最期になにか一つ望みを叶えてやる。望みを言え。」


初老の男は涙を流して赤くなった目を大きく見開いた。そして一息つく間もなく答えた。


「娘を。孫娘を頼みます。助けていただきたい。あの子さえ無事ならば私はきっと満足して逝ける。どうかお願い致します旅のお方。どうか。どうか孫娘を助けてください。」


初老の男はつらいだろうに体を起こして、縋りつくように俺に言った。迷い一つなく答えたことになぜか驚きがなかったことに少し驚く。出会ってから今までほんの少ししか言葉を交わしていないのにも関わらず、存外俺はこの男のことを気に入っていたようだ。


「承った。その孫娘を想う心に報いるため、必ずその子を助け出そう。彼女が捧げられた場所を教えてくれ。」


「ありがとうございます。ありがとうございます。あの子はこの山を越えた先にある村のさらに向こう側にある森です。森の名を神狼の森と言います。どうか孫娘をお願いします。」


初老の男は感謝の言葉と森の場所と名前を俺に伝えた後、酷く咳き込んでまた横になった。つらいだろうになぜか安堵したような顔を浮かべている。


「最期にあなたに会えて良かった。私の名前は豊里秋月とよざと しゅうげつ。孫娘の名前は結月ゆずきです。」


「その名を心に刻もう。俺の名は東鎮定あずま しげさだ。俺もあなたと会えて光栄だった。孫娘のことは任せていただこう。」


それから初老の男は満足したようにゆっくりと瞳を閉じた。

それを見届けてからゆっくりと立ち上がる。まだ雨は激しく地面を叩きつけている。

目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。心を無にして、頭の中から雑音を取り除く。深呼吸を五回繰り返してから目を開く。はっきりした視界を確認してから走り出す。滑りやすい山道のため決してこれまで走らなかった道を全速力で駆け抜ける。あの男との、秋月との約束を守るために駆ける。あれほどの想いを抱いた男の頼みを守るために走っている今、心に今までの旅で感じたことがない誇らしいような気持ちが湧き上がってくる、この旅の目的の欠片をようやく掴めたような気がして、なんだかとても気分がよかった。

目指すは神狼の森。大雨が降り続く深い森の中を真っ白な羽織を着た東鎮定は彼の孫娘を助けるために駆け抜ける。

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