未完成交響曲

菊池昭仁

未完成交響曲

第1話

 フランツ・シューベルトの交響曲第7番ロ短調。未完成交響曲。

 チェロとコントラバスから始まる物悲しい旋律に、よりそうように続く弦楽器たち。ホルンから変わる微かな希望。


 シューベルトには他にも5つの未完成交響曲があるが、この7番が有名だ。

 第二楽章までしか完成しておらず、第三楽章の20小節目で終わっている。

 32年という短い生涯で、およそ1,000曲もの作品を残したシューベルト。

 ベートーヴェンからもその才能を認められたにも関わらず、彼は五線紙すらも買うことが出来ない貧困の中で、持ち前の明るい性格から友人たちにも支えられ、作曲を続けた。


 2万人以上が参列したというベートーヴェンの葬儀の帰り、シューベルトは友人たちと酒場で献杯をした。


 「この中で最も早く死にゆく者のために。献杯」


 そしてそれがシューベルト自身になろうとは、彼は考えもしなかった筈だ。

 一説にはレストランで食べた魚料理による腸チフスが原因だとか、梅毒だった女中が治療薬として服用していた水銀が体内に蓄積したことが死因だとかが噂されているが、定かではない。

 

 シューベルトについては小学校の音楽室に貼られた肖像画の記憶でしかない。

 銀縁の眼鏡を掛けた天然パーマのその横顔は、音楽家としての知性に満ちた品格が備わっていた。


 「音楽が出来るなんて、いいとこのお坊ちゃんだったんだろうな?」


 と、私は冷めた目で彼を見ていた。

 音楽の授業で『鱒』や『野ばら』を歌わせられた時、


 (何だよ? 鱒の歌って?)


 小学生だった私は歌うことを拒否した。



 「歌曲の王」彼はそう呼ばれていた。

 1797年、シューベルトはウィーン郊外にあるリヒテンタールで生まれた。

 父親のフランツ・テオドールはドイツ系移民の農夫の息子で、教区の教師をしていた。

 母親のエリーザベト・フィッツは結婚前、民間人のコックをしていたらしい。

 子沢山の12人兄弟の末っ子。

 貧しい中、父、テオドールは子どもたちに音楽を教えた。

 奨学金を受けながらシューベルトは音楽を学んだ。

 当時、師事していたサリエリからはハイドンやモーツァルトの真似だとシューベルトを酷評したが、かなりシューベルトには積極的に指導をしたという。


 満足して死ねる人間は極一部の限られた人間だけだ。

 殆どの人間は夢半ばで死んでゆく。それが定めだ。

 偉人と呼ばれる人間でも、あっけなく死んでしまう。

 

 思えば私の人生もそうだった。

 だが私は自分の人生に後悔はない。

 誰も見舞いには来ない白い病室で、私はひとり、自分の人生を静かに振り返った。

 人生は未完成だから尊いのだ。

 死を身近に感じる時間がある私は幸福だった。


 辿ってみよう、私の『未完成交響曲』を。




第2話

 記憶があるのは2歳の頃、私たち親子が古い木造アパートに住んでいた時に遡る。

 

 私はそのアパートの2階の外通路で三輪車を漕いでいたらしい。

 そして私は柵に三輪車を残したまま、頭から地面に叩きつけられたという。

 その時母は外で同じアパートの奥さんと話し込んでいたそうだ。


 みるみる頭部が腫れ上がっていく私に母は動転し、


 「この子が死んじゃう! パパから離婚されちゃう!」


 私の心配よりも、父に離婚されてしまうことを心配した母。

 そう笑って懐かしそうに話す母は、実に「母らしい」と思った。


 母は曾祖母に育てられていたために経済的理由から高校進学は断念し、中学を卒用すると田舎を離れ、横浜の理容店に住み込みで見習いに出た。

 母は器用だったようですぐに理容技術を習得し、店主から貰った理容道具で私の髪を切ってくれるのだがバリカンの切れが悪くよく髪がひっかかり、私はよく母に文句を言い、母はヘソを曲げた。



 母は横浜の理髪店を辞めると各地を転々とし、その後田舎に戻り父と結婚をした。


 セーラー服を着た、母の中学の時の写真を見ると凄く太っていたが、アルバムに残されていた若い頃の母の写真は女優のように美しく、撮影スタッフに囲まれた、モデルとしてA4サイズに引き伸ばされた写真数点に収めれれていた。


 母はよく着物を着ていた。

 古い芸者姿の母の写真もアルバムに紛れており、本物の芸者もしていたようだった。

 教養はないが、誰にもやさしい裏表のない人だった。

 私はそんな母が自慢でもあった、



 2階から転落した私はすぐに近くの病院に運ばれたが、奇跡的にも軽症で済んだという。

 だがその時の後遺症なのか、私の頭は多少凸凹している。

 どうやら私が偏屈なのは、その時に頭を強く打ったのが原因のようだ。



 私の記憶が始まるのはそれ以降からだ。

 当時の日本は高度経済成長の真っ只中であり、父の帰りはいつも遅く、そんなある日の夜、私が母に抱かれて床に就いていると、私たちのアパートの部屋は1階にあったため、寝室の前を歩く不審な人影がカーテン越しに見えた。

 

 母は私を強く抱き、息を潜めた。

 今にして思えば、それは度々母の下着を盗んだ下着泥棒か? あるいは新婚夫婦の営みを覗きにやって来た、変質者だったのかもしれない。

 母は怯えて私に小声で言った。


 「声を出しちゃダメよ」


 私は母の乳房に触れてじっと怯えていた。

 



 当時はクルマは贅沢品で、アパートには決められた駐車場もなく、ウチを含めて10世帯のアパートの住人たちはクルマを持っていなかった。

 その中で「山ちゃん」というウチの両親と同世代の夫婦だけがクルマを持っていた。

 しかもクラウン。


 私の両親と山ちゃん夫婦は仲が良く、日曜日にはよくドライブに誘ってもらった。

 山ちゃん夫婦には子供がなく、私が喜ぶからと動物園や公園にも連れて行ってくれた。

 いちばん記憶に残っているのは「鷺山さぎやま公園」だった。

 小高い山に沢山の鷺がとまっており、飛ぶ姿はとても優雅で美しい物だった。


 私は山ちゃんに少し抵抗があったのを覚えている。

 いつも派手なシャツを着て、ヤクザみたいなカッコをしていたからだ。

 今思うと、派手なワンピースを着たおばさんと山ちゃんは内縁関係にあったのかもしれない。


 でも私が2階から転落した時、真っ先に病院にクルマで運んでくれたのは山ちゃんだった。

 そんな山ちゃんもご存命なら90歳は越えているはずだ。

 どうしているかな?


 すぐに病院に運んでくれてありがとう。

 山ちゃん、お陰で私は今もまだ生きていますよ。

 



第3話

 父親は岩手の大地主の8人兄弟の7番目だった。

 農地改革で小作人たちに田畑を取られてしまったが、地元では名の知れた名家で、郵便局を作るから、あるいは商業高校を作るからと、土地や資金の提供を求められていたという。


 父は実家から勘当されて「出禁」になっていた。

 故に私たち家族が本家の敷居を跨ぐことはなく、実家を訪れることが許されたのは、祖父が危篤の時だった。


 祖父は孫の私と妹をいつも不憫に思っていたらしく、毎年の正月には筆字の美しい文字で書かれた現金書留で、私たち兄妹にお年玉を送ってくれていた。


 本家の家督を長兄に譲り、隠居生活をしていた祖父は、家族に内緒でたまに岩手から埼玉の大宮に住む、父や私たち家族を心配して来てくれて、帰り際、私に当時の伊藤博文の描かれた千円札を一枚渡してくれた。

 おそらく父にもこっそりと現金を渡していたはずだ。


 祖父が帰ると母はいつも愚痴を言った。

 その時私たちが暮らしていた家は、父の会社の会長が私たち家族のために社宅を建ててくれた家だったが、トイレはまだ和式の汲み取り式で、祖父は必ずと言っていいほどトイレのスリッパをトイレに落としてしまった。


 「お義父さん、またスリッパをトイレに落としたのよ」


 その度に祖父は母にお金を渡し、「これでスリッパを買っておいてくれ」と言っていたのが懐かしい。



 父から祖父が危篤だと知らせを受けた時、私が運輸省航海訓練所で実習訓練を受けている時だった。

 丁度、東京の晴海埠頭に帰港し、冬季休暇になる予定だったので、私は父が大宮の酒蔵で杜氏をしていた時に収めていた酒があるのを思い出し、それを手みやげにしようと大宮にあった西武デパートに寄り、そのまますぐに新幹線で盛岡の祖父が入院している日赤病院に急いだ。

 当時の東北新幹線は大宮駅が始発になっていた。



 商船高専の制服を着て病院を訪れた私を、親戚一族は好奇の目で見ていた。

 海軍兵学校のような制服だったからだ。


 既に病室に居た父は、そんな息子の私に礼を言った。


 「わざわざすまなかったな?」



 (この子がこうちゃんの息子なのか?)



 初めて会った叔父や叔母たちの表情からは、そんな想いが窺えた。

 それまで肩身の狭い思いでいた母は、そんな私を親類たちに自慢した。


 「国立の船乗りの学校に行っているんですよ」


 母だけが中卒だったため、国立の学校に学んでいる息子は母の誇りだった。



 祖父はすでに意識はなく、人工透析など、様々なコードやチューブに繋がれていた。


 叔母が日赤の看護学校の教師をしていたので祖父は日赤に入院していたのだが、叔母はベッドの祖父を見つめながら私に言った。


 「もう意識はないのよ。でも声を掛けてあげて」


 と言われ、私は祖父の痩せ細った骨と皮だけになった手を握り、「おじいさん・・・」と力なく声を掛けた。

 

 するとその時、祖父は奇跡的に薄っすらと目を開けて頷いてくれた。

 祖父の目からは一筋の涙が溢れた。

 その涙は逝くことへの無念の涙ではなく、やっと疎遠だった孫が臨終の床に会いに来てくれたことへのうれし涙だったと私は感じた。

 私も泣いた。



 そしてその夜、祖父は安心したように静かに息を引き取った。

 一族からはこう言われた。


 「あっちゃんが来るのを待っていたんだね?」と。



 葬儀の時、はじめて父が泣いているのを見た。

 私は以前、父が勤めていた酒蔵の、大宮の西武デパートで買った酒を祭壇に供えた。


 「おじいさん、父の作っていたお酒です。天国で飲んで下さい」



 

 父の兄弟はみな優秀な人たちで、本家から土地や家の資金を出してもらい、悠々自適な生活を送っていた。

 父は酒に酔って気分が良くなると、


 「高校の時、朝、学校に登校するとな? 「おーい菊池! またお前が一番だぞー!」って言われてなあ」


 スポーツ万能で体操部。大車輪をしている時の、父のセピア色になった大きな写真が父のアルバムにあり、幼稚園だった頃の私はその写真の裏にボールペンで落書きをしてしまった。

 だが父はそれを咎めることはしなかった。

 所詮は昔のことだからと思っていたのかもしれない。


 

 父は大学進学はせず、パイロットになることを選び、自衛隊の飛行学生に内緒で応募し、 

 200倍の難関倍率を突破し、合格した。


 だがその合格電報は祖母が隠していたという。

 まだ戦後間もない頃で、自衛隊も「警察予備隊」の頃だったのかもしれない。


 特攻隊のイメージが拭えなかった祖母の親心だったのだろう。

 父はそんな祖母を責めず、祖母のコネで地元の銀行へと就職した。


 「どうして実家が金持ちなのに大学へ行かなかったの?」


 と、私が父に尋ねると、


 「明治に行こうかとも考えたが、兄弟も多かったしな? 諦めたんだ」


 そして私の息子、つまり父の孫は後に明治大学の文学部に入学した。

 父が存命であればどれだけ喜んだことだろう。



 父が勘当された理由は晩年、母から聞いた話によると、父が銀行勤めをしている時に、祖父の貯金を勝手に使って遊び呆け、挙げ句の果ては当時付き合っていた女性と心中未遂をしでかしたからだと話してくれた。

 幸い、ふたりとも命は取り留めたという。


 そして私が生まれて間もなく、その女性が父を訪ねて会津まで来たと、時々母は憎々しく話していたのを思い出す。

 おそらく父を諦め切れずに岩手から追って来たのだろう。

 私の恋愛体質は、どうやらこの両親からの遺伝のようだ。


 父は私にとっては「ヒーロー」だった。

 頭も良く、津川雅彦の若い頃のようにハンサム。

 体操部とバスケット部を掛け持ちし、筋肉隆々だった父。


 芸術的素養にも恵まれ、絵も上手でしょもよく書いていた。

 私が幼稚園の時の「お道具箱」のクレヨンで金魚を描いてくれた時、今にもその金魚が泳ぐようで、父親が神様のように思えた。


 また物凄い読書家で、


 「実家の婆ちゃんが厳しい人でなあ。夜の8時になると電気が勿体ないからと消灯してしまうんだ。

 だから俺は仕方なく、冬でも近くの電柱の街灯の下で雪の降る中、本を読んでいたものだよ」


 父は宮沢賢治の大ファンで、よく私に宮沢賢治の話をしてくれた。


 「イギリス海岸というのがあってな?」

 「『銀河鉄道の夜』というのは・・・」

 「『注文の多い料理店』という小説に出てくる・・・」


 そんな話を私によく、父は幼い私に話してくれた。

 「雨ニモマケズ」の、詩の主人公のような父だった。


 私が父を尊敬しているのは、誰にも同じ目線で、同じ言葉で話す姿だった。

 どんなに偉い人にも忖度することせず、幼稚園の子供にも同じように接した。


 だから父は孫にも「君」や「さん」を付けて呼び、決して「ちゃん」付けをして子供扱いはしない人だった。


 

 私は会津で生まれたが、2歳の時、埼玉の大宮に移り住むことになった。


 父は勘当されて銀行を辞め、仲の良かった叔父を頼って会津の酒蔵さかぐらに就職をした。

 だが当時は酒蔵の給料では生活が出来なかったようで、ツテを頼って大宮の酒造会社に転職をしたということらしい。

 酒蔵の当主は父親を大変気に入り、経理、営業、研究開発に営業、配達、酒の製造までのすべてを父に任せていた。


 銀行勤めをしていたので金融にも明るく、まだ若く、学生時代に鍛え抜いたカラダで経営者の片腕として期待に応えていたようだ。

 私もよく父親の会社に連れて行かれると、社長の奥さんとも遊んでもらい、とてもかわいがってもらった。


 私は父の影響を多大に受けて育ったと思う。

 だが性格は母親似である。


 父は国税の調査が会社に入ると、よく私に愚痴を言っていた。


 「毎日、毎日、何様だアイツら。将来は経理士になって俺の仇を取ってくれよな?」


 と、まだ3歳の私に父は酔っ払ってそう言っていた。


 私も会社に来ていた公認会計士を一度見掛けたことがあった。

 運転手付きのセドリックの後部座席に乗っていたので、偉い人なんだろうと思っていた。


 思えば私が公認会計士になろうと経理の勉強に励んだのも、建築設計の仕事に夢中になったのも、そして国際航路の航海士になったのも父からの影響だったと思う。


 「設計士にはトレースという仕事があってな?」とか「船乗りはいつも星を見ているから胸板が厚いんだ」とか、そんな話を父はよくしてくれていた。


 父には友だちがいなかった。

 家に訪ねて来る大人も少なく、外に飲みに出掛けることもなかった。

 ましてやパチンコや競馬などのギャンブルもしなかった。

 家は貧しかったが借金もなく、毎日クタクタになるまで働いて、家でナイターを見て晩酌をして、私と妹と話をすることしか興味のない人だった。


 「どうしてパパはお友だちがいないの?」という私の問いに父は言った。

 「大人になったら友だちはいなくてもいいんだよ」と。

 

 この歳になると、その意味がわかる気がする。



 母には色々と注文を付けていた父だったが、私と妹は父に叱られた記憶はない。

 まるで子犬を見る様な目で私たちを見ていた。


 私も子供たちを叱ったことはない。

 子供は「小さな大人」だから、よく話をすれば大抵の事は理解出来ると思っている。


 だが、そんな子どもたちから私に直接連絡が来ることはない。

 

 それは私の教育が間違っていたのではなく、私の生き方に問題があったからだ。

 

 私は「家族を守るために家族を犠牲にしてしまった」からだ。


 


第4話

 家に絵本はなかったが、2歳くらいの時から母はよく私を抱っこして昔話をしてくれた。

 

 私は3歳になるまで母の乳を吸っていた。母の乳房を触りながら母の昔話を聴いて私は育った。


 母は本を読まない人だったが、母は曾祖母から聴かせてもらったという地元の民話を、臨場感たっぷりに話してくれた。


 「昔、ママが住んでいた柳津やないづというところに虚空蔵様があってね? その下の只見川に亀岩というのがあって、その下には龍宮城があったの。

 龍宮城には宝物の玉があってね? それを龍宮城に招待された若者が盗んで持ち帰り。虚空蔵菩薩様に差し上げたのよ。

 するとね? その玉を取り戻すために龍宮城から使者たちがやって来て、毎年1月7日に虚空蔵尊にやって来るようになったの。

 柳津の男たちは褌姿になってみんなでその玉を守ったのよ。

 それが柳津虚空蔵様の『七日堂裸参り』になんたというお話。

 柳津の只見川にはたくさんの「うぐい」というお魚が泳いでいてね?

 それは虚空蔵尊のお寺を作る時に出た鉋屑かんなくずが只見川に落ちて「うぐい」になったらしいわ」


 私はそんな母が語る昔話をイメージしながら聴いていた。

 私の中での竜宮城は浦島太郎が訪れた海ではなく、川にある。



 3歳の時、家に白い迷い犬がやって来て、母がその犬に味噌汁かけご飯を与えたらそのまま居付いてしまい、飼うことになった。


 子犬ではなく成犬で、白い雑種犬だったため、名前は安直に「シロ」と母が名付けた。

 3歳の私にとっては大型犬である。

 近所の店からアイスを買って帰ってくると、放し飼いのシロが私のアイスを獲ろうとジャンプして来る。

 すると私は必死で母に訴える。


 「ママーっつ! シロにアイスを食べられちゃうよー!」


 母に叱られるとシロはしぶしぶ引き下がった。


 

 ある日、テレビで散髪をしているシーンを見た私は、母の洋裁箱にあった裁鋏たちばさみを持ってシロの元へ。


 「シロ。かわいくしてあげるからね?」


 脇腹のフサフサした辺りを肌を傷つけないようにジョキ。

 私は慌てた。ザックリと切ったので肌がそこだけ丸く露出してしまったからだ。

 私はすぐに家に逃げ帰った。

 そこだけ卵型にハゲてしまったシロを残して。


 

 当時はペットショップなどは殆どなく、家の前のダンボールに子犬が入れられて「どうぞご自由に」と書かれているような状態で、野犬も多く、クルマにはねられた犬の死体がよく転がっていた。


 私はテレビばかり見ていた子供だったのでシロと遊んだ記憶はあまりない。

 

 ただよく鳴く犬だったので、母は近所迷惑だと山ちゃんに頼んでシロをクルマに乗せて遠くの山に捨てて来てしまった。

 拾ったり捨てたりが当たり前の時代だった。



 近所に大きなシェパードが頑丈な檻に入れられていて、その犬がよく脱走して近くをうろついていることがあった。


 ある時、私はそのシェパードに追いかけられて、すぐに玄関に逃げ込んだのだが玄関までシェパードが入って来た。

 まるでオオカミのようなシェパード。

 母は私を守ろうと座敷箒でその犬を追い払ってくれた。

 今でもその時の恐ろしいシェパードの顔は覚えている。

 その飼主は変わった爺さんで、やはり犬は飼主に似るのだろう。


 その頃、テレビでは『名犬ラッシー』という気品のある賢いコリー犬のアメリカドラマをやっていた。


 私は「シロとは全然違うなあ」と見ていたが、小学校に入学して、S君という鉄筋コンクリート造りのお屋敷に住んでいた友だちに家に招かれた時、芝生の庭の木にワイヤーが張られ、その間を鎖で繋がれたコリー犬が悠然と走っているのを見て驚いた。


 「S君の家にはラッシーがいるんだね?」

 「うちのは「#ラッキー__・__#」だけどね?」


 その後おやつにと、S君のお母さんが焼いてくれたお菓子をご馳走になった。


 (この世にはこんな美味しいお菓子があるんだ!)


 私のおやつは母の漬けた味噌漬けのお茶漬けか? 味噌のおにぎりだった。

 サザエさんの家のイチゴのショートケーキなどは見たことがなかった。


 そのお菓子がアップルパイであることを知ったのは、私が中学生になってからだった。

 



第5話

 3歳の時、父の勤めていた酒造会社の社長が、自社の土地に父のために平屋の社宅を建ててくれた。

 夜、残業して社宅を造ってくれている大工さんの現場に、私は父に手を引かれ見に行ったことを覚えている。

 裸電球を点けて働く大工さんと木の匂い。

 その頃の家造りは石膏ボードもなく塗り壁で、大工さんも鉋やノミ、手鋸を使っていた時代だった。

 今の建築は和室も少なくなり、プレカットされた材料をプラモデルを組み立てるような物になっている。


 トイレは汲取式で、便槽には換気風車が付いていた。

 トイレットペーパーは使わず、「ちり紙」を専用のカゴに入れて使っていた。


 「落ちたら駄目よ。落ちたら死んじゃうんだから」


 と母に言われ、幼児の私はトイレが怖かった。


 水道はあったが、庭には井戸も掘ってくれて、手押しポンプの水が出る口には母が布巾を袋縫いして取り付けてあった。不純物を除去するためだ。

 ポンプを押すのが楽しかった。


 敷地は100坪くらいあっただろうか? 敷地の隣りには火の見櫓が建っていたが怖くて少ししか登ることが出来なかった。


 4歳の時の私のお気に入りは砂糖を入れたホットミルクで、よく母が作ってくれた。

 いつものように母が鍋に沸騰した牛乳に砂糖を入れ、私のカップに注ごうとコンロから移動させようとした時、私は急に母に抱きつき、その沸騰した牛乳を頭から被ってしまった。

 母は慌ててすぐに水で冷やし、頭に味噌を塗って冷却してくれた。田舎の知恵である。

 その日以来、私は牛乳が苦手になってしまった。

 給食とか、牛乳を出されると無理して飲んでいた。


 敷地にはあの黄色い「背高泡立ち草」がいっぱい咲いていた。

 そして私は小児喘息になってしまい、発作が起きると母は私の胸に「ゼノール」というシップを貼ってくれて、苦しくて目を白黒させて意識が朦朧となっている私を抱きしめ、


 「あっちゃんが死んじゃう」


 と泣きながら看病してくれた。



 具合が悪くなって、近所の医者に行くと栄養失調だと言われ、お尻に太いブドウ糖注射をされたこともあった。

 きちんと三食食べていたはずなのにである。



 幼稚園までそこで暮らした。

 当時の幼稚園は殆どが1年保育だった。私が6歳の時、年少の子が入ってきた時にはまるで子犬のように感じた。


 実は私は幼稚園を転園している。

 最初に入った幼稚園は辞めて、自分が理事長をしている幼稚園に入り直せと社長から言われたからだった。

 折角買った幼稚園の服やお道具箱もすべて新調した。


 中々良い幼稚園で、私はその社長のコネでいつもお遊戯は主役だった。


 

 小学校の入学に合わせて私たち家族は県営住宅のテラスハウスに引っ越しをすることになった。

 それはその社宅に「ある問題」があったからだ。

 

 なんと、その敷地に墓があったからだ。


 その墓はかなり古いもので、無縁仏だった。

 やさしい母は、その墓によくお供えをして手を合わせていた。

 私も母の真似をして手を合わせた。


 ある時、陰陽師のような方が母をみて、「無縁仏があなたを頼っているから早くそこを離れなさい」と言われ、一家でその社宅を引っ越すことにした。

 そのままいたら祟られると言われた。


 ちなみにその方はお金を取ることもなく、信者を増やすこともよしとしない方だった。

 とても不思議な方で、声が耳から聴こえるのではなく、頭の中から聞こえてくるような声の持ち主だった。


 地元の言い伝えでは江戸時代の頃に行き倒れになり、その人を地元の人たちが墓を建てて供養したということだった。



 子供の頃からずっと借家住まいだった。


 引っ越しは会津で2回、大宮で4回。そして私が結婚して家を出るまで会津に戻って4回引越しをした。

 それはすべて母の我儘だった。

 母は同じところに留まっていることが出来ない人だった。


 だが私の放浪癖は母の遺伝ではない。引っ越しがしたいのではなく、引っ越しせざるを得ない状況での移転だったからだ。


 父親は外に遊びにも行かず、日曜日の休みには私を連れて釣りや動物園、水族館や電車に乗せてくれて、家でテレビでナイターや懐メロを見ながら安いサントリー・ホワイトをストレートで飲むのが唯一の楽しみだったので、地道に働いていた父の稼ぎは決してそれに見合うものではなかったが、十分に毎月貯金は出来ていたと思う。


 ただし、貯金が貯まると母はまた別の場所へと引っ越しをした。

 だが父がそんな母に文句を言ったのを見たことはない。

 私の転校などお構いなしの父と母だった。


 母の言い分はいつもこうだ。


 「ここは家賃が高いからもっと安いところへ引っ越しましょう」


 近所には友だちもいたが、離れたくないような友人関係でもなかったので、私も母にあまり文句を言った記憶はない。

 

 ただ小学校6年生の時に会津に転校して、中学に入学する時にまた「ここは家賃が高いから安いところへ引っ越すわよ」と引っ越した時だけは「嫌だ」と言った。


 なぜならそこはお寺の境内にある平屋の一軒家で庭もなく、窓はあるが周囲を建物で囲まれ、殆ど日の差さない古い貸家住宅で、六畳二間と三畳と台所、風呂は付いていたがトイレは汲取式だった。

 

 中学に入学して、女の子数人が私の後をつけて来て、私がどんな家に住んでいるのか、私が家の中に入ると家の周りをうろついていて、彼女たちの話し声が聞こえた。


 「これが菊池君のお家なんだね?」


 そこには明らかに憐れみの情があったように思う。



 担任が家庭訪問に来て、母が出したお茶を飲んですぐに帰って行った。



 私が家の鍵を忘れて登校してしまい、パートに出ていた母が学校に鍵を届けに来てくれたことがあった。


 するとその担任の教師は教室のみんなの前でこう言った。


 「菊池、お母さんが家の鍵を届けに来たぞ。

 鍵なんか掛けなくてもお前の家に盗られるものなんて何もないのになあ。あはははは」


 クラスのみんなからも失笑された。



 大宮の酒造会社を辞める時、会社の社長が家まで来て父を説得しようとした。


 「どうか考え直してくれないか? 給料も今の倍出そう。

 家も建ててやるし、ゆくゆくは酒屋も出してやる。

 この子も大学まで面倒を見させて欲しい」


 社長の子供さんは皆優秀で、長男さんは浦和高校を出て慈恵医大へ進み、医者になっていた。


 だが母は頑としてその好条件を受け入れなかった。

 その理由は私が中学2年の時に知ることになる。


 母がどうしても埼玉の大宮から会津に帰りたかった本当の理由が。


 


第6話

 母がどうしても会津に帰りたかった理由は、父と結婚する前に残してきた子供が、会津にいたからだった。

 私には父親の違う姉がいた。


 いつその事実を父に告げたのかはわからないが、父と結婚したいがために、母はその事実を父に隠して結婚したらしい。


 私が2歳の時、父は母に言ったそうだ。


 「昭仁はまだ小さいから、会津から連れて来て一緒に育てればいいんじゃないか?」


 やさしい父らしいと思った。


 実はその姉は、祖母の家で長男家族と暮らしていた、私の従姉妹だった。


 祖母は別の男性と再婚し、母を実家の曾祖母に預けていた負い目からなのか、母の申し出を了承した。


 「お前がコウちゃんとそんなに結婚したいのなら、オレが育てっぺ。 

 この子はオレの孫だかんな?」


 母の兄、私の叔父もそれを快諾したらしい。

 叔父夫婦にはすでに長男が生まれていたが、我が子のように姉を育ててくれていた。


 そして姉の下に女の子も生まれ、子供は3人になっていた。



 田舎に帰るといつも私をかわいがってくれる叔父と叔母が私は大好きだった。

 

 カメラが趣味だった叔母は、上から覗き込むクラッシックカメラでよく子供たちを写真に収めていた。


 叔父はブロック工事の職人をしており、叔母は女土方をして生計を立てていた。

 ふたりとも読み書きがあまり得意ではなく、運転免許が取れずに現場には自転車や、遠方の現場になるとトラックに乗せてもらい移動していた。


 小学校5年生だったと思うが、夏休みに初めて一人で特急『あいづ』に乗り、母に買ってもらった赤いテンガロンハットを被って祖母の家に遊びに行った。


 その頃、妹はまだ3歳だったので、私がひとりで帰省することになったのだ。


 母が大宮駅で私を指定席に座らせると、周囲の乗客に、


 「この子、終点の会津まで行きますのでよろしくお願いします」


 と頭を下げていた。

 

 小学生のひとり旅ということで、まわりの人たちはとても親切にしてくれた。

 色々と食べ物や飲み物を貰った記憶がある。


 

 

 私は従兄弟の「ケンボあんちゃん」が大好きで、いつも金魚のフンみたいにくっついていた。


 とても面倒見のいい従兄弟で、ケンボあんちゃんは当時中学三年生で新聞配達のバイトをしており、私も自転車の荷台に乗せてもらって一緒に新聞を配って歩いた。


 朝刊を家先に出て待っているお爺さんから、「朝早くからごくろうさん」と感謝された。

 お爺さんはまだ幼い兄弟が、朝早くから新聞配達をして家計を支えていると感じたのだろう。


 

 新聞配達は従兄弟全員がやっていた。

 中学1年生の私の姉も、小学4年生の従姉妹もだ。

 そんな大らかな時代だった。


 その当時は父親が違う母の弟夫婦も同居しており、大家族だった。



 新聞配達を終え、みんなで食べる朝食は美味しかった。


 

 朝食を終えると、叔母からお弁当を作ってもらい、私もケンボあんちゃんの荷台に乗って叔父のブロック工事の手伝いに出掛けた。



 オリンパスの工場の下請けのまたその孫請けで、私はケンボあんちゃんと汗だくになって叔父にブロックを運んだ。



 すると若いゼネコンの現場監督がやって来て、


 「何をやっているんですか! 子供なんか働かせて!」


 と叔父は叱責された。



 小中学生がヘルメットも被らずに大きな工場の建設現場で働いているのだ。無理もない。

 まるでフィリピンや韓国、中国のようだった。



 毎日朝は新聞配達、そして現場でブロック積みの手伝い、そして夜は従姉妹たちとチラシの折り込み作業を手伝った。


 大して役には立たない私にも、バイト料が入るとケンボあんちゃんは私に千円をくれた。



 「昭仁、バイト料だ」



 叔父からも千円貰った。うれしかった。


 真夏の炎天下でのブロック工事で汗だくになり、叔父が私とケンボあんちゃんに一服休憩の時に買ってくれたファンタのガラス瓶の500ミリリットルの味が忘れられない。


 井上陽水の『少年時代』を聴く度、その時の夏空を思い出す。




 祖母の家は隣家に挟まれた日の射さない街道筋にあり、小さな天ぷらのお惣菜コーナーを祖母が営んでいた。

 評判は良かったようで、母も若い頃は店を手伝っていたと聞いた。



 ずっと従姉妹だと思っていた。それが私の姉だと知ったのは中学2年生の時だった。


 旦那さんの浮気に悩み、幼い子供ふたりを道連れに無理心中を図った叔母から教えられた。

 私には親切だったが義姉だった母のことはあまり良く思っていなかったようだ。



 「リカちゃんはアッチャンの本当のお姉ちゃんなんだよ」


 

 だが私はあまり驚かなかった。

 血の繋がりとは不思議なもので、以前からなんとなくそんな気がしていたからだ。


 姉は私にいつもやさしく、よく世話を焼いてくれた。


 だがそんな姉が煩わしくもあり、私は姉とは距離を置いていた。



 姉と育ての叔母の関係は良好だった。


 姉は叔母を「母ちゃん、母ちゃん」と呼び、叔母もそんな姉に目を細めていた。


 叔母も私にはやさしかった。


 だがそんな叔母も、


 「リカを私に返して欲しい」


 と母が懇願した時には、


 「そんなことしたらナタで殺す」


 と言われたらしい。



 自分の身勝手で子供を捨てた母を、叔母は許せなかったのだろう。


 でも私はそんな母を責めたりはしない。母は人間として正直だからだ。


 そんなことをしたら誹謗中傷をされるのはわかっているはずだ。

 それでも母はイケメンの父と結婚したかったのだ。



 私が叔母からリカちゃんが姉だと聞かされたことを母に話した。

 母はすぐに叔母を呼びつけ烈火の如く激怒した。だが叔母はシラを切った。

 私の前でも平然と。


 「そんなこと言ってないからあ」


 

 私は姉の自慢の弟だった。


 「弟なんです」


 うれしそうに他人に紹介する姉。私はただ頭を軽く下げるだけだった。



 姉の次女である姪がある時母に言ったそうである。


 「どうしてフジコあーちゃんはお母さんを捨てたの?」


 母は私にこぼしていた。


 「ホント、ミサトはかわいくないわ!」


 私は姉の子供たちからは「アキおじちゃん」とよく慕われていた。

 それは姉が私のことを子供たちにいつも良く話してくれていたからだろう。



 私はいつも姉のことを「リカちゃん」と呼んでいた。


 三年前である、初めて電話で「姉ちゃん」と呼んだのは。

 姉ちゃんは泣いているようだった。

 初めて「姉ちゃん」と呼ばれたうれしさに。


 姉はテレビで1時間のドキュメンタリー番組にもなるほどのトラベル・ナースである。

 私は自分の病状を告げ、長くないことを告げると姉は言った。


 「困ったことがあったらいつでも言いなよ」と。


 今更ではあるが、私はそんな姉がいて、本当に良かったと思った。

  




第7話

 マセガキだった。

 

 幼稚園の時、会津から新婚旅行にやって来た、母の妹に幼稚園まで送ってもらった時、大好きだったヤヨイ先生に私はこう言い放った。


 「先生、ケイコおばちゃんは田舎から来たので何も知りません。よろしくおねがいします!」


 ヤヨイ先生は岩手出身の保育士で、父と同郷だったこともあり、ヤキモチ焼きの母はあまり良く思ってはいなかった。


 叔母は大きく口を開けて笑っていた。


 母と、それに合わせて田舎から出て来た祖母と、叔母の4人で東京見物に出掛けた。

 私のために上野動物園と水族館にも寄ってくれて、普段は絶対に買ってはもらえない、バットマンのお面と、光って音が出る光線銃のブリキのオモチャを買ってもらい、私はご満悦だった。



 ケイコおばちゃんからは「あっちん君」と呼ばれ、私を我が子のようにかわいがってくれた。

 私もケイコおばちゃんが大好きだった。


 ケイコおばちゃんは料理が上手で、母に内緒でよく私に小遣いをくれた。



 「ケイコがカレーを作ったから食べにおいでだって。

 行って来たら?」


 母にそう促されて私はよく叔母の家に従姉妹たちとカレーを食べに行った。



 「あっちん君、カレーはバーモントカレーとゴールデンカレーを混ぜて作るんだよ」


 と教えてもらい、私は早速母にそれをねだった。



 うちのカレーはいつもバーモントカレーのみだった。肉は豚のコマ肉。


 もっとも当時の家庭のカレーといえば、西城秀樹がコマーシャルをしていた、


    

    リンゴとハチミツとろ~り溶けてる♪



 のバーモントカレーが主流だった。




 私が高専の5年生になり、運輸省航海訓練所での乗船実習を控えていた時、叔母のご主人が突然他界した。

 心臓発作だった。


 朝、叔父は布団の中で冷たくなっていたという。


 警察の検死などがあり、かなり叔母は疑われたと言っていた。



 叔母と叔父のところには娘がふたりいたが、叔父は男の子が欲しかったようで、私をよく可愛がってくれた。

 

 小中学校の時、酔うと財布から千円札を取り出し、自分の娘たちや私たち甥や姪に小遣いをくれた。


 叔父は大変太っており、休みの日にはいつも昼間からチョコレートを齧りながらウイスキーをストレートで飲んでいた。

 叔父は水力発電所の技師をしていた。

 寡黙でやさしい叔父だった。


 叔父の実家は街で小さな駄菓子屋を営んでおり、貧しかったそうだ。


 高校は地元の工業高校へ進学したが、ずば抜けて成績が良く、担任の教師が家まで大学進学を勧めに来たほどだったと言う。


 「息子さんは大変優秀です! お母さん、是非彼を大学に行かせてあげて下さい!」


 だがその願いは聞き入れてもらえなかった。


 そんな叔父は酒を静かに飲みながら私を見つめ、


 「がんばれよ」


 といつも励ましてくれた。


 私はその叔父の境遇と自分の境遇を重ね合わせた。

 私も叔父と同じ境遇だったからだ。



 とても子煩悩な人で、本棚にはかなり難しい本が並んでいた。


 叔父に長女が生まれた時に購入したのか? 『エポック博士の育児論』とかいう分厚い本があった。



 それゆえ私もなるべく学費が安く、工学系の知識を学べる富山商船高専に進学した。

 別に航海士に憧れたわけではない。海も富山に行ってから見たに近い。


 貧乏な家から商業高校に通うのが屈辱だったからだ。

 

 本当は都立航空高専に行きたかったが、下宿代とか学費の面で断念した。


 富山商船高専は全寮制で、寮費は食費込みで13,000円程度だった。


 そうは言ってもそれなりに学費は掛かったはずだが、学校の入学説明会で、父は奨学金を申し込まなかった。


 「昭仁が卒業してから奨学金の返済をさせるのはかわいそうだから」


 母にはそう言っていたらしい。

 

 私は自分が親になって、それがどれだけ大変なことかを知った。

 


 「大学に行きたかったのに行けなかったのは家が貧乏だったからだ!」


 私はそう言って、よく親を詰ったことを反省した。

 親父らしいと思った。


 父も母も借金を嫌う人だったので、お金もなかったが借金もなかった。

 それゆえ家はずっと借家住まいで、クルマもなかった。



 卒業間近になって困ったのは、実習で必要な「小遣い」だった。


 乗船実習から帰って来た先輩からは、


 「最低100万はいるぞ」


 と言われ、私はそれを真に受け絶望した。


 母にそれを電話で話すと、


 「しょうがない。ケイコから借りてあげる」


 と、叔母に頼ることになった。

 叔母は快諾してくれたようだが、帰省した夜、母と叔母の家に向かった。

 玄関に行くと叔母に一度追い返された。



 「姉ちゃん、今、銀行さんが来ているから少し待っててな?」



 叔母は懇意にしている銀行員に100万円の現金を持って越させたのだった。


 夜、銀行員が帰るまで、母と近くのお寺の前でそれを待っている時、私はつくづく貧乏は嫌だと痛感した。



 三等航海士として就職して1年、帰国して私はすぐに叔母に100万円を返済した。


 叔母はとても喜んでくれた。


 「まさかこんなに早く、あっちん君がお金を返してくれるとは思わなかった」と。



 そんなケイコおばちゃんも他界してしまった。

 

 ありがとう、ケイコおばちゃん、叔父さん。

 私が卒業出来たのはあなたたちのおかげです。


 


第8話

 子供の頃はヘンな食べ物が好きだった。

 砂糖を大さじ3杯も入れたミルク珈琲に食パンを浸して食べたり、『おしるこ』という和風クッキーが好きだったりした。


 中でも私のお気に入りは、金魚の形をしたスナック菓子だった。

 

 「あの金魚さんのお菓子が食べたいの!」


 と、ベソをかいて母に訴え、母はそんな私を見て大笑いをして、私を連れて近所の雑貨屋でその金魚の菓子を買ってくれた。


 その菓子を偶然、スーパーマーケットで見つけたが、今はそれほど食べたいとは思わない。



 食べることが好きだった。

 それは両親の影響が強いと思う。

 母も父も、自分の食に対するこだわりが強い人だった。


 「私はサントリーの烏龍茶しか飲まないわ」


 とか、


 「アンコは「つぶあん」じゃなきゃダメよ」


 と、母は言っていたものだ。



 母は料理上手だった。

 特に母が得意だったのが「中華そば」だった。


 私が富山の商船高専から帰省すると、母によく中華そばを作って欲しいとねだったものだ。


 母は中学を出て横浜の理髪店で奉公した後。一時、横浜の中華食堂で、住込みで働いていたことがあったそうで、母の作る中華そばは絶品だった。


 「チャーシュウを作る時はね、蒸したら絶対に生醤油だけで煮詰めるのよ」


 母はトウモロコシもサツマイモもよく、蒸し器を使った。

 茹でると旨味もに逃げるからだという。


 昔、家に瞬間湯沸かし器がなく、母は冷たい水道水で洗い物をして、いつも「あー、冷たい」と、手を真っ赤にして洗い物をしていた。


 殆どの家には小さな瞬間湯沸かし器があった。

 私の夢は、母に瞬間湯沸かし器をプレゼントしてあげることだった。



 私たち家族は会津を離れて埼玉県の大宮に引っ越して来たので頼る親戚もなく、母が寝込むと、帰りの遅い父を待っているわけにはいかず、食事は私が作った。


 当時、まだ小学校2年生だった私は、まだ生まれたばかりの妹を背中におんぶしながら、米を研いだ。

 

 その頃からよく母に料理の手ほどきを受けた。


 母はよくそんな私を笑って言った。


 「男は台所に立つもんじゃないわよ。出世しなくなるから」


 母の予言通り、私は出世しなかった。



 子供の時、父によくお酌をした。

 父は子供にビールやウイスキーを注いでもらうのが好きだった。


 小さかった私がビール瓶を両手に抱え、父の三ツ矢サイダーのコップにビールを慎重に注ごうとした時、それを父が制した。


 「コップにまだビールが残っているうちには、継ぎ足してはダメなんだよ。

 ビールが不味くなるからね?」



 蕎麦が好物だった父だが、七味がないと蕎麦を食べない人だった。


 そんな父が私がまだ幼稚園だった頃にゆで卵を作ってくれた。

 そのゆで卵が衝撃だった。


 卵を茹でて、黄身と白身に分けて白身をザク切りにして、その上に黄身をザルで裏ゴシしてその上にふりかけ、そこに砂糖と醤油を掛けて食べさせてくれた時は、父が神に思えた。

 父に何度もそのゆで卵をせがんだものだ。



 そんなある日、父から言われた。

 

 「俺の田舎の岩手にはな? 『わんこそば』というのがあってな?」

 「ワンコそば?」


 幼かった私は、子犬を連想してしまい、


 「かわいいワンコを食べちゃうの?」


 と怯えた。


 

 父は大笑いをして、私に茹でた蕎麦をお椀に入れて出してくれた。


 「お椀で食べるから「わんこそば」なんだよ」



 夢中で食べた。美味かった。

 私はその日から、蕎麦はお椀で食べるようになった。



 「わんこ蕎麦は「もう食べられない」と言ってもダメなんだ。

 隣にお店の女の人がお椀を持って食べるのを待っていて、食べ終わるとすぐにまた蕎麦をそのお椀に入れてしまう。

 「ごちそうさま」をする時には、お店の人が蕎麦を入れる前にすばやくお椀に蓋をする必要がある。

 そうしないとずっと食べ続けなければならない」


 私はその話を聞いて恐ろしくなった。


 「お腹がパンクしちゃうの?」

 「そうかもしれないぞ」



 そして28歳の時、私は勤めていた会社の会長のお供で、ある盛岡の会社の視察に鞄持ちとして同行した際、その盛岡の会社の社長さんから、宮沢賢治もよく食べに来ていたという「わんこ蕎麦」の老舗に招待していただいた。


 (これが親父の言っていた「わんこ蕎麦」か?)



 軽く100杯は食べられると思った。

 お店のベテラン給仕さんの話では、「約11杯分でかけ蕎麦一杯分になります」と説明を受けた。


 お膳には薬味として小鉢に筋子や「なめこおろし」などの具材が用意され、そればっかり先に食べていたらその仲居さんに、


 「それは薬味だからと一緒に食べるんだよ」


 と、岩手弁で叱られた。


 

 本当は何杯まで食べられるか挑戦したかったが、大勢の社長さんたちがいたので24杯で止めた。



 その後、息子が小学校4年生の時、女房が大阪府のトレーニング・シップ、帆船『あこがれ』の夏休みの体験航海に応募したので、息子を八戸港まで送っていく時に、盛岡駅で途中下車して駅前のわんこ蕎麦屋に寄った。

 息子にわんこ蕎麦を体験させてやりたかったのと、私のわんこ蕎麦リベンジのために。


 

 親子で死ぬほど食べた。


 ただそこの店はお盆が空く度にお替りの蕎麦のお盆を取りに戻るので、以前の花巻の本店とはシステムが異なり、多少は不利だった。


 何杯食べたか証明書が発行される。

 私は97杯でダウンした。

 切りのいい100杯までのあと3杯が、どうしても食べられなかった。



 この前、ラジオで「もえあず」という大喰いアイドルの娘がわんこ蕎麦を食べた話をしていた。


 「1,000杯くらいしか食べられませんでした。エヘッ」


 「1,000杯!」 私は足元にも及ばないと思った。


 多分、今なら20杯で白旗だな?

 

 わんこそば、また食べたい。




第9話

 子供の頃に住んでいた埼玉の大宮は、東京のベッドタウンということもあり、子供の教育には熱心な地域だった。

 英会話スクールにスパルタ式学習塾などに通うクラスメイトも多かった。

 そして目指すは浦和高校。そんな時代だった。


 私の小学校は生徒数がどんどん増えて行き、ひと学年が45人学級で15クラスもあった。

 教室が間に合わず、臨時のプレハブ教室で急場を凌いでいた。


 体育館などはなく、全校集会はいつも校庭で、雨の日は教室で校長先生たちの校内放送を聴いた。

 会津の学校に転校して初めて体育館を見た。

 水銀燈の眩しさに驚いた。


 どうでもいい校長先生の長い訓話を「休め」の姿勢で立って聞いていると、バタバタと生徒が倒れ、中には失禁してしまう子もいた。

 体育館の長時間の集会は、今も同じなんだろうか?



 学区内には大きな低所得者向けの公営住宅があり、私はそこの「スラム街」で育った。


 分譲マンションも多く、戸建てやマンションに住む子供たちは家にピアノやエアコンもあるような裕福な家庭だった。


 「住む世界が違う」と、子供ながらにそう感じていた。


 スラム街に住む子供と、恵まれた環境で暮らす子供が同じ教室で学ぶ矛盾。


 

 私のクラスは公立の小学校でありながら、クラスの半分は帰国子女だった。

 転校して来る子供もしょっちゅだった。


 「ラオスから来ました」

 「マレーシアから来ました」

 

 ニューヨークから来た女の子はフランス人形のような子で、みんなから一目置かれていた。

 話し掛けることも憚られた。


 「おい、英語で何か話してみろよ」


 だが彼女は何も話さなかった。

 「大人だな?」と思った。


 私は尊敬する父にそのことを話し、こうせがんだ。


 「パパ、何か英語を書いてよ」


 すると父は笑って、


 

     This is a Pen



 と広告の裏紙に書いて渡してくれた。


 

 翌日、私はその父の書いてくれた英語の紙を、自信たっぷりにその女の子に見せた。

 私は英語も出来る父を自慢したかったのだ。

 

 「これってどういう意味だ?」

 「これは「これはペンです」という意味よ」


 英語なんて知らない私は、彼女と父を改めて尊敬した。


 そして彼女はいつの間にかまた、ニューヨークへと帰って行った。



 学力の差は歴然だった。

 近くにはいくつか大学もあり、その当時は学生運動も盛んで、公安に追われた学生が、友人の家の庭に鉄パイプ爆弾を置いて逃げたこともあった。


 大学教授の息子もいて、いつも弁舌さわやかに、理路整然と話しをする生徒だった。

 男子でもピアノが弾ける子供もたくさんいた。


 音楽の時間、先生が言った。


 「馬場君、『トルコ行進曲』を弾いてみて」


 すると彼はおもむろにピアノの蓋を開け、その曲を弾き始めた。

 まだ小学校の2年生でモーツァルト。

 私は彼が宇宙人なのではないかと思った。

 そんな生徒がゴロゴロいた。

 


 東京電力の社員寮に住んでいた女子に言われたことがある。


 「アンタは黙っていなさいよ、馬鹿なんだから」


 私もそうだと思っていたので気にならなかった。

 勉強が出来ない私は軽蔑されていた。


 

 クラスメイトの将来の夢は、野球選手や医者、外交官や大学教授が多い中で、私はただ、強くなりたかった。

 スラム街の子供たちと取っ組み合いのケンカをすると、いつも泣かされていたからだ。


 勉強は出来ない、ケンカも弱い。

 いいところはなにもない小学生だった。


 父も母も私の将来に期待をしてはいなかった。

 子供は怪我や病気もせず、早く社会に出て自分で稼げるようになってくれればそれでいいと思っていた。


 家に児童書といえば母親が内職をしていた会社の社長夫人がくれた、イソップ童話とグリム童話。

 そしてジュール・ベルヌの『海底2万マイル』だけだった。

 あと、いただき物の飛び出す絵本があったような気がする。


 通信簿は1こそなかったが、2と3ばかりが並び、教師の記入欄には「落ち着きがない」といつも書かれていた。



 学用品はいつも最低限の物しか買って貰えなかった。

 色鉛筆は12色の紙の入れ物のやつだった。

 みんなが28色の缶入りの色絵筆や48色の色鉛筆を自慢している時には惨めな思いをした。

 だから年の離れた妹や、自分の子供たちにはなるべくいい物を買い与えた。


 学校行事で自分が写っている写真も買ったことがない。

 だから私には小学校時代の写真が殆どない。


 母に「買って欲しい」とか「学校でお金が必要なんだけど」と言うのが苦痛だった。


 宿題のプリントをしている時、消しゴムがなくなっていることに気づいた私は、指に唾をつけて間違った箇所を擦って消した。


 給食費もそうだった。


 「どうして毎月パパのお給料の前なのかしらねえ。

 パパの給料日まで待ってもらいなさい」


 そう言う母だった。


 「菊池、給食費は?」

 「忘れました・・・」


 当時はたまに給食費がなくなることがあり、疑われるのはいつもスラム街の私たちだった。


 「全員目を閉じて。間違えを犯した者は静かに手をあげなさい」


 自分がやっていなくても、イヤだった。

 お金がないということはそういうことなのかと悲しくなった。

 その時私は思った。

 結局人間は、「どの家に生まれるかで人生が決まるのだ」と。


 私の家は借金もなく、僅かだが貯金もあったはずだが子供には無関心な親だった。



 小学校3年生の頃だっただろうか? 団地の中に少年野球チームが出来ることになり、そこに入ることを勧めてくれたのは、意外にも母だった。


 「野球やったら?」と。


 並んでユニフォームをもらう時、なぜかみんな笑って並ぶ順番を変わったりしていた。

 私は彼らがどうして度々並ぶ順番を変わるのか分からなかった。

 何しろ100人近くいるチームだ。背番号も2桁代の後半になるのも当然である。

 みんなジャイアンツの有名選手の背番号に憧れていた。

 ユニフォームの入った箱には小さくボールペンで中に入っている背番号がわかるようになっていたのは私が知ったのは、その箱を手にした時だった。

 私は間抜けな子供だったので、そのままユニフォームの入った箱を受け取った。

 

 背番号「50」。


 監督のような背番号だった。

 私は母に頼んで「0」を剥がしてもらい、中央に「5」を付け替えてもらったが、背中には50の跡が残ってしまっていた。



 隣に住んでいた、子供がまだいなかったご主人からバットをプレゼントしてもらった。


 だが問題はグローブだった。

 私のグローブは父の会社で昼休みにキャッチボールで使っていた、ベーブ・ルースが使っていたような代物で、野犬に齧られて中綿がはみ出た物だった。


 コーチは当番制だったので、父も練習に参加した時もあった。


 私がいつものようにチームメイトたちに囲まれて、


 「何だお前のグローブ? 戦争中のやつじゃねえのか?」


 と、みんなに笑われていた。


 それを離れたところから見ていた父が、家で晩酌を始めると母に言った。


 「昭仁にグローブを買ってやれ」


 私はその時泣いたことを覚えている。

 それは新しいグローブを買ってもらえるといううれしさの涙ではなく、みんなが持っている新しいグローブすら買って貰えなかった悔し涙だった。


 私は翌日、母とスポーツ店に行き、いちばん安いグローブを買ってもらい、友だちに教えてもらいながら毎日新品のグローブに油を塗り、ボールを入れて形を整えた。

 そのグローブだけは今も大切に捨てずに取ってある。



 それから私は野球が好きになり、いつの間にかピッチャーで4番を打つ、大谷翔平のような二刀流としてレギュラーにまでなることが出来た。


 だが本格的に野球をするにはカネがかかる。

 私は会津に転校してからは水泳部に入り、平泳ぎでは会津若松市の大会で3位になり、当然中学でも水泳を続けるだろうと、同じ水泳をしていた友だちはそう思っていた。

 水泳は海水パンツがあればそれで良かったからだ。


 だが私は柔道部に入ってしまった。

 水泳部に体験入部しに行く途中、体育館で柔道をしている先輩たちに、


 「おいそこの1年生、柔道やらねえか? 柔道」


 そしていつの間にか柔道着を着せられ、柔道部に入部させられた。

 柔道を習うことでそれが自信となり、私は学年で一番強くなった。


 私の将来の夢が実現された。





第10話

 大宮の小学校の時は、意外にもいじめは殆どなかった。

 裕福な家の子も、私たちスラムの子も対立することはなかった。

 それはお互いに「住む世界が違う」ことを認識していたからなのかもしれない。


 ある日、クラスでも一番貧乏だと言われていた男子が給食を食べている時に嘔吐した。


 「うわっ、汚え!」


 みんなが気持ち悪いと顔を顰めている時、クラスのマドンナが、食べ物を吐いて泣いているその男子の吐瀉物を片付け始めた。自分の雑巾で。


 そのマドンナは三人姉弟の長女で、弟たちの面倒をよくみる女子だった。

 掃除しながら彼女は言った。


 「しょうがないでしょう? わざとじゃないんだから」


 私はそのマドンナが好きだった。

 そして更に好きになった。



 そんな彼女とその親友の女の子が、学級会の催し物の準備をしている私のところにやって来て、


 「昭仁君、何か手伝うことない?」


 と言って来た。

 私は彼女たちに私が書いた演目を書いた紙を台座に貼ってくれるように頼んだ。

 何だかとても照れくさかった。



 私の転校が決まり、クラスの担任の女教師にその旨を伝えたが、「お別れ会」すらしてはくれなかった。


 終業式の当日、私がみんなの前でお別れの挨拶をしても特にクラスメイトからは何の反応も拍手もなかった。


 私が挨拶を終え、教室を出て数秒後、教室から大きな笑い声が沸き起こった。

 おそらくそれは担任の教師が私のことを揶揄したからだと直感した。

 私は重い足取りで階段を降りて行った。




 会津に転校して1ヶ月が過ぎた頃、2通の手紙が届いた。

 あのマドンナと、あの親友の女の子からだった。


 何度か文通が続いた。

 私はふたりとも好きだった。

 そしてマドンナからの手紙に、


 「私とMちゃんのどっちが好きなの?」


 と書かれており、それから返事が来なくなった。




 小学校6年生で転校した私は軽いいじめにあっていた。

 それは「都会」から来た子に対する好奇心だったのかもしれない。


 着ている服も、履いている靴も田舎にはないものだったからだ。


 「なんだ? お前の靴?」


 と言われたりもした。


 みんながランドセルを背負っていたが、私は当時大宮で流行っていた「ネイビーバッグ」を持って学校に通っており、それも指摘された。


 「スカしてんじゃねえぞ!」


 

 ベランダに出るとよく鍵を掛けられ、教室に入れなくもされた。


 そして遂に、私はいじめを先導していた子とクラスで取っ組み合いのケンカになった。


 埼玉の小学校ではいつも惨敗していた私だったが、その子にはあっさり勝った。


 教室にクラスの担任の先生が来て、耳の下を少し切って出血していたその男子生徒に、


 「めずらしいな? お前がやられるなんて」


 そう言って笑っていた。

 その教師はいつも私がいじめられていたのを母から聞いて知っていた。

 おおらかな時代だった。

 その日から私のいじめはなくなった。



 転校して初めて好きな女の子が出来た。

 彼女のご両親は学校の教師をしており、職場の学校を変わられたようで、彼女も新学期からは私と同じようにこの小学校に転校して来ていた。


 同じ転校生ということもあり、私たちはすごく気が合い、ふざけ合った。


 彼女の家にはピアノがあるらしく、彼女はピアノを弾くことが出来た。

 凄い読書家で、読書感想文コンクールでは最高賞を受賞し、みんなから「読書感想文の女王」と呼ばれていた。

 当時の会津ではめずらしく、英語も勉強していた。

 ユーモアのある知的な美人だった。

 私にはない物をすべて持ったいた。


 「この子といつも一緒にいたい」


 初恋だった。



 学校帰り、いつも彼女を待ち伏せした。

 男バージョンのユーミンの『まちぶせ』のように。


 雪の積もった校庭に、彼女は私をわざと突き飛ばして、雪まみれになった私を見て笑い、私も彼女を雪に転がして笑い合った。

 まるで『小さな恋のメロディー』のように。

 

 会津には『会津三泣き』といわれるものがある。

 「初めは会津の人たちの「よそ者」扱いに泣かされ、そしていつしか会津の人の温かい人情、人柄に泣き、そして会津を離れる時、そんな会津を去りたくないと泣く」というものだ。


 それは周囲を山に囲まれた米どころ盆地の会津。そして徳川家の大名として百万石を有する会津藩の城下町は、戊辰戦争での内戦を経験したことで、会津に来る人を警戒するようになったからなのかも知れない。

 

 会津で生まれ、会津を離れてまた会津に戻って来た私たち家族もそうだった。

 

 母は元々が会津の出なので知人や友人、親戚も多く、社交的な人だったのですぐに地元に馴染んだ。

 そして一時は自分が捨てた娘と会えたことで安心し、うれしそうだったが、私と父は「よそ者」としてかなり泣かされていた。


 父は銀行を辞め、岩手から叔父を頼って会津の酒蔵に勤めていたが、人付き合いをしない人だった。

 仕事も決めずに母に押し切られるように会津に戻って来た父には親しい友人もなく、毎日職業安定所に通っていた。

 中々仕事が決まらない父に、私たち家族は焦っていた。


 今思えば杜氏として、関東の酒造品評会で金賞を取った父が、なぜ酒の町会津の酒造会社に就職しなかったのは、賃金が安いことを知っていたからなのかもしれない。


 そんな時、私は押阪忍が司会をしていた『ベルトクイズQ&Q』の夏休み子供大会の予選大会に出場したいと父にせがんだ。


 仕事もまだ決まっていない父は、会津に来て慣れない私を不憫に思ったようで、失業中の身でありながら、私を会場のある福島市の福島テレビに文句も言わず連れて行ってくれた。


 連絡先を会津の祖母の家にしていたため、私宛にテレビ局から本選大会への出場の連絡が来たらそうだが、祖母はそれが何なのかわからずに、電話を切ってしまったと、母に後から聞かされた。


 クイズ番組が好きだったこともあり、予選のペーパーテストはよく出来た自信があった。

 本も読ままい、勉強も出来ない私の「先生」はテレビだった。


 私はヒマさえあればテレビばかりを見て過ごしていた。


 


第11話

 小学校6年生で会津の田舎に転校して来た私にとって、毎日は驚きの連続だった。


 大きくて綺麗な体育館、ひと学年が8クラスしかなく、生徒数もひとクラスに40人ほどしかいなかった。

 大宮の小学校ほどの緊張感はなく、のんびりとした小学校だった。


 当時の会津の産業は農業と観光、漆器と酒造りだった。

 大企業などは殆どなく、役場職員か銀行員が地元のエリートだった。


 だが、会津藩の末裔たちが暮らす会津には、徳川家、会津葵の御紋を背負った会津人としてのプライドがあった。

 それは会津藩校日新館が校訓としていた、



       ならぬことはならぬ



 という武士としての矜持だった。


 「恩は石に刻め」という、徳川から受けた恩は決して忘れてはならないという思想が会津藩にはあった。

 サムライとして「恥ずべき行いをしてはならない」という教えである。

 「目先の利益に飛びついてはならない」と、常に教えられた。


 学校の教室にはこの言葉が額に入れて黒板の上に掲げられていた。


 会津は昔の日本の縮図だと思う。

 資源も植民地もない日本だが、卓越した教育制度だけが充実していた。


 16、17歳位のまだあどけない武家の子息である少年剣士たちが『白虎隊』として組織され、鶴ヶ城に籠城すべきか薩長と戦を交えるべきかと激論した後、飯盛山で割腹自殺をした。

 そしてその忠義心は今も語り継がれている。

 現在の白虎隊の剣舞を創設したのは中学の教師で詩吟の師範でもあった義父である。


 白虎隊士として命を取り留めた飯沼貞吉はその後、通信技士として日清戦争に陸軍歩兵大尉として従軍した際、ピストルを携帯するように言われたが、


 「自分は白虎隊として死んだ身である」


 としてそれを断ったという。



 会津には伊東正義という偉大な政治家がいた。

 盟友の大平正芳が死んで、総理臨時代行となった時でも彼は総理執務室ではなく、官房長官執務室で仕事をし、国会でも総理大臣席には座らなかったと言う。

 総理になりたい政治家がウヨウヨいる中で、伊東は自民党総裁になって欲しいと懇願されたがそれを受けなかった。

 

    「本の表紙を変えても中身が変わらねえと駄目だ」


 と断ったという。

 佐川急便の汚職でカネを受け取らなかった自民党の政治家は、伊東正義だけだったという。

 


 地元に返ってくると、バブルで浮かれたあの時代ですら、雨漏りのする小さな事務所の六帖の畳で頭を肘で支えて横になって笑っていた。


 そんな会津の名産は「教育」だった。

 同志社大学を創設した新島襄の妻、女子教育の先駆者でもある茶道家、新島八重。ソニーの創業者の井深大。石油会社のオーナー夫人、七十七銀行の頭取、大阪市長など枚挙に暇がない。

 戊辰戦争で薩長の仇敵でもあった会津の人間が政治経済、軍や省庁で重要なポストに就いている。

 それは「相手を決して裏切らない、勤勉な人間である」ということが評価されたからではないだろうか?

 

 

 

 学校の番長格のリーダーを懲らしめた私は、放課後、草野球に誘われるようになった。

 野球は田舎の子供の方が野性的で上手いのではないかと思ったが、埼玉の野球チームよりもはるかにレベルは低かった。


 大宮の少年野球ではピッチャーで4番を打っていた私はすぐにヒーローになった。


 「昭仁君、野球、上手いね?」


 私は有頂天になっていた。

 大宮の少年野球チームには、小児麻痺で片足が不自由な2学年上の背が高くてハンサムな先輩がいて、ピッチャーが投げたボールを振り向きざまにバックネットに打ち込む特技を見せてくれたりもした。

 みんながプロ野球選手になることに憧れた時代だった。


 浦和の住人以外、サッカーに興味はなく、学校の授業でやる程度だった。

 センターリングなんて知らずに、いつもボールに群がるようなサッカーだった。

 

 

 いつものように校庭で野球をしていると、隣接していた只見線を走る列車の音が近づいて来た。


 シュシュシュシュ ポーッ


 それは初めて見たSLだった。


 (蒸気機関車が走っている!)


 それは物凄い迫力だった。

 午後の澄んだ大空に、もくもくと煙を大空に叩きつけるように疾走し、警笛を鳴らして走って行った。

 だが誰もそれに驚く子供などなく、普通に野球をしていた。

 イベントで走るSLなどではなく、それは在来線として利用されていた。

 それが今から50年前の会津の日常だった。


 

 教諭たちは個性のある面白い先生が多かった。

 私たちが広島の原爆について話している時、迂闊にも私が「原爆はアインシュタインが作ったんだよね?」と言うと、たまたまそこを通りかかった定年間近の教頭先生が大きな声で私に言った。


 「違う! 原爆を作ったのはオッペン・ハイマーだ!」


 私はその時初めてオッペン・ハイマーの名を知った。



 ある日、次の授業に遅れそうになり、廊下を早足に私が歩いていると、音楽と図工を担当していた先生に呼び止められた。


 「いかがです? 一緒に音楽でも聴きにまいりませんか?」


 40歳くらいのその男性教師とは面識はあっても直接授業を受けたことはなかったが、私が6年生で埼玉の大宮からの転校生だったということは、どうやら職員室でも話題になっていたようだった。


 私は授業のことも忘れ、先生について行った。


 体育館から音楽が聴こえて来た。それは50人ほどの編成の合奏だった。

 大宮にいる時には合唱はあったが、器楽合奏はなかったので衝撃だった。



 「これは『マイアミ・ビーチルンバ』という曲なんですよ」



 そう先生は私に教えてくれた。初めての音楽との出会いだった。


 そしてエレクトーンを弾く女の子に目が停まっった。

 一心不乱にエレクトーンを弾く女の子。

 彼女は私と同じ六年生だった。


 彼女は8組だったので名前も知らなかった。

 ただ廊下で女子たちと大きな声で笑いながらすれ違うことがあり、耳に髪を掛ける仕草が印象的な子だった。

 転校生の私はみんなから好奇の目で見られていたこともあり、彼女とも時々目が遭った。


 それから13年後、その彼女は私の妻になった。

 初めて彼女を見た時から、私は何となくそんな気がしたのが不思議だった。




第12話

 この先生はとても優秀な先生だった。

 まだ小学校3年生の子供たちに新聞を読ませ、興味のある記事を切り抜かせてスクラップにしてノートに貼らせたり、毎週木曜日には漢字の書き取りテストを実施し、80点未満の生徒にはその間違った漢字を1,000字書かせて翌日の金曜日までに提出させた。


 夜の10時過ぎまでその宿題をやっている私を見て母は言った。


 「まったくあの先生は何を考えているのかしら! 小学生にこんな遅くまで宿題なんて!」


 と憤慨していた。

 だがその御蔭で私は大人になっても漢字で苦労することが少なかった。



 5年生になった時、そのクラスにまた転校生がやって来た。

 だがその生徒は少し変わっていた。

 急に授業中にわめいてみたり、席を離れて勝手に教室を歩き回ったりと、感情の起伏が激しかった。


 そしてその同級生の家に数人で遊びに行った時、その子の母親がとても嬉しそうに、私たちに苺のショートケーキをふるまい、「うちの子と仲良くしてね?」と言った。


 その子の部屋で遊んでいる時、私は恐怖を抱いた。

 それは彼がいきなり、アメリカのカウボーイが使うような大きなナイフを持ち出し、薄笑いを浮かべてこう言ったからだ。


 「ボクはいつでも人を殺せるんだ」


 


 私は次の日、学校でそれをみんなに話した。


 「アイツ、ちょっとヘンだよな?」

 「うん、僕もそう思うよ」

 「なんかおかしいよな? 〇〇君って」


 

 そしてその日の放課後、私を除いたそれを話していた数人がその女性担任にビンタをされたと聞いた。

 私はその日、家に早く帰ったのでビンタは免れたが、次の日、担任に呼び出された。


 「お前、〇〇のことを「おかしなやつ」と言ったらしいな?

 どうしてそんなことを言った?」


 私は若い女性担任にその子の家に行った時の話をした。

 教師は怒らず私の話を静かに聞いていた。

 そして私が話終えると彼女は言った。


 「あの子はね、心の病気なの。分かるわよね?

 だから仲間外れにするのはやめなさい」


 彼は自閉症だった。


 私は放課後、罰として1階から4階までの校舎の階段の雑巾掛けを往復5回、させられた。


 その後、彼は特殊学級へと移って行った。


 

 

 私が泳げるようになったのは、当時、大学を出てすぐ担任を持った女性教諭のおかげだった。

 それまで私はプールに目をつぶって顔をつけるのが精一杯で、クロールなどはまるで犬が溺れているようなものだった。

 それには理由があった。幼稚園の時、幼なじみのターちゃんと、父に魚釣りに連れて行ってもらった時、ターちゃんが足を滑らせて川に滑り落ちてしまい、慌てた父がすぐに川に入り、ターちゃんを救い出したことに由来する。


 (ターちゃんが死んじゃったらどうしよう・・・)


 私はその時から水が怖くなったのだ。



 体育の水泳の時間、その女性教師はプールサイドに私を呼んだ。



 「菊池、ちょっと来てみろ。プールの中に何かいるぞ」

 

 私がプールを覗き込んだその瞬間、その教師は私の頭をいきなりプールの中に沈めた。

 私は驚いて思わずプールの中で目を開けてしまった。

 とてもきれいなアクアマリーンの世界に私は魅了された。


 (なんてキレイなんだろう・・・)


 それから私は泳げるようになった。

 


 

 転校して体育の水泳の時間、先生から言われた。


 「菊池、水泳クラブに入らないか?」

 


 私はあまり水泳に興味はなかったが、ハマった。

 クロールは身長があり、腕や手の平、足が大きい方が有利だと思った。

 バタフライは出来ないし、背泳ぎは地味。

 そこで私は平泳ぎを選択した。


 水泳の顧問の先生の指導もあり、タイムが上がって行くのが楽しかった。


 「菊池、お前はツー・ストローク、ワン・ブレスではなく、ワンストローク・ワンブレスの方がいい。

 それでやってみろ」


 私は更にタイムを上げた。


 その当時、荒立小学校という水泳の全国強豪校があり、そこには水泳の全国大会で入賞する生徒もいた。


 「荒立小って冬でも氷を割って泳いでいるらしいぜ」


 というスパルタ訓練の噂が、よく水泳クラブの話題になっていた。

 今なら全国ニュースにもなって、モンスターペアレンツの格好の餌食になったことだろう。



 会津若松市の水泳大会に出場することになった。

 予選では1コースになった。

 私は声援にうれしくなり、一生懸命に泳いだ。


 すると本選では真ん中のコースになり、応援が遠くなるとがっかりしたが、プールでは造波抵抗が出来るために、予選のタイムを元に、早い順から中央のコースになることすら私は知らなかった。


 おかげで私は会津若松市の水泳大会の平泳ぎの部で三位になった。


 私は中学に入ったら水泳を続けるつもりだった。

 

 


第13話

 夏も終わり、水泳の季節が終わった。

 秋はあっという間に過ぎ去り、今でも忘れはしない、11月13日に初雪が降った。

 そして初めて白い世界を見た。会津の冬は長い。

 津々しんしんと降り積もる雪。

 大宮でも雪は降ったが雪の量が違う。

 大宮で雪が積もるといえばせいぜい5センチ程度だった。

 それでも私は近くの空き地の築山に、岩手から送られて来たリンゴの木箱の板を剥がして釘を2本ずつ打って、そこに長靴の先が当たるように「スキー」を作って滑ってみたり、雪だるまを作って独りではしゃいでいた。


 見様見真似で雪だるまを転がして行くと、雪だるまは丸くはならずに「黒だるまロール」になって、転がした跡が黒く道になってしまい、悲しくなった。


 おでんを重ねたような、所々が黒い雪だるまがようやく完成した。

 だが会津では1日で50cmはすぐに雪が積もった。

 私は念願だった丸くて白い雪だるまを作り、「かまくら」も作った。

 まだ4歳だった妹と、テレビで見た秋田の「かまくら」の中の炬燵でミカンを食べているシーンを思い出し、家からミカンを持って来て一緒に食べた。

 妹は母の胎内にいた頃を思い出したのか、とてもうれしそうにミカンを食べていた。


 「お兄ちゃん、「かまくら」また作ろうね?」



 朝、学校に行く時、まだ所々道路の除雪がされておらず、雪をかき分けて登校した。

 雪国会津では相互扶助の精神があり、近所同士が協力して雪かきや雪下ろしをする。

 ツララも初めて見た。


 校庭にはちょっとした築山が作られており、冬の体育の時間にはスキーの授業もあった。


 みんな、蛍光色のカラフルなスキーやスキー靴を履いて上手く滑っていた。

 私は新しいスキーなどとても買ってもらえず、従兄弟が前に使っていた旧式の登山靴のようなスキー靴に、金具の古い、木製のスキーだったので、みんなから白い目で見られたが、多少ケンカが強かった私に誰もそれを指摘して嗤う者はいなかった。


 スキー教室も年1回行われ、近くのリフトもないようなゲレンデに、スキーを担いで出掛けた。

 運動神経だけは良かった私はすぐにスキーをマスターした。


 そしてようやく安物のスキーとスキー靴を買ってもらい、ストックも竹ではなく、ジュラルミン製になり、私はよりスキーが好きになり、上達した。

 私と妹は雪が大好きで、雪が降るとまるで子犬のように田んぼを雪まみれになって走って遊んだ。



 春には中学への入学が待っていたが私は憂鬱だった。

 母はいつも零していたからだ。


 「ホント、中学はお金が掛かるわねえ」



 ある日、母に連れられて祖母たちが住む実家に行った。


 「ケンボウ(従兄の名前)、アンタ来年から高校だよね?

 昭仁に要らなくなった中学の制服をくれない?」

 「いいよ叔母ちゃん」


 ケンボ兄ちゃんは2着の制服を持って来てくれた。

 

 「ちょっと着てみなさい」


 私は母に言われ、渋々それに袖を通した。

 少し大きかった。


 「おばちゃん、昭仁には少しおおきくねえべか?」

 「大丈夫よ、どうせすぐに大きくなるんだから」


 悲しそうな私の顔を見たケンボ兄ちゃんは母に言ってくれた。


 「中学の制服、買ってやらんにいのかよ?」


 と、ケンボ兄ちゃんは母に言ってくれた。

 だが母はきっぱりと言った。


 「どこにそんな余裕があるというのよ。大宮から引っ越して来て大変なんだから」


 

 そしてズボンは母が調整してくれて、私は少し大きめの制服を来て入学式に臨んだ。

 恥ずかしかった。


 入学式には父が来てくれた。

 中学校までは自宅から歩いて50分ほど掛かった。

 父はうれしそうだった。やっと私が中学生になったことに。



 流石に布製の肩掛けカバンと制帽、運動着は新品を買ってくれた。

 当時の会津の中学は三中以外はみんな坊主頭にされ、なんと運動着には番号と名前が書かれた大きなゼッケンが貼られていた。

 今では大騒ぎになることだろう。



 私は元妻と同じクラスになり、あいうえお順の出席番号が同じ「5番」だったので、隣同士の席になった。

 そして私たちはすぐに仲良くなった。

 彼女にとって運命とは残酷なものだ。



 中学では水泳部に入るつもりでいたが、先輩に勧誘されるまま柔道部に入部した。 


 最初の一週間はやさしかった先輩たちも、すぐに鬼となった。

 部活がこんなに苦しいものだとは思わなかった。

 毎日がクタクタだった。



 成績はビリから数えた方が早かった。

 英検4級にも落ちた。


 中間テストや期末テストの結果は男女別々に100位までが障子紙のような長い紙に、筆字で名前を書く担当の先生がいて、まるで高校入試の合格発表のように生徒たちが集まっていた。


 私は当然100番以内に入っているわけもなく、その結果を見ることはなかった。



 小学校の時の初恋の彼女から暑中見舞が届いた。

 そこには海の中で沈んでいるエンジェル・フィッシュが描かれ、「負けそう」と書かれていた。

 彼女は10番以内だった。


 

 (俺の入れる高校なんてあるのだろうか?)


 

 私の中学生活は惨憺たるスタートだった。


 


第14話

 柔道はかなり強くなった。三年生の先輩にも勝つようになった。

 だが新人戦に出ると一回戦でボロ負けした。

 無謀にも小柄な私は無差別級を選び、試合の前日、部活の顧問の先生に「大外刈り」の特訓を受けた。


 対戦相手は130kgの巨体。私の前の対戦相手は鎖骨を折られて病院送りにされた。

 私は48kg。まともに戦っても勝ち目はない。


 こんな巨人に大外刈りなどでは倒せないと判断した私は、隙を突いて「巴投げ」を掛けた。

 掛かった。だがすぐに潰されてしまった。

 肋骨が折れるかと思ったほどだ。

 顧問の先生から酷く怒られた。



 そんなある日の事、市民会館で行われた会津女子高校の定期演奏会に誘われた。

 合唱とブラスバンドの演奏。


 素晴らしい歌声だった。合唱曲は今でも覚えている。

 合唱コンクールの課題曲、『レモン色の霧よ』と『エルベ川』

 まさか10年後、ドイツのエルベ川を訪れることになるとはその時思いもしなかった。

 だがそれ以上に驚いたのはブラスバンドのキラキラと輝く音楽だった。


 音楽「2」の私は翌日すぐにブラスバンド部に行き、入部を願い出た。


 ところが楽器はトライアングルをさせられた。

 私は言われるままにトライアングルを叩いて大笑いされた。


 翌日、私は顧問の先生にブラバンを辞めることを伝えた。


 「それならチューバはどうかしら?」


 そして大きなチューバを吹いてはみたが唇がすぐに腫れ上がってしまった。

 ベース楽器の難しさにすぐに挫折した。

 また翌日辞めると駄々を捏ねた。


 すると今度はユーフォニュームを勧められた。

 主旋律ではなく伴奏楽器に私は落胆し、顧問の40代の女性教諭に対し、


 「トランペットがやりたいです」


 と言うと、


 「トランペットは学校に楽器がないのよ。

 みんな自前の楽器なの」


 私はブラバンへの入部を断念した。

 とても親にトランペットを買って欲しいとは言えなかったからだ。

 


 すると1週間後、その先生はトランペットを持って来てくれた。


 「これ、息子のだけど吹いてみる?」


 私はそれを辞退した。

 先生の息子さんのトランペットを借りてまで吹くのは屈辱だったからだ。

 そのまま私は柔道に専念した。



 相変わらず成績は悪かったが野球、水泳、柔道、サッカーなど、スポーツが得意な私は意外に女子には人気があった。バカで性格も最悪だった、中身のないカスカスの私なのに。


 いつもカッコばかりつけていた。

 私と噂になる女子を片想いする男子たちからはいきなり襲われることもあったが、皆、返り討ちにしてやった。

 

 当時ハムクラブ(アマチュア無線)に入っていた私は、机に座って3年生の部長の話を聞いていると、いきなり後ろからヘッドロックされ、そのまま私はその男子を投げ飛ばした。


 「おいおい、ケンカは辞めろよ」


 と、余裕で笑っていた部長は前妻の兄、つまり、後に義理の兄になる、豊川悦司似の先輩だった。

 彼は大学生の時、紅白歌合戦の西城秀樹のバックダンサーをバイトでしていたほどのイケメンだった。


 自分が気に食わない奴にケンカを売るのも日常だった。

 

 ある日、私に絡んで来た奴を殴り付けたら親が学校に怒鳴り込んで来て、私は担任のブルドッグのような顔をしたオバタリアン先生に翌日、いきなり太い角材の角で頭を殴られた。


 「菊池、お前昨日〇〇を殴ったそうだな?」


 その教師はなぜそうなったのかの経緯も訊かず、私に制裁を加えた。

 私はただ黙っていた。何を言ってもどうせ無駄だと思ったからだ。

 私はいつの間にか勉強が出来ない暴力生徒のレッテルを貼られてしまった。



 そんなある日の夜、母親と妹と三人で懐中電灯で足元を照らしながら母の実家に向かって歩いていると、突然、ひらめいた。



    (数学って何がむずかしいんだろう?)



 私は数学が苦手だった。

 だがそのひらめきで私は変わった。

 冷静に考えれば中学の数学はただの暗記だったからだ。

 その日、家に帰った私は狂ったように数学の勉強を始めた。



     (この問題の何がわからないのだろう?)



 ひとつひとつ分からないことを調べていくと、簡単に理解出来た。

 みるみる数学の成績が上がり始めた。


 数学が分かるようになると勉強が楽しくなって来た。

 英語、理科、社会など、全てが楽しくなって、成績が良くなるとみんなから称賛されるようになり、更に成績が良くなった。


 そしてあの障子紙にも名前が乗るようになり、ビリから数えた方が早かった私の成績は1年生の終わりには急激に30位までになっていた。

 どんどん成績は上がり続け、最終的には学年で1,2位を争うまでになった。


 塾に行くことも出来ず、私はひたすら安い参考書や問題集を探し、すべての科目を同じノートにびっしりと書き連ねた。

 そのノートが教師たちの目に留まるようになり、評判にもなった。

 

 テスト問題が配布されると手が震えた。


    (また100点だ!)


 私のクラスはいいところの坊っちゃん嬢ちゃんが多かった。

 採点を終えた答案用紙が戻ってくる時、担任の教師は嫌そうに私と、後に医学部教授になったヤツの名前を呼ぶ。


 「100点だった者、菊池と〇〇」


 すると勉強熱心な男子とソイツが俺の答案用紙を目を皿のようにして採点ミスを探した。

 そしてちょっとした記入ミスでもあろうものなら、


 「ハイ! ここミス採点!

 先生、菊池君の採点、間違ってまーす!」


 と喜ぶ始末。

 ソイツ等は今、大手企業や役所、銀行員や大学教授になっている。


 みんな柔道の体育の時間で投げ飛ばし、復讐した。



 私は担任には恵まれなかっったが、他の教科の先生には恵まれ、目に掛けてもらった。

 武蔵野美大出身の美術の長嶺先生、英語の湯田先生、数学の三留先生にブラバンの新しい顧問になった音楽の大滝先生、社会の湯田先生。

 そして国語の和田先生。みんなが私に学問の面白さを教えてくれた。

 特に私に読書の楽しさを教えてくれたのが国語の和田先生だった。


 「菊池、何でもいいから一冊本を読んで感想文を書いてみろ」


 私は初めて本屋に行って自分で本を買った。

 一番薄くて安い本を買った。


 ディケンズの『クリスマスキャロル』


 夏休みの読書感想文の課題図書など買って貰えなかった私は、いつも夏休みの宿題は『夏休みの友』しかやっていかなかった。

 私は今まで本を読んだことがなかった。

 この本を読んだ時、面白くて一気に読んだ。


 感想文を書いて和田先生に提出すると、凄く褒めてくれた。

 和田先生はその読書感想文に花丸とコメントをもらった。

 

 私はそれが大変うれしくて図書委員になり、委員長に抜擢された。

 高校を出たばかりの新人の図書司書のお姉さんにも可愛がられ、彼女に横恋慕していた担任に、マジにブチ切れられたこともあった。

 卒業式当日、その図書の先生からボールペンとシャーペンのセットと、手紙を貰った。



 私は図書館に入り浸るようになり、たくさん本を読んだ。

 休み時間もみんなとバレーボールやサッカーもせず、ひとり教室の隅で本を読んでいた。


 ゲーテの『ファウスト』を読んだ時、自分も戯曲を書いてみようと思い立ち、原稿用紙70枚程度の戯曲を書き上げ、和田先生に持って行くと驚いてくれた。


 「これを菊池が書いたのか? 凄いなお前。

 これに歌を付けるといいと思うぞ」


 私がそれから小説や作詞、俳句に短歌などを書くようになり、コンクールで賞も受賞するようになった。


 私が物書きになれたのは和田先生のおかげである。

 中学1年の時、和田先生に出会えなければ私の楽しみはなかったはずだ。


 私が教職に携わる人に厳しいのは、その時の経験があるからだ。

 先生はその子供の将来を変える「聖職者」であることを忘れて欲しくない。


 「教師だって労働者だ。労働者に正当な権利を!」


 そんな人には教師になって欲しくはない。

 本来教師は凄く大変な仕事で、神聖な仕事だから。


 



第15話

 転任して新しくブラバンの顧問になった、音楽の大滝先生に呼び止められた。


 「菊池、お前、トランペットがやりたいんだって?

 やらせてやるからブラスバンド部に入れ」


 寝耳に水だった。

 なぜなら俺は、今だに音楽だけはやっと「3」になった程度で、ブラスバンドのことなどすっかり忘れていたからだ。



 「私はトランペットを持っていないので無理です」

 「学校で買ってやるから大丈夫だ。

 ここの校長は元音楽の教師でな? ブラバンにチカラを入れたいらしい。

 俺はそのためにここに呼ばれたんだ」

 

 うれしかった。

 私はブラスバンド部に入部することを快諾した。



 

 ピカピカの新品のトランペットを与えられた私は、いつもそれを大事に家まで持ち帰り、毎日唇が「なめかん」になるまでマウスピースでバジングの練習をした。


 新聞の番組欄でラジオやテレビのクラッシック番組をチェックし、NHKや『題名のない音楽会』などでオーケストラで吹く、トランペット奏者の演奏を齧り付くように見入っていた。


 私はいつも愛情を込めてトランペットを磨き続けた。トランペットは私の恋人だった。


 トランペットも作音楽器なので、そう簡単には音が出ない。

 ドレミファを吹けるようになるまで、1週間も掛かった。


 私は毎日毎日トランペットのことばかりを考え、練習に打ち込んだ。



 ブラバンの部員も増え、ドラムセット、ティンパニーや大きな銅鑼まで揃った。

 コンクールへの参加が決まった。


 「お前たちはまだレベルが低い。自由曲は速いテンポの曲にした。

 審査員たちも毎日同じような曲ばかり聴いてうんざりしているからな?

 誤魔化すには丁度いい」


 初めての曲は『ページェント序曲』に決まった。

 単純な曲でテンポは速いが、比較的初心者向きで聴きごたえのある珍しい曲だった。



 当時は土曜日も「半ドン」と言って午前中の授業があり、当然部活もあった。

 日曜祝祭日もなく、私たちは毎日夜になるまで練習を続けた。


 そして私のトランペットの上達に伴い、ブラバンもみるみるレベルアップして行った。

 その時初めて、音楽は指揮者で変わることを知った。

 それまでの私は、指揮者は「ただ棒を振っているだけの人」だと思っていた。

 曲を理解し、的確に各々の演奏者に支持を出して、指揮者独自の音楽を作り上げてゆく。

 ベートーヴェンの『運命』が、カラヤンとフルトベングラーでこんなにも違う解釈になると知ったのはこの頃だった。

 何しろ家にはレコードプレイヤーもレコードも、ラジカセもなかったのだから。


 それゆえ私は中学生の分際で、ブラバンと柔道部を掛け持ちすることになった。

 ブラバンが9で柔道が1の力配分にした。

 私は既に柔道に飽きてしまい、試合の1週間前にしか柔道部に顔を出さなくなっていた。

 音楽に夢中だった。


 今のようにYouTubeもない時代、音楽に関してド素人だった私は、楽典の勉強も始め、兎に角片っ端からインストルメンタルの音楽に触れるようにした。


 当時はポール・モーリアやレイモンド・フェーブルなどが全盛で、「ピアノの貴公子」リチャード・クレーダーマンも活躍していた。


 映画音楽が好きだった。

 フランシス・レイ、ニーノ・ロータ、ヘンリー・マンシーニなどの作曲家を始め、フルートのジャン・ピエール・ランパルや12弦ギターのナルシソ・イエペス、そしてトランペットのニニ・ロッソを知ることとなった。



 次第に新入部員も増えてゆき、いつの間にかブラバンは50名近くのビッグバンドになっていた。

 私もトランペットでファースト・ポジションを吹くまでになっていた。

 かつて音楽が「2」だったこの私がである。


 私を育ててくれたのは大滝先生であり、今は世界的な指揮者になった、東京藝大に進んだ「天才」のお蔭である。

 いつも出しゃばることなく、人望があり、いつもみんなから信頼され、愛されていた彼。

 

 彼は小学校の5年生からピアノを始めたという。

 そして彼はすべての楽器を演奏することが出来た。

 ゆえに曲の編成によっては彼がその不在のポジションを埋めていたのだ。

 まるで千手観音のように。


 スコアを見ると、勝手に音楽が鳴るのだとも話していた。

 楽譜を読めない私は、新しい楽譜を渡されると、一度それを彼にピアノで演奏してもらい、それを真似て吹いた。



 益々家に帰るのが遅くなり、勉強時間が削られた。

 私は家に帰るとすぐに食事を済ませ、テレビも見ずに風呂に入って眠るようにした。

 そして午前零時に起きて、深夜放送を聴きながら朝まで勉強する毎日だった。


 土曜の深夜のせんだみつおさんのエッチなラジオにはドキドキした。

 その頃からビートルズやビリー・ジョエル、ミッシェル・ポルナレフ、クイーン、カーペンターズなどの洋楽も聴くようになった。

 不思議と成績は更に良くなって行った。

 一日の睡眠時間は3時間ほどだったがとても充実していた。

 そしてその頃、2ヶ月に一度ほど、激しい頭痛に襲われたが病院に行くのが怖くてよく学校を休んだ。

 今思えば軽い脳卒中だったのかもしれない。

 その後、いつの間にか頭痛は消えた。



 フォーク全盛の時代だった。

 フォークギターが流行って、みんな学校の休み時間にはギターを弾いて歌っていた。


 かぐや姫、NSP、さだまさし、小椋佳、吉田拓郎、中島みゆき、風、松山千春、ふきのとう、青い三角定規など、アチラコチラの教室で歌声が響いていた。


 フォークギターなどとても買えない私は、叔父から古いガットギターをもらった。うれしかった。


 叔父はよく東京へ出稼ぎに行っていた。

 声の大きな人で人情味のある人だった。

 娘しかいない叔父は、私を息子のようにとてもかわいがってくれた。

 川釣り、キノコや山菜採りにも連れて行ってくれた。

 酒とタバコで声は濁声、でもそれが演歌を歌わせるといい味になっていた。


 都会の工事現場での仕事を終えると銭湯に行き、飯場近くのスナックに飲みに行って歌っていたそうだ。

 ぴんから兄弟の歌真似が上手で、特に『なみだの操』には定評があり、常連さんたちにせがまれて歌うと、よく酒代を奢ってくれたと話していた。


 私の家にもたまに遊びに来て、仕事のない日は昼間から酒を飲んでいた。

 叔父がトイレに行くと、いつも和式の水洗トイレの周りが叔父のオシッコでビシャビシャになってしまった。


 「まったくいつもこうなんだから! 兄さんは!」


 と、母がよく文句を言いながら掃除をしていたのを思い出す。



 私が朝、中学へ登校する時は大変だった。

 ずっしりと重い肩掛けの布鞄、そして片方の肩にはランチ・ジャーを掛け、右手にはトランペット、そして左手にはギターと腕には柔道着をはめていた。

 父はそんな私を見て、「まるでチンドン屋だな?」と笑っていた。



 1年も終わり、中学2年になった時、初恋だった女の子が転校することになった。

 私は残っていたお年玉をかき集め、彼女に小さなオルゴールを買ってプレゼントした。


 何度か文通もしたが、そのうち彼女からの手紙が途絶え、文通は終わった。

 風の噂では付き合っている男子が出来たと聞いた。


 私の初恋は、あっけなく終わってしまった。

 甘さの少ないレモンライムのような、苦くて酸っぱいだけの初恋だった。


 


第16話

 2年生になると、ブラスバンド部は金賞の常連校になっていた。

 あの弱小だったブラバンは、小学校での合奏や合唱の経験者、ピアノやエレクトーンを習っていたという新入部員たちも加わり、顧問の大瀧先生の的確な指導により、さらにレベルが上がったからだ。


 演奏する曲目も難度の高い曲目になり、『聖火と祭』『ディスコ・キッド』など、レパートリーは次第に増えていった。


 『ディスコ・キッド』は当時流行していたディスコ・ミュージックを吹奏楽用にアレンジしたもので、つん裂くようなピッコロから始まり、それにドラムセッションのタムタムの軽快なリズムが聴衆はもちろん、演奏している我々をも魅了した。


 『聖火と祭』は私たちトランペットが主役だった。

 スネアドラムを担当していた女子が、


 「菊池君たちのトランペットのファンファーレがあまりにも息がびったりで、思わずドラムを叩くのが遅れちゃったわ」


 と笑っていた。



 会津若松市民会館での吹奏楽コンクールでは、大太鼓やティンパニー、銅鑼、チューバなどの大型楽器をリヤカーに積んで演奏会場まで運んだ。

 それが当たり前の時代だった。

 

 中体連の野球部の応援にも駆り出された。

 真夏の炎天下で高校野球のブラスバンド部が演奏しているが、あれはかなりキツイ。

 定番の『巨人の星』やピンクレディなどを部長が編曲して、唇の感覚がなくなるまでトランペットを吹き続けたものだ。

 高校に入ってもブラバンを続けて、アルバイトでカネを稼いでヤマハのプロモデル、銀メッキのトランペットを買うのが私の夢だった。

 そのトランペットを磐城高校の人が吹いていて、その美しくやわらかな音色に私は驚いた。


 「それ、いくらするんですか?」

 

 と訊くと、


 「30万。バイトして買ったんだ」


 とその高校生は答えた。

 音楽は技術が向上すれば後はいい楽器で演奏するしかない。

 特にバイオリンなどがそうだ。

 10万円のバイオリンより、数億円もするストラディバリオスで演奏するのはバイオリニストの夢だ。

 

 全国大会で金賞を取るような学校は、練習で使う楽器と本番で使う楽器が違うという学校もあった。


 音楽をやるにはカネが掛かる。

 音大を受験するにはその大学の実力者に毎週個人レッスンに通わなければならないという。

 音大受験を目指している同級生からそんな話を聞いた。

 音楽はある意味「金持ちの道楽」であることは否めない。

 だが私はそんな音楽の虜になってしまっていた。



 そんな時、三者面談があり、めずらしく父がやって来た。

 面談内容は今後の進路についてだった。


 「お父さん、息子さんは当然会津高校から大学進学ということになりますよね?」

 「いえ、息子は大学には行かせません」


 私は「眼の前が真っ暗になる」とはこういうことを言うんだと思った。

 大学に行って植物学者になり、同時に絵本作家になるのが私の夢だったからだ。


 「それでは若松商業はどうでしょう? 息子さんなら一番でいられるでしょうから、将来的に就職も、日銀に学校推薦がもらえるようですから」


 私のことを快く思っていないこの担任は、


 (ざまあみろ)


 という顔で私を見ていたのを私は今も忘れてはいない。

 「高卒で日銀に入ってどうするんだ」と、私は無神経なその担任を睨みつけた。

 学年で1番、2番を争っていた私が高卒? 私は酷く落胆し、父親を恨んだ。

 私の志望校は若松商業高校の情報処理科になった。

 今までの努力はすべて水泡に帰した。


 進学校を受験するクラスメイトたちは歓喜した。


 「それじゃあ会津高校は受けないんだね?」

 「どこの高校にするの?」


 私は必ず金持ちになってコイツらを見返してやりたいと思った。



 学校の掲示板に自衛隊工科学校、東電学園、そして富山商船高専の募集ポスターが貼られていた。

 初めは自衛隊を考えたが友だちから反対された。

 

 「自衛隊に行ってどうするんだ?」と。


 自衛隊と東電学園は給料を貰いながら勉強が出来た。

 それは魅力だった。カネが欲しかったからだ。


 地元の高校に行きたくなかった私は、高専という選択肢があることを知った。

 福島工業高専に行く気はなかったが、東京都立航空高専には興味があった。

 だが東京で下宿生活をするような資金的余裕はなかった。

 富山商船高専は全寮制で学費も高校よりもはるかに安かった。

 別に船乗りに憧れたわけではない。ただ我が子を大学にもやれない親と一緒に暮らすのが嫌だった。

 私は何も考えず、富山商船高専を受験することを決めた。


 


第17話

 大学に行けない私に残されたチャンスは富山商船高専に合格することだった。

 故郷の会津を離れ、見知らぬ富山で生活するしかなかった。

 船は小学校の修学旅行で乗った、松島の遊覧船しか知らない。

 そんな私の船乗りのイメージはと言えば、和製ジェームズ・ディーンと呼ばれた、赤木圭一郎の『霧笛が俺を呼んでいる』の映画でしかない。

 カッコはいいが古臭い地味な仕事の印象でしかなかった。


 取り敢えず過去の入試問題を見てみると、結構難しかった。

 私は受験勉強に励んだ。

 


 バレンタインデーが始まったのはその頃だった。

 萩原健一がCMをしていたチョコレート、『デュエット』なども登場した。

 両手に抱えるほどチョコを貰った。

 家にそれを持ち帰ると妹から褒められた。


 「お兄ちゃん凄いね?」

 「食べるか?」

 「うん」


 妹は小学校1年生だった。


 断っておくが私はマッチやトシチャン顔ではない。

 ましてや郷ひろみや西城秀樹でもない。

 中学生なのに同級生のお母さんたちからは「北大路欣也」と呼ばれていた。

 「菊池君って北大路欣也に似てるわよね?」


 微妙である。

 あおい輝彦とか、既にヒゲが濃かったので巨人軍の「柴田」と揶揄する奴もいた。


 他校の女子からもチョコを貰ったが私はその本人を知らない。

 その友だちだという後輩の女の子が私の似顔絵(?)を添えてチョコを届けてくれた。


 坊主頭の私が金髪のサラサラヘアで目はブルー。

 外人のように描かれていた。

 少女漫画の主人公のように。


 チョコをくれた女の子と交換日記をすることになった。

 何を書いていいのかわからなかった。

 交換日記は1週間ほどで終わった。



 高専の入試は一番早かった。

 私は仙台の試験会場で受験することにした。

 仙台には父の姉家族がいたので前日に泊めてもらえたからだ。

 叔父は大きな郵便局の局長をしており、戦時中は海軍経理学校を出て主計中尉だったそうで、商船士官になろうとしている私を好意的に応援してくれた。

 従兄弟は一人息子で、仙台一高から早稲田大学の法学部を出て銀行に就職した秀才である。

 「書斎で試験勉強するといいよ」と言われ、書斎部屋に入って驚いた。

 凄まじい蔵書に8帖の部屋の壁が埋め尽くされていた。

 まるで図書館だった。

 そのうちの二割が洋書で、ドイツ語の法学書も多数あった。

 文庫本も多くあり、寝る前に一冊読むのが習慣になっていると言っていた。



 その日の夕食時、私は従兄弟からアップル・ブランディーを沢山飲まされ、全然最後の詰めの勉強が出来なかった。


 「試験の前日は寝るのが一番だよ」


 と従兄弟は笑っていた。



 試験は無事終わり、筆記試験は合格することが出来た。

 筆記試験に合格すると次は富山の本校での面接試験になる。



 二次の面接試験のために父が富山まで付き添ってくれた。

 学校が斡旋してくれた、学校の近くにある「鯰鉱泉」という古い旅館に他の受験生たちと一緒に雑魚寝した。


 全国から受験生が集まっていたが、その中で学生服の裏に龍と虎の長ランを着ている者が数人いた。

 目地目な秀才タイプから、地元では暴走族に入っているというリーゼント頭の者もいた。

 少し気がラクになった。


 (誰でも受かるのかな?)



 私の面接官は父親くらいの年齢の教授だった。

 高専では先生を教官と呼ぶらしい。

 そして助手、講師、助教授、教授がいることを知った。



 「菊池君はなぜ本校を受験したのかね?」

 「はい! 船乗りはとても辛くて厳しい仕事だとは思いますが、それに挑戦してみたいと思ったからです!」


 と、私が答えると面接官の教授は笑った。


 「あはははは 船乗りは辛いことばかりではないよ」


 ほっとした。私があまりにも緊張しているのをみて教授は私をリラックスしてあげようと思ったようだ。

 その教授はジャイロコンパスなどの舶用計器の権威で、後に私の結婚式でスピーチをしていただく関係になるとは思いもしなかった。



 

 中学に戻って1週間が経った頃、担任が教室に来て、いきなり黒板にチョークで大書した。



    菊池 富山商船高専 合格

    おめでとう!


 「凄えなあ!」

 「よかったね! 菊池君!」


 うれしかった。

 うれしかったが富山の遠さを実感した私は、取り敢えず若松商業高校も受験するつもりだった。

 どっちに進むかはその時また考えようと思ったからだ。



 その後、担任に呼ばれた。


 「よかったな菊池。合格出来て」

 「はい・・・」


 私は担任がキライだった。

 すると担任は信じられないことを言った。


 「若商は受験するなよ。もう合格したんだから」

 「えっ?」

 「話はそれだけだ」


 私はその意味をすぐに理解した。

 私が受験を辞退すれば合格枠が1つ空くからだった。

 

 私はその担任を心の底から憎んだ。



 だが他の先生達は私に同情的だった。

 ビリから数えた方が早かった貧乏人の私が、先生たちも称賛してくれるほど「菊池の奇跡」と言われ、成績も良くなった私が今度は会津を離れ、中学を出て全寮制の富山県の学校へ行くことを気の毒に思い、励ましてくれた。


 ある先生は授業を潰して、自分の大学時代の寮生活の話をしてくれた。


 「いいか菊池、寮生活は大変だぞ。

 〇〇先生、あの先生は寮での先輩でな? いつも俺たち下級生にメシを運ばせて布団の上でメシを食っていたんだ。

 苦労はするかもしれんががんばれ。お前ならやれる」


 私は先生に感謝した。

 


 

 ウチのクラスはひとりだけ高校に進学出来ない女子がいたが、全員第一志望に合格した。

 担任は同僚の先生たちや父兄から褒められた。


 私は合格して当然だと思っていた。

 なぜならその教師は生徒の希望は訊かずに、合格出来る高校に振り分けていたからだ。

 進学校に合格した連中は勝ち誇っていた。



 

 富山に発つ日、会津若松駅にひとりの女の子だけを残してクラスのみんなが見送りに来てくれた。

 クラスのみんなの寄せ書きと一人ひとりにインタビューをしたテープ、そしてPARKERの万年筆を貰った。


 私は不安を胸に、父とふたりで磐越西線の鈍行ティーゼルに乗って富山商船高専の入学式へと向かった。

 



第18話

 ネイビーブルーの制服と制帽。海軍兵学校を彷彿とさせるような入学式だった。

 入場行進曲は寮歌を編曲したものらしく、出だしがトランペットのソロだった。

 

 会津の中学とはまるで違う雰囲気に、私は圧倒された。

 教職員の品位と品格。在校生もみんな賢そうな顔をしている。

 私は安心した。「いい学校で良かった」と。

 だがそれは嵐の幕開けでもあった。


 新入生は北は北海道の稚内から、南は九州の熊本からも来ていた。

 ほぼ全国から船乗りを目指して集結していた。


 生徒会長や学級委員長だった者や、リーゼントにキメた暴走族に元番長。

 同志社中学卒のエリートもいた。実にバラエティーに飛んだメンバーだった。

 後で知ったことだが、その時の競争率は0.96倍だったらしい。

 漢字で名前が書ければ合格出来るレベルだった。


 航海学科はAクラスとBクラスの2クラス。そして機関学科の各々40名。1学年は合計120名だった。


 同じ高専でも商船高専には独自の教育システムがある。

 普通の工業高専は5年制であるが、商船高専は座学が4年半、そして最後の1年間は運輸省航海訓練所での東京商船大学、神戸商船大学と一緒に実習航海がある。

 卒業すると甲種二等航海士の筆記試験が免除され、口述試験のみ受験すればいい制度になっていた。

 然るに卒業式はアメリカのように9月末日となる。



 入学式を終え、父が言った。


 「じゃあ俺は帰るからな? カラダに気を付けてな?」


 もう五月連休までは帰省出来ないと思うと心細くなった。



 商船高専は全寮制である。

 どんなに近くても全員寮生活をする決まりだった。船内生活での協調性を学ばせるためだった。

 寮も学校もすべて土足の西洋式だった。


 生徒数は少ないが、運動部は全国高専大会で優勝するところが多かった。

 硬式テニス、サッカー、バスケット。柔道にラグビー、野球などが強かった。

 部員が少ないのですぐにレギュラーである。

 特にラグビー部は別格だった。

 富山大学と試合をすると120対0。相手にならないほどのウチは強豪チームだった。


 中学で柔道をしていたので柔道部から誘われたが不動禅少林寺拳法部へ入部した。

 格闘技系はボクシング部、空手部、金剛禅少林寺拳法部と不動禅少林寺拳法部があった。

 その他、同級生からも恐れられていた先輩がに創設した「格闘技同好会」という「闇の」同好会もあった。

 空手部は極真カラテで、ウチの不動禅少林寺の先輩たちとも仲が良かった。

 

 空手部の先輩が部に遊びに来ると、「金剛禅のヤツ、ブチのめしに行こうぜ」と嗤っていた。

 当時の極真で黒帯になるには10人抜きの組手の真剣勝負が最低条件だった。

 茶帯でも相当尊敬された。

 不動禅も5年間やった先輩でも黒帯がいないほどの過酷な団体だったが、金剛禅少林寺憲法はすぐに黒帯が貰えるからバカにしていたのだった。

 新入生は誰も入部しなかった。


 文化部も盛んで私は茶道部、情報処理同好会、そしてブラバンにも入ったが、茶道部は1日で辞めた。

 ブラバンでは歓迎された。

 何しろ経験者は私だけだったからである。

 流石は国立、楽器はすべてヤマハのプロモデルだった。



 1年生から5年生までの全寮制である。恐ろしい「カースト制」だった。

 5年生は神様、4年生は貴族、3年生は平民で2年生は奴隷、そして私たち1年生は「家畜」であった。


 日曜日以外、1年生は朝6時起床、22時点検、そして就寝となる。

 朝起きるとすぐにボンク(ベッド)の布団を規定通りにきちんと畳んでグランドへ飛び出して整列し、ラジオ体操とランニングをする。

 その後、校歌と寮歌を先輩から教えて貰った。

 空高くひばりが囀っていたのを思い出す。

 


 1年生は地獄だった。

 特に風呂掃除当番は酷かった。

 デッキブラシの端と端を持たされ、上半身ハダカで号令を掛けながら行う。

 意地の悪い2年生の先輩からは洗面器で水をぶっかけられながら、セメントのようにドロドロのクレンザーをこすらせられ、朝飯も食べさせてもらえずそのまま授業へ行かされた。


 夜は更に恐怖だった。

 1年生は一寮棟の3階と4階で、3年生、4年生の二寮棟と向い合せに建っており、1年生はカーテンを閉めてはいけない二人部屋だった。

 すると3年生様からお呼びが掛かる。


 「おい! お前だお前! 左から3番目の部屋のお前だよお前!

 ダッシュで来いよダッシュで!」


 遅れたら大変である。全力疾走で先輩の部屋へ。

 廊下には恐ろしい先輩たちがたむろしており、皆さんへご挨拶。

 

 「おやすみなさい。おやすみなさい」


 すると、


 「さっきの1年子、挨拶して行かなかったなあ」


 すぐにバックして、よく聞こえるように「おやすみなさい!」と絶叫する。

 すると私を呼んでいた先輩が登場し、


 「ワリイワリイ、コイツに用事頼んでんだ」

 「そうか?」

 「おい、デッキ(航海科)3Bの〇〇のツケで餃子ライスと焼きそば、そしてコーラ1リットルとセブンスター。ダッシュで行って来い」

 

 それを復唱して再び全力疾走。

 

 「デッキ1A、菊池、入ります!」

 「おうご苦労さん、お前もコーラ飲んでけよ」

 「ありがとうございます!」


 すぐに飲み干して帰ろうとすると廊下にズラリと上級生。


 「おういいところに来たな? エンジン(機関科)3年の〇〇のツケでソーセージ炒めライスと・・・」


 それが何回かあり、部屋に帰るのは深夜の2時、なんてこともザラだった。



 勉強についていけない奴、寮生活に馴染めない奴が10人近く辞めた。

 赤点は60点。一教科でも赤点だと容赦なく留年となる。

 

 高専は高校ではない。1年生から高校の三年生レベルの授業がある。

 教授、助教授、講師がそれぞれ授業を受け持つが、教官は皆有名大学院卒の一流講師陣だった。

 特に高専の数学は大学レベルで、教科書も『高専の数学』という特別なものだった。

 中学の数学は得意だった私も愕然とした。

 数学的論理思考と発想がないと解けない物ばかりだったからである。

 一般教科は生物以外すべてあった。

 1学年では倫理社会、政治経済、地理、代数幾何、解析?、物理、化学、地学、保健体育、音楽、美術、英語?、英語?、商船原論、操艇通信、武道まであった。

 その他国語、日本史、世界史、外人講師による英会話に古典。

 てんてこ舞いである。


 そして2回留年すると強制退学となる。

 故に先輩が同級生になったり、下級生になることもあった。

 そして3年生で大学受験をする奴もいて、卒業出来る頃には入学時の3分の1になっていた。

 



第19話

 寮生活は大変ではあったがいいこともあった。それは「平等」だと言うことだ。

 金持ちの家の学生も、私のような貧乏人の学生も、皆ハンデはなかった。

 言うなれば同じ釜のメシを食べる「家族」だった。

 全国から学生が集まるので、様々な方言が飛び交う。

 面白いことに、学校ではなぜか「関西弁」が主流だった事だ。

 関東や東北の人間とは違い、関西人は自己主張が強いので、つい引っ張られてしまう。



 寮に入って1週間が過ぎた頃、寮の掲示板に「本日19時より学寮総会である」と貼紙がしてあった。


 「学寮総会って何をするんだ?」

 「上級生に訊いてもただ笑っているだけなんだよ」

 「イヤな予感がするな?」


 その予感は見事に的中した。

 1年生から5年生までが一同に食堂に集まる。だが4年生以上になると出席は疎らだった。

 そんな会議に出るよりも遊びに行ったり、海技士資格の受験試験の勉強をした方がいいからだ。


 本校の寮は学生の自主性に任せた自治寮であった。

 学寮会長をはじめ、学寮会役員は頭脳明晰で男前、弁舌爽やかな若手政治家のようだった。

 流石は将来の国際航路の商船士官を育成する学校だと思った。 


 簡単な行事報告や改善項目が報告され、「以上で学寮総会を終了する」と学寮会長が宣言し、私たちは安心して帰ろうとした時、「本題」が始まった。


 「おい待てや! 先日、廊下ですれ違っても挨拶しなかった1年子がおったなあ!

 お前だお前! お前ら全員連帯責任じゃ! テーブルを片付けて正座じゃ!」

 「正座正座! 早よ座らんかい!」

 「モタモタすんな!」


 上級生が一斉にテーブルをバンバン叩く。

 食堂のテーブルを片付けて、我々1年生はコンクリートの床に正座をした。


 永遠に続く説教。

 柔道部で正座には慣れていた私でも、冷たくて固いコンクリートでの正座は堪えた。

 もう限界かと思われたが、誰も足を崩す者はいない。

 そうすれば鉄拳制裁が待っているからだ。

 説教は一時間にも及んだ。


 「いいかお前ら! カッコいい我が校の制服を着て、バスや電車で座ってんじゃねえぞ!

 若いんだから席は他の人に譲れ! いいな!」

 「はい!」

 「それから街で上級生に会ったら、まず5m手前で立ち止まって敬礼し、上級生が3m過ぎるまで敬礼を続けるんだ! 分かったな!」 

 「はい!」


 そして少しでも態度の悪い1年生は、2年生の個別指導を受けることになる。

 そんな学寮総会は毎月行われた。

 とんでもないところに来たと思った。

 


 部活も凄かった。空手部や不動禅はまだ4月だというのに、空手着を来て裸足で公道をランニングする。

 そしてそのまま海に入っての稽古。

 はじめて砂浜を走らせられた時、砂に足を取られて走りにくいことを知った。

 ダートを走る競走馬の気持ちがよくわかった。


 「風邪を引いたので部活を休ませて下さい」などと言おうものならすぐに先輩が部屋までやって来て、


 「風邪なんか部活をすれば治る」


 そんな毎日だった。




 寮のすぐ隣には『帆志ほし』という自宅を改装した小さくて小汚い食堂と、すぐ近くに『やすらぎ』という大衆食堂があった。

 『帆志』は婆ちゃんオーナーだった。

 中々の商売上手で、学生に特化したメシ屋をやっていた。

 お客はすべて本校の学生のみ。

 アルバイトに学生を使い、婆ちゃん女将はただ学生としゃべるだけ。

 調理も会計もすべてバイト学生にやらせていた。

 そこはツケで食べることが出来た。

 注文した物と何年何組の誰それと、新聞広告の裏に名前と買った物を書くだけで精算は月末。

 取り立ては恐ろしい上級生なので踏み倒すことは出来ない。

 成人した学生もいるので酒もタバコも置いてある。(その当時は成人してもしなくてもいい時代ではあった)

 豪快な先輩になると、日曜日には奥の客間で昼間から瓶ビールを1ダースも飲んでを飲んで、


 「お前、つまみが食いてえか?」

 「はい」

 

 するとその先輩は言うのだ。


 「ビールはキリン、すまみはSAPPORO」


 死ぬ気で飲んだ。


 女将は商売上手である。大したメニューはない。

 学生でも作れる物ばかりだった。

 魚肉ソーセージを塩コショウで炒め、そこにマヨネーズを掛けただけの「ソーセージ炒めライス」や鯖の缶詰を開けた「サバ缶ライス」とか、冷凍餃子を温めただけの「餃子ライス」や「コロッケ・ライス」 「目玉焼きライス」に具なしの「やきそば」などが200円から300円くらいで売られていた。

 学生が買える金額に合わせたメニューだった。

 だがメシだけは美味かった。富山の名産である『ササニシキ』を使っていたのでおかずは何でも良かったのだ。

 皿は衛生面と洗うのが面倒なので、ビニールを敷いた発砲スチロールの皿を使っていた。

 餃子やコロッケは熱いので、よくビニールが溶けていた。

 それでも腹を空かせた育ち盛りの私たちにはご馳走だった。

 寮生は500人近くがいたので、最低でも一人当たり月平均1万円は使うので、月の売上は500万円にはなる。

 学生がいない夏休みや冬休み、春休みには、女将は海外旅行に出掛けていた。

 だが「がめついババア」ではなかった。いつも豪快に笑っている、学生好きなひとり暮らしの婆さんだった。


 一方の『やすらぎ』食堂はラーメンやカレー、カツ丼もあったが味はイマイチだった。

 頼めば「イカ刺し」とビールも出してくれた。

 


 初めての5月連休が近づいて来ると、私たちは時刻表ばかり眺めていた。


 「ああ、早く帰りてえなあ」


 が私たちの口癖だった。



 制服を着て初めての帰省。故郷への凱旋である。

 母と妹は少し大人になった私を喜んで迎えてくれた。

 母は私の好物だった「中華そば」を作って待っていてくれた。


 妹に土産を渡し、母に礼を言った。

 

 「やっと親のありがたみが分かったよ。ありがとう、おふくろ」


  

 私が長旅で疲れて寝ているところへ父が帰宅し、母から私のその話を聞いて、父が涙を溢していたと聞いた。

 親に心配と迷惑を掛けて勉強させて貰っていることに私は感謝した。


 連休中にクラス会があった。すっかり変わった私に同級生は興味があったようだった。

 

 あっと言う間に休暇は終わり、あの地獄の寮生活に戻る日がやって来た。

 正直、富山に戻りたくないと思った。

 でもせっかく親に無理をさせて通わせて貰っている学校だから、辞めるわけには行かない。

 母が駅まで送ると行ってくれたが辞退した。弱い自分を見せたくなかったからだ。

 私は自分に鞭を打って富山へと戻って行った。



 寮に帰ると、数人が帰って来なかった。

 毎年のことだと上級生は笑っていた。




第20話

 「家畜」としての一年生の寮生活は過酷だったが、学校の前がすぐ海であり、私はすっかり海に魅了されてしまった。

 周囲を山に囲まれた会津盆地で育った私には、何もかもが新鮮だった。

 日本海に沈む夕日を見ていると、寂しさも、嫌なこともすべて忘れることが出来た。


 友だちも出来た。何でも話せる親友が。

 日本全国、様々なところからやって来た仲間から、色んなことを教えられた。

 ファッションから音楽、食べ物や思想、文化、そして文学。

 

 「それ、何を髪につけてんだ?」

 「ヘア・リキッドだよ。これで髪を整えるんだ。ほら、菊池も使ってみろよ」


 初めてヘア・リキッドを見た。いい香りがした。

 私は早速資生堂『VINTAGE』のヘア・リキッドを買った。



 神戸の友だちと街に出て、ラーメンと餃子を食べた。

 ハイセンスな神戸から来た友人は、私の師匠だった。

 育ちの良さとずば抜けた実行力のある男だった。

 私のように目的もなく入学した学生とは違い、彼にはカーフェリー、『サンフラワー号』のキャプテンになるという、明確な夢があった。


 友人はラー油と醤油、そして酢を入れて餃子のタレを作って食べていた。

 私は小学校二年生の時から母と餃子を作っていたが、外で餃子を食べたことがなかった。

 家で餃子を食べる時は、とんかつソースとゴマ油で食べていた。それが餃子の食べ方だと信じていた。

 餃子をラー油と酢醤油で食べることをその時初めて知った。


 思えば子供の頃から、外食と言えばデパートの食堂で食べる、カレーかミートソースの二者択一だった。

 父はテーブルに置いてあった、10円を入れてレバーを回すと出てくる、柿ピーをつまみに瓶ビールを飲むだけで、食事を頼むことはなかった。

 お子様ランチは贅沢品だと思い、親にねだったことはない。

 


 小学校一年生の時、父がボーナスを多く貰ったお祝いにと、生まれて初めて寿司屋に連れて行ってもらった。

 その時、握り鮨の旨さに感動した私は、お替りを申し出たか親に黙殺され、代わりに「かんぴょう巻き」を食べさせられた。

 富山に行って、世の中には美味い物が沢山あることを知った。

 特にカツカレーには感動した。


 「こんなに美味しい食べ物があるんだ!」


 と思った。


 毎月の仕送りは限られていたので、そう贅沢は出来ない。

 それでも離れて暮らす息子のためにと、父と母は懸命に働き、私の学費と仕送り、そして毎月、ダンボールに一杯の食料や衣服を送ってくれた。

 親のありがたさを知った。



 よく友だちと海に出掛けた。防波堤に座り、「浜缶はまかん」をした。

 「浜缶」とは海辺で飲む缶ビールのことである。

 海の前に老婆がひとりで営む小さな萬屋よろずやがあり、そこで一本の沢庵と缶ビールを買い、沢庵の回し食いをしながらビールを飲んで、みんなでボーっと海を眺めていた。

 

 未成年の私たちはタバコを吸い、酒を飲んだ。

 ZIPPOライターでカッコよく火を点けるのが流行りだった。

 ビールは苦くて美味いとは思わなかったが、何しろ成人している上級生も同じ寮なので、強制的に酒を飲まされていた。

 酒もタバコもやらに奴は男じゃないと思われていた。

 商船大学ではビールの一気飲みだけではなく、コップ一杯の醤油の一気飲みもあったらしい。腎臓がやられてしまう。

 毎年のように急性アルコール中毒で救急車が来ていたそうだ。

 当時の船乗りは「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」と教えられたが、頭脳明晰、酒にタバコは当たり前、女にモテて、喧嘩が強くなければ商船士官ではないと思われていた。

 アメリカのハードボイルド小説家、レイモンド・ソーントン・チャンドラーは言う。


      タフでなければ生きては行けない

      やさしくなければ生きている資格はない


 まだガキだった私は、そんなカッコいい男になりたかった。

 

 コークハイ、オレンジジュースを『樹氷』で割ってスクリュードライバーだと言ってよく飲んで吐いた。

 当時はそれも修行のウチだった。強くなるために泣きながら酒を飲んだ。



 夜、22時の就寝前の点検が終わり、寮を抜け出して私たちは5、6人でバスに乗り、新湊市内のスナックに飲みに出かけた。

 16歳である。「集団就職で田舎から出て来ました」と言うと、地元のおじさんが酒を奢ってくれた。

 サントリー・オールドの水割りを飲んで、カラオケを歌った。


 週末になると友だちと連れ立って近所のスーパーで酒とつまみを買い、こっそり寮の部屋で酒盛りをした。

 当直教官に見つかったら停学である。足音にドキドキしながら電気を消し、懐中電灯で酒盛りをした。


 酒が入ると饒舌になり、自分の境遇の話もした。

 親のことや兄弟のことなど、とても中学の同級生に話せないことを泣きながら話をした。


 その友人たちとは今でも付き合いがある。

 というより、私たち商船学生は何十年疎遠であろうと、再会すればすぐに学生時代の親友に戻ることが出来た。

 義兄弟だった。



 学園祭は3年に一度だったが、学寮祭は毎年あった。

 寮祭に来る女子は先輩の彼女たちが殆どだった。


 色んな催しがあった。映画にコンサート、ディスコなどもあった。

 映画は『仁義なき戦い 広島編』だった。ウチの学校らしいと思った。

 歓楽街でヤクザに因縁をつけ、ビール瓶で頭を殴りつけてくるような先輩たちである。

 寮に暴走族が来たことがあったが、ある先輩の一声でみんな引き上げて行ったほどである。

 その方面では一目置かれていた学校だった。


 富山女子短期大学の学生がアンサンブル・コンサートを開いてくれて、その時初めて『G線上のアリア』を聴いて泣いた。


 (なんて美しい音楽なんだろう!)


 

 夜は体育館でディスコ・パーティだった。

 一年生の私たちは誰も踊れず、壁際で固まっていると、


 「一年子! 踊らんかい! しばくぞコラッ!」


 しばかれたくはないからタコ踊りをした。

 ディスコなんか行ったことも踊ったこともなかった。



 自校の練習船「若潮丸」という、300トン程の船で富山湾を日帰り実習航海をした。

 船に乗るのは初めてだったので、船酔いが心配だった。


 案の定、本船が岸壁を離れてすぐ、船酔いをしてしまった。


 「これで酔うなんて、運輸省の航海訓練所の帆船日本丸でハワイだなんて、絶対に死ぬよ」


 と、舷側から顔を出して、吐きながら友人たちと話しをした。


 寮に帰っても、まだ体が揺れている感覚があった。


 「三年生になったらここを辞めて、陸上自衛隊に入隊するしかない」と真剣に思った。



 何人かが学校を去って行った。

 ホームシックになった奴、勉強についていけなかった奴、寮生活に馴染めず、先輩から目を付けられた奴など、様々だった。

 中学から暴走族だった面白い奴がいた。


 「喧嘩ってえのはなあ、死ぬまでやるんだでえ」


 と、いつもツッパっていて、リーゼントをポマードでバッチリと固め、トカゲの革製の先が尖った靴を、彼の父親とお揃いで履いている奴だった。


 売店で販売していた英文で解説が書かれた、レーダー・プロッティング・シートを見て、


 「こんな凄えことやってんだぜってダチに見せてやりてえなあ」


 と言って、いつの間にかいなくなっていた。

 アイツは今、孫と遊んでいるのかもしれない。好々爺こうこうやになって。

 

 イヤになったら辞めればいいという連中は恵まれている。

 俺は辞めるわけにはいかなかった。




第21話

 初めての夏休みが近付いていた頃、また学寮総会があった。

 

 5分程で決定事項の通達が終わり、すぐに1年生に対する説教が始まった。


 「早くテーブルを片付けんかい! もたもたすんじゃねえ! バンバン(テーブルを叩く音)」

 「正座じゃ! 正座!」


 まるでこれからプロレスやボクシングの試合が始まるような、凄まじい雰囲気だった。

 もし今、こんなことをすれば大問題になるだろう。ハラスメント?


 めずらしく5年生の中から、我々1年生に対して無茶苦茶な要求を言う者がいた。

 チュッパチャップスを舐めながら、一緒に会議に出ていた数人の5年生もそれに同調していた。

 5年生は夏休み開けには運輸省航海訓練所で1年間の航海実習へ出る。

 そんな5年生が弟のような1年生を相手にするようなことは異例だった。


 私たちは「早く終わらねえかなあ」と思っていた。

 足の痺れも限界だった。

 その時、4年生の学寮会長が立ち上がり、上級生であるその5年生たちに向かって抗議したのだ。


 「それはちょっとおかしいんじゃないですか! コイツら1年生は十分頑張ってますよ!」

 「浅水! お前はコイツらをかばうんか!」


 学寮会長の浅水さんはそれでもひるまなかった。凄い人だと思った。

 自分に何の得もない、上級生から物凄い叱責を受ける覚悟で、私たちを守ろうとしてくれた。

 感動して私は泣きそうだった。

 おとことはこういう人を言うんだと思った。

 学寮総会は終了し、学寮会長はその5年生たちの部屋を周り、頭を下げて回ったらしい。

 みんなの前で恥を掻かせてしまったことへの謝罪だったはずだ。

 私もこんな漢になりたいと思った。自分の信念に、正義に恥じない生き方をする強い人間に。



 「学寮会長、カッコよかったよなあ」

 「あの後、大丈夫だったのかなあ?」


 私たちは寮の部屋戻りながら、気分はかなり高揚していた。

 あの時の光景は今でも忘れることが出来ない。



 同室の友人と部屋に戻ると、2年生がやって来た。

 あまり好きじゃない2年生だった。

 そして友人に、例の如く私用を命じたのである。


 「おう、悪いけどよお、焼きそばとコロッケライス、それからコーラとショッポを買って来てくれ」

 「あっ、はい」


 そしてその2年生が部屋を出ていくとすぐ、友人は言ってしまったのである。言ってはいけないことを。


 「悪いと思ったら頼むんじゃねえよ」


 (マズい!)


 私はその2年生に聴かれたと思った。

 案の定、その上級生はそれを聞いていた。

 そして私たちの部屋に戻ってくると、さりげなく言った。


 「そんなこと言ってんじゃねえぞ」


 と軽く言って戻って行った。

 私たちはホッと胸をなでおろした。

 友人が、


 「それじゃ行ってくるよ」

 

 そう言って部屋を出ようとした時だった、2年生全員が私たちの部屋に向かって廊下を怒鳴りながら近寄って来るのが分かった。


 「オイ! どいつよお! ふざけた1年子は!」

 「どついたるで!」

 「早よ出て来んかい!」


 私たちは固まってしまった。

 そして部屋に入るとすぐに私は胸ぐらを掴まれた。


 「お前か! 「悪いなら頼むな」と言った奴は!」


 私は黙っていた。「私じゃありません」と言えば同室者を「売る」ことになるし、「そうです」とも言える勇気もなかった。私は学寮会長の浅水さんにはなれなかった。


 するとその上級生は言った。


 「そいつじゃねえ、それを言ったのはコイツだ」


 殴られるのかと思ったが、意外にも2年生たちは手を出さず、30分ほど恫喝をしただけで帰って行った。

 上下関係が厳しい分、上級生になるほど横のつながりは強固になって行くようだ。



 そして夏休みが空けると、その同室者は学校を辞めた。

 



 全国から学生が集まるので、県人会というのが四半期に1回ほどのペースで開催されていた。

 ただしその時は酒を飲むわけにはいかない。「茶話会」と言って親元を離れて生活している1年生を労うために、学校が菓子や飲み物の経費を負担してくれるからだ。

 当時の福島県人会は十数人ほどだった。

 真面目な先輩は少なく、バスローブにパンチパーマのラグビー部の主将や番長格のひとたちばかりだった。


 「困ったことがあったらいつでも言いに来いよ」


 と言ってくれた。心強かった。




 授業のカリキュラムも多く、試験範囲も広いので、中間や学期末の試験は大変だった。

 しかもレベルは高い。60点以下になれば留年になってしまう。


 だが運動部には全員が強制参加、寮の清掃に上級生の私用、勉強する時間は限られていた。

 それに育ち盛りで腹も減る。

 試験勉強に疲れると、仲のいい友だちの部屋に遊びに行き、


 「腹減ったあ~」

 「飯食いに行くか?」

 「うん」


 そして我々はちょっとだけという誓いを立て、『やすらぎ食堂』へ行くのだった。

 

 「おばちゃん! ラーメンとチャーハン」

 「カレーね」

 「俺はカツ丼!」

 「なあ、一本だけ、やるか?」

 「ああ、一本だけな? 明日は解析と国語、化学だからな?」

 「化学はヤバいらしいぞ。去年は3人留年になったそうだ」


 

 そして食事を終えて帰ると眠くなってしまう。

 私たちは屋上へ眠気醒ましに教科書を持って上がった。

 色んなことを話しているうちに東の空が明るくなり、いつの間にか朝になってしまう。

 そんな試験期間中だった。


 


第22話

 バイクやクルマを持っている上級生も多かった。

 ホンダCB、Kawasaki Z400、クルマは箱型ブルーバードや三菱ギャランGTOなどが人気だった。


 学生数が少なく、広いキャンパスは絶好の「自動車教習所」だった。


 ジャニーズみたいなイケメンの先輩たちが敷地内をノーヘルで、風を受けてバイクで疾走していた。

 私もいつかバイクに乗りたいと漠然と考えていた。


 原チャリの免許を取るのが流行りだった。だがバイクは危険なので18才までは禁止だった。

 もちろんクルマも4年生になってからだったと思う。



 

 部活でランニングをしていると、いつの間にか立山連峰が白く雪を被っていた。

 北陸の秋は早く、冬は長い。


 一年生の時は大雪だった。

 雪が降ると「雪掻き校用」があった。

 学校には雪を掻くための除雪機、ローダーがあったが、寮は一年生が人力でこれにあたる。

 寮内の放送で、「達する! 雪掻き校用! 一年生はすぐに1寮棟の前に集合! シカトすんじゃねえぞ!」


 汗だくで雪掻きをした。


 


 二年生になり、家畜から奴隷に昇格した。

 後輩が入って来て、少し気分的にも肉体的にもラクになった。


 私たちは上級生になっても一年生を虐める奴はいなかった。

 別に申し合わせた訳では無いが、下級生に同じことをするのははばかれた気がする。


 二年生になると専門教科が増えた。

 何人かは留年し、あるいは学校を去った。

 三年生に上がれなかった上級生が同級生になった。

 特別なことではなかった。別にめずらしいことではない。

 

 歴史、国語、代数幾何、解析?、物理、化学、地学、倫理社会、英語?、応用力学、電気、電子工学、商船概論、航海法規、運用学、航海学などのカリキュラムが加わり、より高度な授業になった。


 風呂掃除や雪掻き校用、上級生のお使いからは開放されたが、一年生の失態は二年生の責任となるので気は抜けなかった。



 学校から歩いて5分ほどのところに『森』というお好み焼き屋があった。

 安くて旨い店だった。憩いの場だった。

 自分たちで勝手に焼くスタイルで、上級生は殆ど来なかった。

 天丼もやっていた。蓋が閉まらないほどの大盛りを出してくれた。

 ボウルでやって来る特大お好み焼きと大盛り天丼を食べた時は死ぬかと思った。

 穏やかで物静かな老婆がひとりでやっている店だったが、お客の殆どはウチの学生たちだった。


 雨の日に行くと、瓶ビールを1本をサービスしてくれた。

 高校生になったら酒もタバコも不純異性交遊も当たり前だった。青春であった。

 そんなのんびりとした時代だった。




第23話

 3年生になって、やっと奴隷から「平民」になり、寮内で市民権を得ることが出来た。

 3年生になると私服での外出が許可され、あの恐怖の学寮総会へも任意参加となる。


 学生食堂にあるジューク・ボックスも触っても良くなった。

 いつも食堂で掛かっているのは永ちゃんだった。

 だから今でも『チャイナタウン』や『時間よ止まれ』を聴くとあの地獄だった1年生、2年生の頃を思い出してしまう。パブロフの犬である。

 だが残念なことに、3年生になったらジューク・ボックスが無くなってしまった。


 売店のラーメンを食べられるのも3年生からだった。

 旨そうにラーメンを啜る上級生を見て、「3年生になったらあのラーメンを食べるぞ」と思ったが、これも学校の方針で廃止になった。


 髪型も自由になった。リーゼントにするヤツも多くいた。

 2年生まではパーマも毛染めも禁止であるが、3年生になると許可される。

 仲のいい友人はいきなりアフロにして来て、みんなを驚かせた。

 渾名は「アフロ」になった。

 風呂は1年生と2年生、3年生が同じ風呂場だった。

 1年生の時、風呂場でシャワーを浴びていると、天然パーマだった私はいきなり2年生から髪の毛を引っ張られ、「1年のくせにパーマなんか掛けてんじゃねえぞコノヤロー!」と因縁を付けられた。

 「て、天然パーマです!」と言っても中々信じてもらえなかった。

 3年生になって私はアイパーにした。


 

 3年生になると講義は専門分野が多くなり、かなり高度になった。

 国語、法学、歴史、解析?、解析?、保健体育、英語?、英語?、第二外国語はフランス語、ドイツ語、ロシア語でドイツ語を取っていた。私はフランス語を取った。左翼系の友人はロシア語を取った。機関科の学生はドイツ語のマニュアルもあるということでドイツ語を選択する者が多かった。

 仲の良かったずっと首席だった親友はドイツ語を取った。なるぼどと思った。

 情報処理、材料力学、水力学、電子工学、電気工学、計測自動制御工学、人間工学、船舶安全工学、航海法規、運用学、航海学になった。

 航海学の教授は180cmはあるかという大柄で、白髪をオールバックにした、戦時中は戦艦長門にも乗艦していたというエリート士官だった。

 航海術の講義には海図を広げるので少し大きめの机になっていた。

 ある日、こともあろうかその教授の授業を寝ていたヤツがいた。

 その教授は机ごとその学生をぶっ飛ばした。

 流石は元大日本帝国海軍将校である。


 商船高専には富山新港に実習棟と実習場があり、そこにはカッターやヨット、練習艇『さざなみ』と300トンの練習船『若潮丸』が係留してあったが、乗船実習は年に1度ほどだった。

 おそらく燃料費がかなりかかるからなのかもしれなかった。

 1年では日帰りで富山湾クルーズ。2年生になると1泊2日で能登の七尾港へ航海、そして3年生になると2泊3日で新潟の佐渡ヶ島に航海実習をした。

 4年生になると富山湾を数回実習航海をした。船酔いでレーダーを覗くことが出来なかった私に、長州力のような鬼教官に「立てえ! 菊池! 国はお前を一人前の商船士官に育てるために3億円ものカネをかけているんだぞおおお!」と叱責された。

 そして5年生になると運輸省航海訓練所で半年間を帆船実習で日本丸と海王丸に別れて日本沿岸を周り、そして正月には東京の晴海埠頭からハワイに向けて片道1ヶ月の遠洋航海に出るのだ。

 そしてその後、半年間を5,000トンクラスの銀河丸、北斗丸、大成丸、青雲丸、青雲丸のいずれかに各々乗船して汽船実習を行う。全国5つの商船高専と神戸、東京商船大学が合同で実習訓練にあたることになるのだ。

 学校の若潮丸でさえ吐きまくっていた私は、実習に出る度、5年生になっての遠洋航海実習に出たら絶対に死ぬと思い、なんとか3年で学校を辞めて、学費の安い国立大学の受験を模索していた。



 3年生になるとバイトが出来た。

 土木作業に怪しい化学プラントなどでも働いた。

 夏休みにカーフェリーで皿洗いのバイトをした時、三等航海士が学校の先輩で可愛がってもらった。

 映画俳優みたいにカッコいい先輩で、操舵手と一緒に船内を歩いていると女性の乗船者が操舵手に、


 「すみません、写真、撮ってもらえませんか?」


 と言われ、「いいですよ」とポーズを取ろうとするとカメラを渡され、先輩とのツーショットをお願いされたと笑っていた。

 先輩は実家が富山で喫茶店をやっていらっしゃるということで、「俺の名前を出していいから珈琲でも飲んで来い」といわれ、夏休みが明けると早速お邪魔した。


 そこにセーラ・ロウエルに似た、凄い美人のウエイトレスさんがいて、


 「今バイトを探しているんですよー」


 というと、もうひとつバイトしている喫茶店があるからと、そこを紹介してもらった。

 そこでは綺麗な女性たちにチヤホヤされ、私は段々学業が疎かになり、操船論、船舶載荷論の教授からは、


 「菊池に言っとけ。あと1日休んだら留年だぞとな?」


 私は学業を忘れ、酒とバイト、読書に明け暮れた自堕落な生活をしていた。

 だが面白いことに、それに反比例するように友だちは増えていった。

 最高の学生生活が始まったのである。





第24話

 なぜこの私の人生備忘録のタイトルが『未完成交響曲』なのかというと、それは人生が「未完成のまま終わる」という理由からである。

 死は人生の中断である。どこまで書けるかわからないが、自分の歩んで来た人生の記録を残したいと思ったからだ。

 それは私の別れた家族や女たちに、自分の生きざまを知って欲しいと思ったからだ。

 出来れば私が死んでから読んで欲しいものである。



 4年生になると、寮生活はパラダイスになった。

 平民から貴族への昇格で、ようやくからも開放され、気を遣う人間がいなくなったからである。

 まるで毎日がリゾートホテルで暮らしているようだった。

 私はさらにバイトに勤しんだ。

 学校以外の人との会話が楽しく新鮮だった。


 大体講義が16時には終わるので、4年生、5年生用の大浴場はほぼ独占状態である。

 風呂から上がり、バイトに行くためにバス停に向かって歩いていると、富山市内に帰る助教授から声を掛けられることもあった。


 「菊池、これからバイトか?」

 「はい」

 「乗って行け。送って行ってやるから」

 「ラッキー!」


 3年生、4年生になって来ると、教官や事務職員とも仲良くなった。

 よく可愛がってもらった。

 食堂のおばちゃんたちからは、「菊池君、今日は鰻だからお替りしなよ」と言われ、お替りをした。



 「菊池、この前の試験、結構良かったぞ」

 「ありがとうございます。大森教官の応用数学だけは好きなんですよ」

 「わからないところがあれば、当直の時にいつでも訊きに来い、俺も退屈だからな。あはははは」

 

 そんな教官たちが多かった。

 専門教科の教官は高専に残って教授になって退官することが多いが、殆どの先生は大学や大学院に戻って、教授や学長になったりしていた。

 しびれるくらい凄い頭脳の先生たちだが、決してそんなことを鼻にかけることはない。

 学生を親切に応援してくれた。


 4年生になると授業カリキュラムは格段に難しくなった。

 国語、経済学、保健体育、武道、解析?、解析?、フランス語、応用数学、情報処理、電気工学、電子工学、自動制御、船舶安全工学、海事法規、船舶工学、運用学、航海学、海洋気象学?、海運論、船舶衛生学、船舶整備論、商学通論、電子電気工学?、機械力学など、実験やレポートも多くなった。


 なぜ私がこんなことまでだらだらと書くのかというと、あまりにも船乗りに対するイメージが低すぎるからである。

 マドロス帽を被ってボーダーのシャツを着て、首にネッカチーフを巻いてビットに足を掛けてギターを背負っているようにイメージされる船乗りだが、専門知識と技術、精神力、判断力、統率力が要求される仕事だ。

 パイロットに憧れる子供は多いが、船乗りに憧れる者は少ない。

 家族と離れて嵐の海を越え、日本の世界貿易を支えているのにだ。

 その苦労を少しは分かって欲しい。

 船乗りがいないと、石油も小麦も鉄も何も入っては来ないし、優れた日本製品を海外に輸出することも出来ないのである。

 命がけで日本の物流を支えている船乗りたちにエールをお願いしたい。



 商船高専は5年生になると、運輸省航海訓練所で1年間の実習過程に移るので、卒業式はアメリカのように秋口になる。

 つまり夏が終わると我々4年生は遂に貴族から「神様」になれるのだ。

 同じ釜のメシを食って苦楽を共にした私たちの団結力はすこぶる強い。

 そういえば同級生を渾名で呼ぶことはなかった。みんな苗字を呼び捨てにしていた。


 

 夏休み前、私はスワヒリ語の日本の権威でもある、英文法の金川欣二先生からアフリカへ誘われた。

 先生は岩波新書でも執筆している学者である。


 「菊池、夏休みにアフリカのケニアのナイロビに行くんだけど、お前も一緒について来いよ。

 費用は10万円だが、なければ俺が貸してやるから。

 もちろん現地では野宿だから来週から神通川でキャンプの練習をするから参加しろ」


 うれしかった。

 尊敬している金川先生にアフリカに誘われたことが。

 おそらく先生は思ったはずだ。


 「コイツにはアフリカを体験させた方がいい」


 のだと。この先生はまさに私にとっての金八先生だった。

 だが、折角のお誘いであったが私は辞退した。

 当然そんな余裕はなく、先生に負担していただくのも申し訳ないと思ったからだ。



 夏休み明けのある日の夜、航海学科のA組全員で、学校と道路を一本隔てた砂浜で流木を拾い集め、焚き火をし、酒を飲んだ。

 一人ずつ、みんなで自分のお国自慢の歌を歌った。その度にみんなが手拍子をして一緒に歌った。

 かなり盛り上がった。

 そして最後はみんなすっ裸になり、海に飛び込んだ。

 びしょびしょになって歩いて寮に帰り、みんなで風呂に入った。

 青春だった。


 私たちは富山商船高専に集う、家族だったのである。

 



第25話

 5年生になった。

 家畜、奴隷、平民、貴族、そして神になったのである。

 夏休みが明けたら運輸省航海訓練所での1年間の航海実習が待っている。

 

 5年生になって寮生活はパラダイスだった。

 たくさん本を読み、バイトしたカネは本代と飲食に全部使った。片想いに終わったが恋も多くした。

 酒を飲んでは友だちとどうでもいい事を朝方まで真剣に議論した。

 5年生になるとあまり付き合いのなかった無頼派な連中からもよく飲みに誘われるようになった。

 話してみると凄くいい奴らだった。友だち思いでピュアな性格の連中だった。

 私の名前をファーストネームで呼び捨てにし、お互いに何でも話せる友人もたくさん出来た。


 「昭仁がこんなにバカで面白え奴だとは思わなかったよ」

 「バカで悪かったなあ、お前も同じやろ? あはははは」


 青春だった。


 授業は卒論とゼミが主体になった。

 哲学、保健体育、武道、英語?、フランス語、応用数学、統計学、商船法規、航海学、船位誤差論、卒業研究、海洋気象学?、航海計測特論、操船論、船貨論、航海特論、貿易論、海法特論、港湾論、商学実務、計測・自動制御?、情報数学、内燃機関工学、電気電子工学、機械設計、蒸気機関工学、補助機関工学と多岐に渡り、実験と実習が多くなった。

 原子力船工学という授業は『原子力船 むつ』の問題により私たちの頃にはなくなっていた。

 商船高専を卒業すると、甲種二等航海士の筆記試験が免除され、口述試験を受けて合格すれば全世界のどんな大型船でも二等航海士として職務に就くことが出来た。 

 そして甲種一等航海士の筆記試験に在学中に合格すると、大手船会社への就職が約束され、甲種船長の筆記試験を合格すれば日本郵船や大阪商船三井船舶、日本航空や全日空にも就職の斡旋を受けることが出来た。

 日本はSOLAS条約に批准していたので、甲種船長に合格すれば船の上限なく、世界中の大型船の船長が出来る狭き門だった。

 私は学生時代はぐうたらだったので、航海士になってから甲種船長と甲種一等航海士を併科受験して同時合格した。新潟で受験したが休み1日を挟んで4日間の試験が終わって新潟駅から帰省する時、ホームが真っ白に見えるほど集中し、『あしたのジョー』の矢吹丈のようだった。燃え尽きた。

 在学中に取得していれば人生は大きく変わっていたかもしれない。 

 だが私には元々船長の器がなかった。



 航海訓練所では最初の半年間は帆船実習になる。その後半年間は各練習船での最新の航海システムを学ぶために再び世界中を航海して回ることになる。

 A組とB組に別れて、それぞれ『日本丸』と『海王丸』で実習を行う。

 それをどうやって決めるのかというと、富山商船高専の場合は伝統的にクラス対抗の総当たりジャンケンで決めていた。

 これはとても重要なことだった。

 『日本丸』と『海王丸』は同型帆船ではあるが『日本丸』の方が格段に知名度が高い。

 今、横浜の伊勢佐木町のドックに係留されている初代日本丸がそれである。

 『日本丸』は「太平洋の白鳥」と呼ばれていた。

 『海王丸』は「太平洋の貴婦人」と呼ばれ、海の男たちは実にロマンチストである。ネーミングが上手い。


 そこで熱いジャンケン大会が行われるのである。『日本丸』での乗船実習を賭けて。

 そして見事、私たちA組は『日本丸』での乗船権を獲得することが出来た。



 卒論の発表会も終わり、夏休みが明ければいよいよ航海実習が始まる。

 だが私は気が重かった。

 学校の練習船でも酷い船酔いをするのに、太平洋を渡ってハワイに帆船で1ヶ月も掛けての実習など、考えたくもなかったからだ。


 私は「海の男」なのにビビリだったのである。実に情けない。

 この時点で私は航海士になるつもりは全くなかった。

 陸上自衛隊の特殊工作員になるのが目標だったからである。本気でそう思っていた。

 かくして4年半に及ぶ高専での座学が修了した。

 



第26話

 「帆船乗りでなければ本物の船乗りにはなれない」


 それが帆船乗りの誇りだった。帆船実習を経験出来るということは「船乗りのエリート」であった。

 東京、神戸の商船大学と全国5つの商船高専しか乗船することが出来なかった。

 太古から続く風による航海。今のようなディーゼル船やタービン船のように無人でも動かせる船とは違い、クルーが力を合わせ、星や気象を読みながら大海原を進んでゆくのが帆船航海だ。

 天文学、気象学、幾何学、数学、物理学などの様々な自然科学、そして芸術が帆船から生まれた。


 かの文豪、ビクトル・ユーゴは言った。



    「帆船は人類が造り上げたもっとも美しい建造物である」



 帆船にはとてつもない魅力がある。

 風をはらんでセールが動く様は、まるで赤子が眠って呼吸しているようになる。

 これをSleeping Sailと帆船乗りは呼んでいた。まさに帆船は生きているのだ。

 

 イギリスでは船に乗ることは学校でもあった。

 船乗りを経験してから医者や弁護士、宗教家になったという。

 あのジョン・レノンの父親も商船乗りだったらしい。

 小さな島国でありながら世界征服を目論むイギリスにとって、船は身近な存在だった。



 いよいよ運輸省航海訓練所での1年間の航海実習が始まろうとしていた。

 私はビビリまくっていた。

 夏休み明け、帆船日本丸のカデット(訓練生)は東京の竹芝桟橋に集合させられた。

 そこに日本丸があるのかと思ったらいなかった。

 引率の教官は小柄だがパワフルな首席三等航海士だった。


 「諸君! 運輸省航海訓練所へようこそ! これから浦賀にある三菱造船所へ電車で向かうことになる。

 迅速に行動するように!

 そこで我らがマザーシップ、日本丸がお前たちを待っているのである!」


 (本物の船乗りとはこんな人のことをいうのだろうか?)


 実に爽快でカッコいいと思った。



 浦賀の三菱造船所に行って驚いた。

 日本丸がこんなにもデカいとは思わなかったからだ。

 日本丸はドライ・ドックにあり、私たちは8人のグループ分けられ、キャビンに荷物を置いてレクリエーションを受けた。まずは船内を案内してもらった。

 

 日本丸には池貝社製の国産第1号のディーゼルエンジンが搭載されていた。無風や嵐の時の推進力としてである。

 4檣バーク型帆船。196名乗り。2,283トン、全長97m。マストの海面からの高さは46メートル。

 私たちは日本丸に圧倒された。

 

 (このマストに登るのか?)


 ビルにして換算するとおよそ15階建てに相当する。

 それをシュラウドを頼りに昇って行くのだ。


 鳥羽、広島、大島、弓削ゆげ、そして富山商船高専の5校がバラバラにグループ分けされた。

 キャビンは上下2団のベッドがあり、そこで8名が同居するのである。

 同じ船乗りを目指す者同士、私たちはすぐに仲良くなった。



 夜、出会いを祝して早速酒盛りをすることになり、酒好きな私たちは造船所の6m以上はあると思われる、戦時中の機密保護の意味もあるのか、造船所は厳重な塀があった。

 私たちはそんな「困難」にもめげず、塀を乗り越え酒屋に酒を買いに出掛けた。

 コンビニがまだ一般的ではない時代である。私たちは酒屋のシャターを叩いて「酒を売って下さーい!」と連呼した。

 そして無事に酒を買い、船に戻ろうとした時、私が次席一等航海士に捕まった。


 「菊池、お前初日に酒を買いに行くとはいい度胸をしているなあ?」


 酒会は中止になってしまった。

 

 そして翌朝、


 「これから朝の準備体操を行う! 菊池、前へ出ろ! お前が体操の指揮を取れ!」

 「どうすればいいんでしょうか?」

 「簡単だ、ラジオ体操をすればよい」


 (なーんだ、ラジオ体操なら毎朝1年生を前にやっていたから楽勝だ)


 ところがそれはラジオ体操ではなかった。

 すぐに私の体操は中止された。


 「駄目だ駄目だ! そんなへなちょこ体操は体操ではない!」


 リズミカルに、しかも「上下伸」とか「垂直伸」とかを、それをやる前に宣言し、指先までキチンと伸ばさなければならない。

 ちょっとでも揃わなかったり、体操が甘いと何度もやり直しをさせられた。


 私たちは朝のラジオ体操で汗だくになった。

 とんでもないところに来てしまったと思った。

 

 


第27話

 ドライ・ドックとは乾式ドックといい、水が入っていないドックのことである。

 つまり船体のすべてが丸裸になっており、普段見ることが出来ない船底部やスクリューを見ることが出来る。

 船には見えない部分に多くのテクノロジーが詰まっている。

 実はあの美しい白い船体の海水に浸かっている部分は赤いペンキが塗られている。船底塗料と言ってフジツボなどの貝などが付着しないようにするためだ。

 船が効率よく進むためには海水との摩擦抵抗を極力抑える必要がある。ゆえに貝などが付着するとそれが大きな抵抗になるからだ。

 そして海水と空気が絶えず入れ替わるウォーター・ラインは錆易いのでそれを防止するための塗料が塗られている。

 つまり船にな大きく分けて3種類の塗料が使われているのである。

 汚れと錆は船体にとってとても重要で、学校では塗装工学と錆についての講義があった。

 ちなみに船底の洗浄にはサンド・ブラストという砂を高圧で吹き付けることで汚れを落す工程もある。


 一般的には推進装置をスクリューというが、我々船舶関係者はプロペラと呼んでいる。

 略して「ペラ」とも言う。

 海水はナトリウムを多く含む電解質であるため、そのままだとイオン化傾向によりマンガン・ブロンズ製のプロペラが腐食してしまう。そこでそれを防止するためにブロンズよりもイオン化傾向の強い、ジンク・プレート(亜鉛プレート)をプロペラの周りの船体に貼り付けている。するとそのジンク・プレートがプロペラの代わりに電気分解して腐食していくのである。

 プロペラにも様々の工夫がされている。

 プロペラの回転数を上げていけばスピードも上がると考えそうなものではあるが、あまりプロペラを早く回してしまうとプロペラが海水を排除して「空洞化現象」が生じてしまい、逆に船速が落ちてしまう。

 通常の航海では1分間に150回転ほどでプロペラを回している。

 そしてキャビテーションが生じ、プロペラに当たる気泡や水滴があの硬いプロペラを腐食させることはあまり知られてはいない。航空機や巨大船のタービン・エンジンのブレードも高速回転により空気でも腐食するのである。

 ドックに降りて下から見上げる日本丸はとてつもなく大きく見えた。



 日本丸の検査、修理修繕は最終段階を迎え、3日後にはドックを出る予定だった。

 帆船は大航海時代のしきたりや習わしもあり、号令や各部の名称などはすべて英語である。

 まずは帆船の歴史や船内生活、航海で重要な部分をすべて暗記させられた。

 1日があっという間に過ぎて行った。

 学校では神様だった我々も、今度は「囚人」になったわけである。


 出港間近ということもあり、初めて外出許可が出た。

 帆船には人でが必要なので、全員が一度に船を離れることは出来ない。

 故に半舷上陸という制度があり、船のキャビンの右舷や左舷だけが上陸を許され、交代で外出をするのである。

 これでやっと隠れて酒を買いに行かなくても済んだ。

 私たちは横須賀や横浜などへ出掛けた。


 「やっぱりシャバはいいよなあ」

 「刑務所から「出所」したみたいだな?」

 「あはははは」


 横須賀は軍港ということもあり、飲み屋も多かったが洋服屋も多かった。

 刺繍してくれる店もあり、当時流行りのアポロキャップやスカジャンに刺繍をしてくれるサービスもあり、それを利用する連中もいた。

 俺たちは居酒屋で浴びるほど酒を飲んだ。



 いよいよドックに海水がダムの放水のように注水され、明日には浦賀の三菱造船所を出ることになった。


 「本船(船乗りは自分の船を「本船」と呼ぶ)は明日、ヒトマルマルマル(10:00)、千葉県の館山湾にてセール・ベンディングを行う。ヤードにセイルを装着するのである」


 何しろマストは海面から約50メートルもある。毎日の訓練でマストにはなんとか登れるようにはなったが、そこで作業をするのは初めてである。どんなことをするのかと不安だった。

 ヤードの後ろにはワイヤーでセーフティロープが回してある。そこに命綱を掛けるのだが教官はそれを脅すのだ。


 「実際にはひとりが転落すると全員が転落するからマストに上がったら絶対に気を抜くんじゃない!」

 「はい!」


 海面から50メートル、噂によると運良く海に落ちたとしても、コンクリートに落ちたような衝撃となり、命の保証はないという。


 「足から落ちるとキンタマが潰れるらしいでえ」


 関西人の友人がそう付け加えた。

 飛び込み選手が羨ましかった。


 マストへはシュラウドという斜めに張ったワイヤーを登って行くのだが、カデットは船内ではいつも裸足だった。

 デッキ材は柾目板のチーク材が使われ、海水などでのヌメリを防止するためにヤシの身を半分にして乾燥させたスクラブ(たわし)を使い、ターン・ツーと言って、毎朝デッキを磨くのである。誰が? 我々実習生がである。

 腰を下ろして両手で磨く、声を出しながら。

 私は1年生の時の寮でのあの「地獄の風呂掃除」を思い出した。


 マストに登る時ももちろん裸足である。職員はベテランなので地下足袋を履いていた。

 だがそれは意味のあるものだった。裸足のほうが感覚が体に直に伝わるからだ。


 シュラウドにはラット・ラインという足を掛けるロープがネットのように張り巡らされている。

 ところが風雨や海水、紫外線に絶えず晒されるために脆くなっている場合があり、たまに切れるのだ。

 帆船乗りは足場に手を掛けて上り下りはしない。絶えずサイドのハンドレールやロープを握る。

 そうでないと足場が破損した場合、そのまま転落することも考えられるからだ。


 普通に登るのでも恐ろしいのに、実は各ヤードへ渡るためのステージ部分は「バック・シュラウド」と呼ばれる「仰向け」になって登る短い箇所がある。手を話せば確実に落ちてしまう。命綱もないのでかなり緊張した。


 

 館山湾に到着した。


 「それではただ今よりセール・ベンディングを行う。各自その場の職員の指示に従え。かかれ!(配置につけという意味だが、これは英語のcarry onが日本的に呼ばれたものだと教えられた)」


 (俺はどのヤードを担当するのだろう?)


 すると担当航海士から訊かれた。


 「ロイヤルヤード(最上ヤード)に登りたい者!」


 なんと自己申告制であったのである。

 目立ちたがり屋の私は真っ先に手をあげた。


 「おお、流石は菊池、いい度胸だ」


 すると仲良くなった広島商船高専のヤツに言われた。


 「ホンマや、菊池、お前はアホやもんなあ。あはははは」

 「お前も付き合え」

 「よっしゃ、ワシもロイヤルやりまっせえ!」


 負けず嫌いの我々でロイヤルの担当はすぐに埋まった。

 どうして自分で選ばせるのかは分かっている。もし事故が起きた場合、それが自己責任となるからだ。

 日本丸は毎年、何らかの事故で死亡者が出ていた。

 霊感の強い私は日本丸には霊気を感じた。

 戦時中はマストを撤去されて海軍に徴用され、戦後は兵士の復員や遺体や遺骨輸送にも使用されていたからである。



 実際作業をして分かったことは、上のヤードに行くほどセールが小さくなくなるので作業自体はラクになるということだ。

 つまり上は危険度は高いが作業はラク。下は比較的安全だが作業が大変であった。

 結果的に同じなのである。人生と同じように。



 ヤードにセイルを巻く際には2つの方法がある。

 シー・ガスケットとハーバー・ガスケットだ。

 シー・ガスケットは作業を短時間で終わらせるためのラフな縛り方で、一方のハーバー・ガスケットは港に入港する際の化粧用として、キチンとキレイに巻く遣り方である。


 取り敢えず、これから日本の沿岸を一般公開をしながらハワイへの往復する2ヶ月間の実習航海へ向けて、4ヶ月のトレーニングが開始された。


 次の港は神戸である。

 だがその私の「処女航海」が、その後の私の船乗り人生が始まるきっかけになることはその時、予想もしなかった。


  


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未完成交響曲 菊池昭仁 @landfall0810

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ