孤影延びる冷夏

しどろ

第1話

友人Nは私の古くからの知り合いで、和歌山に住んでいる。先日彼女のほうから久しぶりに会いたいと連絡が来て、大阪にある冷やし中華専門店に行った。

テーブル席だった。彼女は「はい、好きなの選んで。奢るから」とメニューを私の前に置いた。

「Nちゃんはもう決めてあるの?」

「うん。この『バジルトマトの冷やし中華』ってやつ」

「へえ。じゃあ私もそれにしようかな」

Nちゃんがノールックで頼むほどの料理だ。よほど美味しいのだろう。

「ふぅん。同じのにするんだ。やっぱあんた、初めてのものは迷わず他人に合わせるとこ、昔から変わらないわね」

Nちゃんはちょっと羨ましそうな目で見つめてきた。

「へへっ、初めてのことには後悔しないって決めてるからね。失敗も成功も初めてなんだからさ」

私の得意げな語りに、Nちゃんは寂しげに微笑んだ。

注文が済み、レモン風味の水を啜っていると、Nちゃんはおもむろに話し出した。

「ねぇ、私に彼氏できたのは知ってる?多分話してなかったよね。あんたずっと独身だからちょっと配慮してたんだよ。

付き合い始めたのが一昨年くらいで、4つ歳上の子でね。今32かな。このお店はね、あいつとよく来た店なんだ」

独身配慮は余計なお世話だが、店内は確かに良い雰囲気だった。中華とイタリアンが混ざったような、独特な趣があるのだ。

「あいつはねー、毎回メニュー眺めながら迷ってたね。あんたと正反対って感じ。すぐに物事を判断するのが苦手でさ。それで料理が出てくるとこれうめえとかこれまっずとか、毎回一喜一憂してる面白い奴だった。まぁ後悔してるのが多かったけど。でもあいつ、さっき頼んだバジルトマト冷や中を食べてからはすっかりハマっちゃって、ずっとそればっかり頼んでんの。何というか、自分だけの正解が見つかるとそればっかりみたいな人だった」

「あー、わたし確かにNちゃんに彼氏いるの知らなかったわ。まぁそういうの気にしないし、LINEとかで言ってくれればよかったのに。それで、結婚はこれから?てか、こういう話をわざわざしてくるってことは、何かあったん?別れ方の相談?不倫?」

「ははっ、恋愛経験ゼロのあんたに相談してどうすんの」

「はぁーー?ゼロじゃないしーー??高校生の頃好きだった子いたし??」

私が唇を尖らしていると、Nちゃんはぼそっと呟いた。

「あのね、死んじゃったの。彼氏」

「えっ…」

ハッとした。彼女がずっと暗い顔をしていたのも、数年ぶりに私を呼び出したのも、この話をしたかったからなのか。

「ごめんごめん。あんたが暗くなる必要はないから。むしろ、励まして欲しくて呼んだところあるし。

えっとね、死んだのはつい先月なんだけど、そのあと警察の手続きがあったり、葬式したり、仕事休んだりで大変でさ。今日あんたに会えてようやく気持ちが落ち着いた感じがするっていうか。

あいつの死因があいつらしくてさ、本当にバカだから聞いてほしいんだ」

そう言うと彼女は鞄から紙切れを取り出した。水で濡れた跡がしみになって残っていた。涙の跡だとすぐに分かった。Nは優しく紙を広げ読み上げ始めた。

「遺書。


『Nへ。

僕は君を世界の誰よりも愛しています。君が僕を愛しているのも知っています。君は僕が何をしても許してくれると思います。図々しいけど、僕はそれくらい君のことを分かっていると思ってます。

でも、僕は自分が許せませんでした。君は僕を許すかもしれないけど、僕は僕が許せないし、僕は君に許されたくもなかったのです。僕は親友を殺しました。

8月19日、僕は大学時代の親友のYくんと川でキャンプをしていました。君が舞台を観に東京に遠征していた頃です。元々4人来るはずだったんだけど、2人がコロナで来れなくなっちゃって、僕とYくんだけになったのでした。

Yくんはお調子者だったけど、衆人環視の中では大人しいほうでした。でも休んだ2人が来なかったストレスもあって羽目を外しちゃったね。半裸で酒を飲みながら魚釣りやバーベキューして、たまに川の中で泳いでいました。昼間から大声で叫んでいたら、通りかかった人から叱られたりもしました。でも、夕方を過ぎて夜になると人通りなんてぱったり消えてしまって、街灯も何も無い河原で、テントの中で駄弁りながらビールを飲んでいました。持ってきた氷は全部溶けて、ビールはすっかりぬるくなっていて、テントの中も2人分の熱がこもってじんわりと暑くなっていました。

ふと、Yくんが外に出て星を見ようと言い出しました。僕も同意して、2人で椅子を並べて空を見上げました。夏の大三角と天の川がよく見える日でした。

Yくんは、ここだと木で隠れてよく見えない、もっと真ん中で空が見たい、暑いから川に入ろうと言って、真っ暗な中スマホのライトを持って川に入って行ってしまいました。僕は止めるべきでした。

スマホの光が川の底に落ちていくのが見えました。僕は最初、彼がうっかりスマホを落としてしまったのだろうと思い、彼が自分で拾うか、拾わずにこっちに戻ってくるのを待っていました。でも、彼は拾いもしなかったし、戻ってくることもありませんでした。溺れていたのです。僕はスマホが落ちてから1分くらい経ってから異変に気づき、大声でYの名前を叫びましたが、川の音がするばかりで、返事はありませんでした。こちらのスマホのライトを振って、もう一度叫びましたが、返事はありませんでした。鳥が驚いて逃げて行きました。

パニックになっていました。119番通報をしようとしましたが、圏外で電話が繋がりません。土手に上がり公衆電話を探しましたがありません。土手から見下ろしても、川は真っ黒で何も見えませんでした。もう一度河原に戻りました。テントに何かないか必死で探しましたが、何もありませんでした。

僕は真っ黒な川に1人で入る勇気がありませんでした。川は広くて、もう下流に流されたかもしれない彼を見つけられる自信もありませんでした。さらに言えば、誰の助けも来ない山の中に、いま自分1人しかいないという現実に恐怖が込み上げてきました。

でも、少なくとも彼の落としたスマホのライトは見えていました。彼のスマホからなら電話ができたかもしれないし、その近くにまだ彼がいた可能性もありました。増水していたわけでもありませんでした。

それでも、僕は片足を川に浸けて、無理だと思ってしまいました。〈溺れた人を泳いで助けに行ってはいけない〉というネットで見た言葉が何度も頭をよぎりました。

結局、僕は、しばらくフリーズした後に、テントに戻って布団の中に潜り込みました。何も見なかった、悪い夢だと思うことにしたのです。寝付けませんでしたが、いつの間にか眠っていて、テントに水死体がチャックを開けて入ってくる夢で目が覚めました。

5時過ぎでした。パトカーの1台でも来てくれていればよかったのに、誰一人いない河原に、まだ昨晩のまま全てが残っていました。

僕はそれがチャンスだと思ってしまったのでした。警察に何か疑われても、「目が覚めたら彼がいなくなっていて、先に帰ってしまったのかと思って、仕方なく自分も帰った」ということにすれば、アリバイになると思いました。

明るかったので川の中はよく見えるようになっていましたが、彼はいませんでした。昨日は川底にあったはずの彼のスマホも、もうありませんでした。僕は急いでテントやグリルを車に積んで、逃げるように帰りました。

彼は翌日になってテレビのニュースになりました。僕はそれ以来、警察が家の扉をドンドンと叩く幻覚を見るようになりました。不思議なことに、警察は1週間経っても来ませんでした。この頃から僕の言動がおかしくなっていることに君も気がついていたかもしれません。僕は家から出られなくなりました。人とのコミュニケーションもできなくなりました。仕事のミスが増え、顔色が悪いと上司に心配され、病欠することになりました。

起きていると警察が来る幻覚を見て、焦って寝ると自分が溺れているのを誰も助けてくれない夢を見ました。コロナで休んでいた2人からYくんのことについて電話が来た時は、内心実はバレているんじゃないかと思いながら、アリバイ通りの話をしました。『お前が殺したんじゃないか』という幻聴が聴こえていました。

君とのLINEは、頑張って正常な自分を想像しながらやっていました。それでも限界には気づいていました。僕は君に真実を話せませんでした。

僕は自分を極めて冷静な人間だと思っています。衝動的な行動はしないようにしています。それでも、僕は僕の内なる声が正しいと思うようになりました。

君が帰ってくる前に、僕はこの世を去ることにします。君に不満があるわけでも、親友の後を追いたいわけでもありません。ただ、たくさん悩み、他人への迷惑も、君の気持ちも考えた上で、これが正解だと思いました。

最期に君に会うことができなくてごめんなさい。罪に穢れた自分を君に許されたくなかったのです。きっと君は僕を許してしまうから、僕は君には会いません。

もう何を書けばいいかわからなくなってきたから、これでおしまい。知らない山奥に行くので車は返せません。警察に見せる用の遺書は別で用意するので、君はこの紙を誰にも見せず大切に取っておいてください』


……以上」

私は呆然としていた。Nちゃんは涙ぐんでいた。

「これで終わり?なんかこう、こういうのって最後に『君を愛している』だとかなんとかグダグダ書くもんじゃない?」

「……うん。あいつ、普段は取り止めのない話をだらだらするくせに、一度自分の正解が分かっちゃうと迷いが完全に無くなるのかね。書き迷うことがないくらい、あいつは言いたいことが言えたんだと思ってる、私はね」

「ふぅん」

私はまだあまり状況が飲み込めなくて、Nちゃんと手紙の内容についていくつか質問しているうちに、バジルトマトの冷やし中華2人分が到着した。

麺の上には生ハムと、大きめで柔らかくなったトマトにバジルソースがかかり、さらに粉チーズ、ダイスカットチーズが散りばめられている。つゆはつゆというよりトロッとしたソースで、麺とよく絡んでいた。

一緒に食べ始めると、Nちゃんは、麺を頬張っておいしい、おいしいと独り言のように呟いていた。実際、めちゃくちゃ美味しかった。

Nちゃんは「ありがとね、今日来てくれて。あんたと一緒にこれが食べれただけで私本当に嬉しい。きっと彼氏も喜んでると思う」と言いながら鼻をすすった。

「それはよかった」

私は彼女が食べる様子を見ているうちに、なんだか彼女がその彼氏さんの体を纏っているように感じだした。まるで麺を自分のためではなく、自分の中にいる彼氏さんに食べさせてあげているように感じたのだ。

私は彼女が何かに連れて行かれてしまうような気がして、怖くなって彼女の腕をそっと抱きしめた。

「Nちゃんは行っちゃダメだからね」

「ふっ、大丈夫。どこにも行かないわよ。少なくともあんたが結婚するまでは、心配で死にたくても死ねないわ」

「なにが。余計なお世話。……でも、ありがとう」


一生独身でいよう、とちょっと思った。

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