第40話 おじ戦士、帰省する?

「……珍しいですね、あなたのほうから求めてくるなんて」


 隣で横たわるラルフに向かって、ヘレンはささやいた。その口調は責めているわけでも、媚びているわけでもなく、ただ静かに問いかけただけという感じだった。


「今日は嫌だったか?」

「嫌なはずがありません。求められればいつでも嬉しいものですよ」


 その言葉が嘘ではないことを示すように、ヘレンは夫の腕を取ると自分から寄り添っていった。鍛え上げられた逞しい肉体から温もりが感じられる。

 ラルフはあまり夫婦の営みに積極的ではないため、どちらかというとヘレンは不満のほうが大きかった。普段からこのくらいの甲斐性を見せてくれれば、自分がはしたない真似をすることもないのにと、むしろこの状態が続くことを歓迎しているくらいだった。


「何かあったのですか?」


 家に帰ってきてから、ラルフはやけに口数が少なかった。

 普段通りに振舞おうとしていたようだが、いつもなら発しているはずの一言が足りず、急に会話が途切れるような不自然さが感じられた。しばらく一緒に暮らしていて、ヘレンもそのくらいの変化には気づけるようになっていた。


「……大したことではない。宿の部屋を片づけに行ったら、兄貴と鉢合わせてな。少しばかり話をしたんだ」

「あら、男爵様が王都にいらっしゃるなんて珍しい。まだ陛下に拝謁はいえつする時期ではありませんよね?」

「そのはずだ。なのにわざわざ王都に出向いたのだから、よほどの要件だな。俺に会いに来たのなんて物のついでだろうが……いつ来ても宿にいないって怒られたよ」

「ふふっ、次の名簿で居住地を更新しなければなりませんね」


 ソードギルドが国に提出している名簿には、構成員一人一人の氏名と共に現在の居住地が記録されている。騎士団の関係者以外でも、地方領主であるミハエルのように国の体制側の人間であれば、名簿の閲覧は基本的に自由だ。ラルフ自身は当家に自分が暮らしている宿の場所を伝えたことなどないのだが、ソードギルドの名簿を確認すれば簡単に居場所を突き止めることができる。

 逆に言えば、名簿の記載と実際の居住地が一致しない場合は何かと問題になる。今はまさに引越しの過渡期なので多少のブレは大目に見てもらえるが、次に名簿を更新する際は、必ず住所の記載を変更しなければならない。

 それで公的にもラルフはこの家の住人になる。

 名実ともに夫婦となっていく過程を実感し、ヘレンは幸せそうな笑みを浮かべた。顔が間近にあるため、薄闇の中でも互いの表情がはっきりと見える。

 そんなヘレンの笑顔を見て、ラルフも気持ちが穏やかになっていくのを感じた。それでようやく今日あった出来事をすべて語る決心がついた。


「――というわけだ。今は西もかなり情勢が不安定みたいだな。事件当時は気にも留めなかったが、ゲインマイル伯爵のところの跡取りを篭絡ろうらくした令嬢が、フーラ太守の血縁者だというのも決して偶然ではないはずだ」

「フーラを中心とした南部が、何年も前から戦争に向けて準備しているという話は、前に聞かせてくれましたね。するとそれも、今になって実を結んだ策略のうちの一つなのでしょうか」

「おそらく、そうだろうな。結果、伯爵配下の領地はどこも治安が乱れている状態だ。これではいざという時、王都の守りに兵を割くどころの話ではない。挙句の果てに、俺にまで領地の治安維持を手伝いに帰ってこいと言われたよ」

「何か思い悩んでいるように見えたのはそれが原因だったのですね……実家のことは、まだ許せませんか?」

「許せないというのは少し違うな。憎しみはないのに、嫌悪感だけが残ってる。その嫌悪感も、もう存在しないモノに対して向けている無意味な感情だ――そう、分かってはいる。分かってはいるんだ……」


 しかし、分かるからこそ駄目なのだ。

 染みついた汚れのように、いつまでも付いて回って忘れることができない。


「結局、俺は自分にとって都合のいいものだけを見て生きてきたってことだ。好きなことだけをしていれば、あとは勝手に時間が解決してくれると思ってた」


 けれど、それは違った。汚れの素が無くなったところで、一度付いてしまった汚れが勝手に消えるわけがない。

 本来なら、父親が亡くなった報せを受けたときに、まず真っ先に帰らなければならなかったはずだ。それなのにすべてを置き去りにしたままでいた。結果、ラルフの中では何も解決していないし、記憶の中にあるオブライト家も昔のままだ。


「……今更だが、一度故郷に帰ってみようと思う。せめて墓参りぐらいはしろと兄貴にも言われたからな」

「それが良いと思います。あなたの心の整理はあなたにしかできません。ただ、あなたの許しがあれば、私も片づけを手伝うことくらいは出来ますよ?」

「ついてきてくれるか?」

「もちろん」


 そう言われるのを待っていたかのように、ヘレンは静かに頷いた。

 ラルフは変わったと思う。

 ずっと頑なに、戦いから目を逸らさずに生きてきたこの孤独な戦士を、ヘレンは誰よりも尊敬していた。だが同時に、常に張り詰めたその生き方に危うさも感じていた。いつ折れてもおかしくないほどに研ぎ澄まされた刃のようで、そばで見ていてずっと不安だった。

 しかし、最近になってその危うさは随分と鳴りを潜めた気がする。

 ラルフは培った強さだけではなく、捨て切れない弱さも見せてくれるようになった。以前と比べ、他者に頼ることをいとわなくなった。そして、ラルフが真っ先に頼る相手に自分がなれたことが、ヘレンには何よりも嬉しかった。

 ヘレンは優しく微笑むと、想いを伝えるために自分から唇を寄せていった。

 まだ朝まで時間はたっぷりある。

 眠りにつくのは、もう少し遅くとも良いはずだ。


 ※ ※ ※


 翌朝、ラルフとヘレンは王都を発ち、街道を西に向かっていた。

 二人とも旅支度を万端に整え、いつでも戦えるように武装もした状態だ。


「長年、躊躇ためらっていたかと思えば、昨日の今日でもう出発とは……あなたは面倒くさがりなのかそうでないのか、よく分からない人ですね」


 自慢の鎧に身を包み、槍を携えて街道を歩くヘレンは、少し前を歩いているラルフに向かって語りかけた。その口ぶりは、責めているわけでも呆れているわけでもなく、純粋に疑問を投げかけているようであった。


趨勢すうせいを見極めているとでも言ってほしいな。やるべき事をやるべき時に片づけようとすると、自然とこうなるんだ」

「もう、また適当なことを言ってるでしょ」


 何だかはぐらかされたような気がして、ヘレンは今度こそ非難を込めてそう言った。ラルフは後ろを振り返らずに答え、片手を振ってとぼけたような仕草を返しただけだった。顔が見えないため余計に本心が読み取りづらい。

 前を歩くラルフは、いつものように冒険用の鎧を着込み、腰には長剣ロングソードを帯び、背中には背負い袋と盾を背負っている。

 二人とも戦士としては完全武装の状態だ。

 今回の旅の目的は、ラルフの故郷であるオブライト家の領地に向かうこと。言ってしまえば単なる里帰りなので、ここまで入念に武装する必要性は実のところないのだが、西方面の治安が悪化していることはすでに聞いている。徒歩の二人旅ということもあり、念のため武器と防具もしっかり整えて出てきた。


「ところで、お兄様はまだ王都に滞在しているのではないですか? あまり早く領地に着きすぎても、行き違いになるかもしれませんよ?」


 ヘレンの言う通り、ミハエルもただ弟に会うためだけに王都までやってきたわけではないだろう。おそらくは、西方面の治安回復に向けた取り組みが目的だ。中央騎士団に介入してもらう根回しをするために来たのかもしれない。

 本来であれば男爵位であるオブライト家がするような役目ではないが、より上位の貴族たちが反目し合っているような状況ゆえ、ミハエルは独自の人脈を使って解決に乗り出そうとしているに違いない。


「構わんさ、兄貴に会うことが目的の旅ではない。むしろ留守にしてくれていたほうが、何かと面倒なことを言われずに済みそうだ」

「またそんな斜に構えた物言いをして……私もご挨拶くらいはしたいです。それに、気持ちの整理をつけるために故郷へ帰るのでしょう?」

「別に、兄貴に対して思うところは何もないからな。昨日で大体の話は済ませたし、いてもいなくても大して変わらんよ。俺が確かめたいのはそれ以外のところだ」


 正直なところ、故郷に帰るといってもやりたいことは割と漠然としている。

 何か強い目的意識があって帰るわけではない。生家や両親の墓を含め、あの生まれ育った土地が今どうなっているのかを、一度この目で確認しておきたいくらいの気持ちだった。動機としては弱いが、心の整理とは元来そういうものだろう。頭では分かっていても、実際に目で見なければ納得できないこともある。

 そんなラルフの気持ちを慮ってか、ヘレンもそれ以上の追及はしなかった。その代わりに、歩みを速めてラルフの隣に並ぶと、今度は別の話題を振った。


「ねえ、ラルフ。せっかく西へ向かうのですから、途中でプリマスにも立ち寄りませんか?」

「プリマスに? あの街に何か用でもあるのか?」

「あそこの魚料理が美味しいんですよ。王都では新鮮な魚はなかなか食べられませんから、行きか帰りのどちらかで良いので寄りたいです」


 ラルフが想像していた以上に、立ち寄る理由は単純なものだった。

 しかし、自分を見つめてくるヘレンの顔は期待に満ち溢れている。美味しいものを食べたり、そうした話題について話しているときのヘレンは特に機嫌が良い。それをわざわざ不機嫌にする返事など、ラルフにはできなかった。


「なら、行きに立ち寄るとするか。プリマス経由なら、このまま真っすぐ領地に向かうよりも一日か二日は余分にかかる。少しくらい時間をかけたほうが、兄貴も先に戻っているかもしれないしな」

「はい、そうしましょう――楽しみですね」


 ヘレンは満面の笑みでそう答えた。

 妻のこうした笑顔を見られるなら、今回の旅の主目的はもうそっちにしてよいかもしれないなと、ラルフは里帰りの件をさっそく棚上げしかけていた。

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