第29話 おじ戦士、女神に祈る

 出発の日まで、あと一日。

 この日、俺は僧院を訪れていた。

 僧院はその名の通り、そこに所属する僧侶たちが日々暮らしながら女神に奉仕する場所だが、中には僧侶以外の一般人に向けて開放されている施設もある。

 そのうちの一つが礼拝堂だ。

 礼拝堂は、創造の女神アリアンに感謝の祈りを捧げる場所である。

 朝早くに訪れれば、高僧が直々にありがたい説法をしてくれるが、それを聞きに行くのはよほど敬虔な信者だけだ。礼拝堂は日没までは開いているため、ただ祈りたいだけならいつ訪れても構わない。

 幸いというべきか、この時間帯は俺以外に礼拝堂を訪れている者はいなかった。

 礼拝堂を奥へと進み、女神像の前までやってきた。静かに俺を見下ろす女神の前で、膝を折って跪き、祈りを捧げる。


 俺はさほど信心深いほうではなかった。

 しかし歳を取ってからは、段々と信仰心が厚くなってきたのを実感する。

 以前は神という存在を絶対的な導き手としてではなく、実利をもたらしてくれる尊敬の対象くらいに捉えていた。

 その考え方も、今ではだいぶ変わってきている。

 たとえば、僧侶たちが使う回復魔法が良い例だ。

 女神が直接、僧侶に力を貸し与えている奇跡……というのが世間向けの方便だが、実際は専門の魔法言語を唱えているに過ぎない。

 僧侶の力は、あくまで僧侶たち自身の努力のたまものだ。俺は冒険者の僧侶たちとの付き合いが深いため、彼らからそれを聞いたことがあった。

 ……そう、それにもかかわらず、長い冒険者生活の中でまさに奇跡としか言いようがない力の行使を、これまで何度も目の当たりにしてきた。

 言葉では説明できない何か超越的な存在がこの世界にはいる。そしてその存在は、自分の身に影響を及ぼすことがある。その事実だけは認めざるを得ないのだ。


 しばらくそんな夢想にふけっていると、背後から誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。

 別の信者が祈りに来たのかもしれないと思い、場所を空けるために自分の祈りを終えて立ち上がった。


「女神に感謝します――やはりラルフさんでしたか」


 僧院特有の挨拶とともに、背後から近づいてきた人物が俺に声をかけてきた。

 少し前まで、毎日のように聞いていた優しい声色だ。

 穏やかな気持ちで振り返った。


「女神に感謝を――まさかここで君に会うとはな、セーラ」


 俺も僧院での挨拶を返しつつ、久しぶりの再会に顔を綻ばせる。


「仲間たちと冒険に出たと聞いていたが、もう戻っていたのか?」

「はい、農場を荒らすコカトリスの退治でした。みんな、以前よりも頼もしくなっていますよ」


 彼女は笑顔でそう語りながらも、僧院の奉仕作業らしきものをテキパキと進めていく。女神像の前に備えられていた花を取り除き、代わりに持ってきた小麦の束を備えている。


「冒険者の僧侶になったというのに、まだ僧院の仕事をしているんだな?」

「私はこの僧院で生まれ育ちましたから。冒険で街の外に出ている時以外は、なるべくお手伝いに戻るようにしています」


 新人の引率というごく短い期間だったこともあり、セーラの身の上話は詳しく聞いたことがなかったが、それを聞いて納得した。

 彼女はいわゆる『女神の子』だったわけか。

 この年齢にしてはやけにしっかりしており、常に落ち着いているとは思っていたが、ずっと僧院で生活していたというのなら、そうならざるを得なかったのだろう。そうした生い立ちから考えれば、彼女の性格はむしろ柔軟なくらいだ。


「――はい、お待たせしました。お祈りを再開してくださっても結構ですよ。女神様に麦をお供えしたところですから、どうか一緒にお祈りしてください」


 そう言うと、セーラは女神像の前で祈りを捧げはじめた。

 特に断る理由もないため、俺も彼女の隣に並んで、もう一度祈りを捧げた。

 ほとんど音のない、静かな時間だけが流れた。


「セーラ、頼みがある」


 二人で女神への祈りを終えた後、その場で考えついた一つの提案を切り出した。


「祝福の儀式をしてくれないか?」


 祝福の儀式というのは、僧侶が行使できる魔法の加護の一種だ。

 吸血鬼のような邪悪な魔物と戦う前にその魔法をかけてもらうと、わずかだが邪悪から身を守る力が備わる。

 僧侶と固定でパーティを組んでいる冒険者でもない限りは、その加護を受けられる機会がないため、それを目的にわざわざ僧院を訪れる戦士もそれなりにいる。


「私が、ですか?」


 セーラは驚いたように目を見開いて、俺を見つめ返してくる。


「祝福の儀式が必要なら、司祭様をお呼びいたしますが……」

「君にお願いしたいんだ」


 困惑する彼女を正面から見つめ、はっきりと言い切った。

 今回の吸血鬼退治は、秘密裏に行うものだ。

 誰がどこと、どんな繋がりがあるかも分からないため、司祭のように社会的地位のある人物との接触はできるだけ避けたい。

 そういった意味では、セーラは適任者だった。

 冒険者の僧侶であるため社会的地位とは繋がりが薄く、腕前もまだ未熟であるため、その行動が誰かの目に留まる機会も少ない。なにより、人柄が良いため周囲から信用されている。早い話が、誰からも警戒される心配がない人物なのだ。

 祝福の儀式自体は、今回の戦いにおいて絶対必要不可欠なものというわけではないが、万全を期すためにできることはすべてやっておきたい。


「……承知いたしました」


 セーラはわずかに頬を赤らめながらも、俺の願いを聞き入れてくれた。

 彼女は姿勢を正し、両手を目の前で組むと、聖なる言葉を紡いでゆく。

 儀式がはじまるとすぐに、俺は女神に祈りを捧げたときと同じように、その場に跪いた。

 セーラの祝福の儀式は、決してたどたどしいものではなかった。まるで唄のような美しい旋律で、よどみなく魔法語の詠唱を進めていく。その姿はすでに、一人前の僧侶のように見えた。

 やがて、その短い儀式が終わった。


「女神に感謝します――ありがとう、セーラ」


 俺は儀式に対する形式的な感謝の意とともに、願いを聞き入れてくれたセーラ自身に感謝の言葉を伝えた。

 当のセーラはというと、無事に儀式を終えた達成感の中にも、どこか自信なさげな困ったような笑みを浮かべている。


「祝福の儀式を行ったのは、実はこれが初めてです。上手くいったと思うのですが……」

「ああ、加護を受けているのを実感できる」


 これで数日の間は、この加護の魔力は俺にかかったままの状態となる。

 吸血鬼と戦う当日までなら、十分に効果は持つだろう。


「このような祝福が必要ということは……いえ、それはきっと聞いてはいけないことですね?」

「……そうだな。いずれ話すつもりだが、今は聞かないでくれると助かる」


 その言葉だけで、セーラは納得したように頷いた。


「私は、ラルフさんを信じて待っています」


 セーラはあくまで聖職者らしい、大人びた態度でそう言った。僧侶としてなら模範的な回答だろう。

 しかしその模範的な姿が、俺にはむしろ不満に思えた。

 だから、彼女の素の部分に触れようと、少しだけ悪だくみを思いついた。


「それとセーラ、あの夜のことなんだが――」


 俺がみなまで言う前に、セーラは自らの顔を両手で覆ってうつむいてしまった。


「いま、ここで、それを言いますか!?」


 普段は物静かで丁寧なセーラからは、聞いたこともない強い口調だった。

 年相応の娘が発するような、感情的な意味で相手を非難する声だ。


「君のそうした素直な声を、もう一度聞きたかったからな」


 顔を覆ってうつむいたままのセーラの頭に、優しく触れる。


「セーラ、君は聖職であろうとする責任感から、一人ですべてを抱えこみすぎているところがある。けど、もっと誰かを頼っていい。重荷を誰かに委ねてもいい。自分に素直になっていい。そのきっかけを掴むためだけでも、君は冒険者を続ける価値があるはずだ」


 そう語りかけながら、相変わらず美しい金色の髪を梳くように丁寧に撫でる。

 セーラはそれに抵抗することもなく、あの夜と同じように黙って身を委ねている。しばらくそんな静かな時間が流れた。


「――それじゃあ、俺は行くからな。今日は君に会えてよかった」


 最後にもう一度セーラの頭を撫で、その場を離れようと彼女に背を向けた。


「ラルフさん!」


 そのまま立ち去ろうとする俺の背中に、セーラからやけに強い声がかけられた。

 思わずその場で立ち止まり、振り返って彼女の次の言葉を待った。


「献金、お願いします!」


 彼女は怒ったようにそう言いながら、両手を前に差し出してきた。

 ……そういえば、祝福の儀式に対するお布施を払い忘れていたな。意外とちゃっかりしている娘だ。

 俺は楽しげに笑いながら、手持ちの金貨を相場よりも多めに掴んで、セーラの手に握らせた。

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