第596話 運命の王
アポロヌスという男は、地獄域を巡る乱世の中で生を受けた。当時、この地域は多種多様な民族が英雄を打ち立て、奪い合い、滅びを押し付ける世の地獄であった。時代は新たな英雄を求めていた。アポロヌスは名もなき村の農民として生まれ、十歳まではそこで育つ。
「奪え! 襲え! 犯せ!」
しかしある日、村は近隣の勢力によって襲撃される。アポロヌスの村には何もない。ただ目的の道中にあった村という理由で、略奪が始まったのだ。農民でありながら、男衆は戦いの心得もある。こういった世の中だ。訓練が命を守る。
だがまともな武器などほとんどない。棍棒を振りかざし、石を投げるのが精々な農民に対し、襲撃者たちは剣や槍を手にしていた。勝てるはずがなかった。
「アポロ、逃げるんだ」
「お願いだからあなただけでも」
父は時間を稼ぐため、立ち向かった。
母は途中まで一緒だったが、自身を隠して囮となり、襲撃者たちを引き付けてくれた。
両親を失い、そこからアポロヌスの放浪生活が始まったのだ。僅か十歳で生きる術を、自身の手腕に委ねた。そうさせられてしまった。普通ならばすぐにでも野垂れ死にの運命を辿ることだろう。だが、アポロヌスは生き延びた。
『
不意に声が聞こえた。
その言葉の意味は分からず、繰り返そうとしても舌が追い付かない。そんな発音だ。その名は知らない。その存在を見たこともない。しかし確かにそこにいるのだと感じた。そして導かれた。
アポロヌスは運命というものを信じるようになった。
自身を見て、世を見れば自ずと『流れ』というものが知覚できる。自分がすべきことを確信できる。未来を見抜く慧眼の如く、彼は最適解を選び続けた。
『
アポロヌスは強かった。
力の使い方は声が教えてくれた。言葉は分からなかったが、運命という導きがそれを教えてくれたのだ。多少の傷はものともせず、幼いながらも三日三晩動き続けるほどの体力があった。石を投げれば肉を裂き、拳を振り抜けば骨をも砕く。
武器など必要なかった。
己の肉体こそが最高の武器であったからだ。
『
獣を狩り、果実を採り、彼は生き抜く。また魔物すらもアポロヌスにとって敵ではなかった。やがて彼は世を渡り歩く武芸者として評判を高めていく。
賊を撃退し、魔物を討伐し、そうして日々の糧を得る生活を続けていた。立ち寄った村や街では定住を求められることも多々あったほどだ。しかしどんな好条件でも、アポロヌスは首を縦に振らなかった。
アポロヌスの名が広まるほどに年月が経ち、ある時に立ち寄った街で運命を変えた依頼を受ける。
「武芸者様、どうか地獄に住まう悪魔どもを討ってください。あの黒い肌の悪魔たちを!」
「黒い肌の悪魔?」
「ええ! あれらは地獄域に住む者どもです。奴らは周辺の村々、街々を襲い、幼い女を攫います。見た目は人間のように見えますが、油断してはなりません」
地獄域の悪魔、という話は有名だ。アポロヌスは各地を周遊し、武を売って生きている。尽きぬ炎の大穴より悪魔が溢れ続けるという噂だった。
アポロヌスとて理不尽に奪われた経験が記憶に強く残っていた。育った村を焼かれ、仲の良かった子供たちも無慈悲に殺された。大人たちが分け与えられる食べ物がない、と言っただけだった。ただそれだけで虐殺と略奪が始まったのだ。
「いいよ。俺が悪魔ってやつを倒してくるよ」
この時のアポロヌスは二つ返事で依頼を受け入れた。どこか自分の復讐心と重ねていたところもあった。奪うという行為に強い嫌悪を抱いていたからだ。
街の長は喜んで、アポロヌスに宝剣まで渡す。
どうかこれで娘の仇を討ってくれと、頭まで下げていた。
「これは俺の運命だ。きっと良い方向に行く」
正義を為す。
そんな思い以上に、運命的な何かを感じていた。世の嵐の中に、確信の波を見出していた。
意気揚々と乗り出したアポロヌスは、地獄域で黒い肌の人々と出会う。彼らはアポロヌスを見るなり武器を向け、奇声を発しながら襲い掛かってきた。
『
そこで何かが囁いた。だからアポロヌスは譲り受けた宝剣を投げ捨て、素手によって彼らと戦う。どうしてそんな危険なことをしたのか、アポロヌス自身でも説明できなかった。しかし何かが脅迫するように、それを迫った。こうするべきだと勘が叫んでいた。
結果としてアポロヌスは正しい道を選んだことになる。
「偉大なる武人よ。我らを助けてください」
黒い肌の人々は平伏し、額を地に擦り付けて懇願した。どんな武器でも、どんな勇者でもアポロヌスには敵わなかった。素手によって黒い肌の勇士たちは全て叩き伏せられてしまったからだ。
この時、アポロヌスは彼らの言葉を知らなかった。ゆえに何を言っているのか、全く分からなかった。しかし降伏したということだけは分かった。
「我々は
人差し指を自分たちに向け、『
彼らは武器を収め、集落へと招待する。アポロヌスは彼らの身振りを読み取り、それを理解した。この時も罠だとは思わなかった。運命が囁いていたのだ。これが正しい道であると。
「さぁ、早くこちらへ」
バジルの集落へと案内されたアポロヌスは、そこで強く手を引かれてある家屋へと連れ込まれる。そこは集落の中でもひと際大きな家であった。言葉は理解できなかったが、彼らの望みはすぐに分かった。小さな窓の前に立たされたアポロヌスは、ここから外を覗くようにと言われる。
なぜそんなことをさせるのか。理由は分からない。
だが今は彼らの言葉通りにするべきだという確信があった。そうしてしばらく待っていると、集落全体に影が落ちる。夜のように暗くなってしまったのだ。
「だめだ。外に出てはいけない」
確かめようとしたアポロヌスを、若い男が止めた。そして改めて小窓から外を覗くようにと言う。アポロヌスはその通りに従い、驚いてしまった。
「あれは……魔物か?」
異形の存在が集落の広場に降り立った。
それは後ろ脚で立つ獣だ。夜のような黒羽を持ち、その羽の一つ一つに目玉があった。頭部には山羊のような巻き角が六つもあり、その
『献上せよ。幼子を献上せよ。それが宿命である』
不意にアポロヌスの頭の中で声が響いた。それは体が弾け飛ぶかと思うほどの強い声である。だが決して目を離すことはできなかった。魔物が魅力的だったわけではない。当たり前の話だ。ただ、視界の外にある方が怖いという不安によるものだった。ずっと見張っていなければ何をされるか分からないという、酷く後ろ向きなことを考えてしまった。
『献上せよ! 幼子を! 偉大なる地獄の主のために!』
「どうか畏怖を収めてください。今日、この日のために用意した幼子です。育ちも良く、きっと主もお気に召すでしょう」
いつの間にか魔物の前にある男が進み出ていた。彼はアポロヌスを案内してくれた屋敷の主人で、傍にはまだ幼い娘がいた。そしてあろうことか、男は魔物に対して娘を差し出そうとしたのだ。言葉は分からずとも、その仕草と魔物が放つ思念のお陰でアポロヌスにも理解できた。
その後のことはただ茫然と眺めていた。
魔物は幼子を手荒く掴み、空を飛んで去っていったのだ。そして一部始終を目の当たりにしたアポロヌスを、屋敷の主人は囲炉裏へと招いた。
赤熱しながらじっくり燃える薪。
それが弾ける音だけがしばらく続く。
「強き戦士の御方。あれが我々を苦しめる悪魔です。近頃は付近の集落でも警戒が強く、我々は贄となる幼子を用意できませんでした。今日は私の娘を差し出すことになっていたのです」
男は自分の、そして自分たちの罪を告白した。
言葉が通じずとも、ただ真心を込めて伝えようとした。アポロヌスは彼らが何を話しているのか分からなかったが、最後まで耳を傾け続けた。
「わかったよ。俺が何とかしよう。どこに行けばいい?」
バジルの民もまた、被害者であった。
これまでの行いを赦すべきかどうかはこの際関係ない。ただこの問題を野放しにすれば、負の連鎖は止まらない。ただそれだけは理解できたのだ。
だからアポロヌスはすぐに行動を起こした。
やるべきことは運命が教えてくれた。
「戦士よ! どうか頼む。悪魔どもは地獄域にいる」
地獄域はバジルの集落からほど近いところにある。まさしく地獄の蓋が開いたかのような、火を噴く大穴であった。周囲には赤みを帯びた岩石が点在しており、植物の類は一つもない。荒廃した世界の大穴が口を開いて待ち構えていたのである。
だが真に恐れるべきは地獄域の
その喉奥に潜む悪意、すなわち腹の内に抱える悪魔たちだった。
『
「分かっているさ。それが俺のすべきことだ」
何をするべきか。
それは明白だ。アポロヌスは恐れず地獄へ飛び込んだ。宝剣をただ一つだけ持って、悪魔がひしめく火の中を突き進んだのだ。
勿論、悪魔たちは異物の存在に気付き、次々と襲ってくる。それら全てを薙ぎ払い、打ち倒し、平伏させ、彼は地獄を冒険した。そして遂に、バジルの集落で見た恐ろしい悪魔と対面した。
『何用か弱き者。我がしもべを討ち取り、自慢するつもりか?』
「いいや。目的は君だよ。女の子を攫ったと思うんだけど」
『はて。検討もつかぬことだ』
「まぁ簡単には答えてくれないか。いいよ、力づくで聞き出そう。何となく、女の子の居場所は分かるけどね」
強気のアポロヌスだったが、流石に相手は高位の悪魔だ。ただ目撃するだけで身の毛もよだつ怪物である。その身体能力は桁外れで、宿す魔力も常識外。放たれる攻撃はまさしく厄災である。如何に頑丈なアポロヌスも、猛烈な攻撃に晒されて傷を増やしていく。
だが重大な問題点は別にあった。
「これは良くないね。俺に決定打がない」
今の彼にあるのは根本から折れてしまった宝剣だけ。悠然と立つ悪魔に振り下ろした途端、ぽっきりと折れてしまったのだ。それからは自らの拳を武器としていたが、やはり致命傷を与えるには足りない。岩すら砕く殴打すら、悪魔の頑丈な体は受け止めてしまう。
「新しい武器がいる」
『
アポロヌスは自身の感覚に従い、悪魔に対して背を向けた。そして勢いよく走り出す。吹き付ける熱風を押しのけ、溶岩の大河を飛び越え、噴き出す灼熱を避けて走り続ける。
勿論、悪魔は追いかけた。
『逃げるか愚か者よ! そうはさせぬ』
無尽蔵に黒い槍が生成され、アポロヌスの背を狙う。だが槍は突如発生した落石に阻まれ、あるいは噴き出す溶岩に逸らされ、また熱気が光を歪めて狙撃を困難にさせる。まるで運命がアポロヌスを守っているかのようであった。
悪魔は苛立ちを大きくさせ、より強大な魔術の発動に踏み切った。
『滅びよ。《
燎原の火の如く盛る溶岩が黒く塗り潰された。万物を崩し、混ぜ合わせ、無価値にしてしまう闇属性の大魔術である。容赦なく広がる闇の沼は、アポロヌスのすぐ後ろにまで迫っていた。黒い槍と異なり、この闇は侵蝕する。溶岩も岩石も等しく闇に呑まれていく。
如何に身体能力が優れていようとも、《
「ッ! しまっ……」
遂に足元が闇に呑まれ、膝まで沈んでしまう。抜け出そうとしても闇は体にまとわりつき、アポロヌスの身体すらも壊そうとしていた。
普通であれば即座に物質の均衡を崩し、黒いナニカへと変えてしまう毒沼。だがアポロヌスは強すぎる肉体故に侵食を免れる。闇の侵蝕は皮一枚で止まり、その内部までも破壊することはなかった。
「くッ……なんだこれは」
しかしだからといって効果がないわけではない。アポロヌスは闇に呑まれ、沼の中に沈んでいく。藻掻くほどに闇はまとわりつき、底へと引きずり込もうとしていた。
『人間とは弱い。脆い。そして哀れである。息をせねば生きていけない。この世に縛られた生き物だからだ。貴様は特別頑丈なようだが、摂理には抗えまい』
悪魔という魔物は高い知性にこそ脅威がある。
その見た目が獣であったとしても、非常に高い知能を持つ。このような特長を有するからこそ、より上位の魔物に進化しやすいのだ。この悪魔もアポロヌスがそう簡単には死なぬと悟り、人間という生物に共通する弱点を突いた。
暗黒の沼に沈んでいくアポロヌスを、悪魔は冷笑を浮かべつつ見下す。
(このまま……終わるのか? 俺が? そんなはず、ないのに)
闇は口や鼻から侵入し、喉を塞ぐ。
息ができず苦しい。
だがアポロヌスの胸中にあったのは恐れではなかった。
『
確信があった。
自分はここで終わる人間ではない。運命のうねりの中で風を読み、波を捌き、約束の地へと辿り着く。そんな都合の良い世界が見えていた。
深い深い闇の中、アポロヌスは一筋の光を見る。
導きが示す始まりの星。
(俺の……運命よ)
『汝、我が
闇の中で輝きは強くなる。
そしてアポロヌスは確かに感じた。運命という細い糸を、今掴んだのだと。
(俺は求める。俺は欲している。俺は……ここで終わる男じゃない!)
明けの空にあっても強い輝きを見せる星。太陽があっても塗り潰されない強い星。アポロヌスという男に相応しい
『私は光をもたらすもの。闇を晴らし、魔を打ち破る』
アポロヌスと
まさにこれこそが運命だと言わんばかりに。そして彼は手に入れたばかりの
「俺の魔力を捧げる。同化しろ、
巨大な光が一瞬にして全ての闇を晴らした。
不定形だった物質は解き放たれる眩さと共に掻き消え、悪魔もまたその光に晒されて半身を消し飛ばされる。追い詰めていたはずの悪魔は一転、死にかけていた。
魔物は大魔術を扱う素養を持つ一方、大きなリスクも抱えている。悪魔の使用した第十階梯魔術ほどになれば、消費魔力が絶大になるという点だ。魔力がそのまま生命力である魔物にとって、命を削る行為に等しい。悪魔が酷く消耗していたということも重なり、逆転は為った。
『馬鹿、な……あり得ない』
「あり得るさ。こうなる運命だった。俺はそれを手繰り寄せただけだよ。さぁ、少女は返してもらおうか。地獄域の悪魔」
アポロヌスは再び光を放ち、悪魔を完全に消滅させた。
それから無作為に、無尽蔵に光を放っていく。様子を見ていた他の悪魔たちも消滅し、アポロヌスを恐れた。地獄域を悪魔が支配する時代が終わったのだ。
「ああ、こんなところにいたのか」
それからすぐ、アポロヌスは攫われた幼子を発見する。
すっかり怯えた女の子は比較的涼しい洞窟の中に囚われていた。だがそこには無数の血痕が飛び散っており、人骨と思われるものも散乱している。どういった行為が行われたのか、予想に難くない。
膝を折り、できる限り視線を合わせる。
「やぁ、俺はアポロヌスという。アポロヌスだ。分かるかい? 君は?」
言葉は通じない。しかし自らを指差し、名乗ることで伝わったのだろう。
女の子も同じように自らを指差し答えた。
「ルイネ」
「いい名前だね。もう怖がることはないよ。だから帰ろう」
そう言ってアポロヌスは彼女を手を取り、引こうとした。だがルイネは抵抗する。その表情には恐れ、諦観、そして使命感がある。
(なるほど、幼子らしくもない。理解しているのか。自分が助け出されたら、バジルの集落が悪魔によって襲われると)
大丈夫だと伝えるのは難しい。
そこで抱きかかえ、安心させるようにして背中を撫でた。刺すような熱さも、悪魔の畏怖もない。そんな安心感がルイネを眠らせる。
「君のような子が安心して眠れるように。俺はそのために戦おう。この力を振るおう。それがきっと運命だ」
後の冒険王、あるいは迷宮の覇者。アポロヌス王の最初の冒険である。そしてこの経験は、彼に一つの使命を抱かせた。
悪魔と呼ばれたバジルの民、争い続ける地獄域周辺の民族、彼ら全てをまとめ上げ、やがて一つの国と為す。アポロヌスは多種多様な
その傍には黒い肌の女性がいて、いつも補佐していたという。やがて彼が封魔王国を建国したとき、その女性の娘もまたアポロヌスに仕えていた。
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