第491話 都市国家パンテオン


 迷宮神奥域の第一回廊を赤い霧が駆け抜ける。

 運悪くその霧に触れてしまった魔物は魔力を削り取られ、大きなダメージを受けていた。そしてある場所で霧は凝集し、三つの人影となる。ノスフェラトゥ、ハーケス、『灰鼠』である。



「清々しいというべきなのでしょうか。悪くない気分です」



 ノスフェラトゥはそう口にする。

 ずっと息が詰まるようだった。だが今は身体が軽い。吸血種ノスフェラトゥの能力がこれまで以上に容易く扱える。何より、精霊秘術と繋がった。これによって《聖印セフィラ》を自らの力で施せるようになり、吸血種ノスフェラトゥの呪いを封印できる。

 吸血衝動を引き起こす呪いを無害な魔力に変換することで理性を失わずに済む。ずっと聞こえていた呪いの声が聞こえなくなったことでストレスが減った。



「俺たちは最悪の気分だ。何をした? 俺たちはどうなってしまったんだ? 頼むから教えてくれ。お前は一体何なんだノスフェラトゥ!」



 だがそれと反対にハーケスは怒りを露わにする。

 自分自身に起こったことが理解できなかったからだ。まるで不死魔族のように傷は治り、そして不死魔族のように他から搾取して自らを立てる。それが許せなかった。



「俺たちは死ぬはずだった。だが気付けば俺はガルミーゼの血を美味いと感じていた。そして傷一つなかった。これはお前の能力のはずだ」

「私と同じ吸血種ノスフェラトゥにしました」

「ノスフェラトゥ? それはお前の名前だろう?」

「私の種であると同時に私の名前です」



 ノスフェラトゥの受け答えはこれまでよりも少しだけ人間的に思えた。無機質だったこれまでとは、どこか一変してしまったようである。

 するとこれまで黙っていた『灰鼠』も口を開いた。



「ならば血が欲しいと思うこの気持ちはずっとお前が抱えていたモノなのか? いや、今も抱えているものなのか?」

「血は私たちにとって必要不可欠です。ですが血さえあれば生きていけます」

「それは良いことなのか……?」



 戸惑う『灰鼠』は声をすぼめていく。

 何も記憶がないノスフェラトゥと異なり、ハーケスも『灰鼠』も自己を確立したまま吸血種ノスフェラトゥとなった。血を飲むという習慣はないし、それを良いものだと認識することもできない。だから血を飲まなければ生きていけないという現状は受け入れがたい部分もあった。

 何より、初めての吸血が仲間の死体である。

 余計に忌避感が生まれてしまうのも仕方ない。

 またそれよりもさらに大きな問題がある。



「ジョリーン。それよりもガルミーゼとアラージュのことだ。俺たちアルナは大切な仲間を、大きな戦力を失った。特に物資の輸送をガルミーゼに頼っていたから、これからさらに大変になる」

「……ッ! そうだ。なぜ私を助けようとした! 無茶だと分かるだろう!」

「俺たちに見捨てる選択肢はなかった。俺のミスだ。考えが甘かった。実際、ノスフェラトゥがいなかったら全滅していたし、瀑災渦アシュタロトもサンドラの手に落ちていた。そうなれば俺たちアルナの未来は潰えていた」



 納得はできないけどな、とハーケスは続ける。

 実際、楽観視し過ぎていた。



「もう地上へ行くのは不可能に近い。生き残るために方法を考える必要がある」

「どうするんだ?」

「とにかく湖城領域に戻ろう。アラージュとガルミーゼのことも皆に伝える必要がある」

「……正直、私も整理しきれない」



 今回の件でアルナの活動は縮小せざるをえない。

 サンドラであれだけの事件を起こしたのだから、これまで以上に苛烈な反応をしてくるだろう。最悪の場合、何かしらの手段で神奥域の出入り口を封鎖することもあり得る。すなわち半魔族の行く末は迷宮の中だけに限定されてしまう。

 食糧不足という深刻な問題に襲われている今、早急に戦略を立てなければ餓死という滅びやってくる。



「ジョリーンとノスフェラトゥは先に戻ってくれ」

「……お前は?」

「少し旧サンドラに残る。するべきことがある」

「分かった。お前がそういうのなら」



 声色からして『灰鼠』には不満が見える。

 だが今はそれを口にしている余裕などない。一瞬ごとにアルナの滅びが迫っているのだ。ハーケスに無理しない様に注意して、『灰鼠』はノスフェラトゥと共に湖城領域へ戻っていった。








 ◆◆◆








「無事ですか火主カノヌシよ」

「傷一つない。しかし何が起こったのだ。我の忠実なしもべが不死魔族のようになるとは」



 ノスフェラトゥたちが撤退してしばらく。

 サンドラ軍はようやく吸血種ノスフェラトゥ化した兵士の鎮圧に成功した。結局はバラギスが水銀を操って仕留めることになったのだが、その過程で吸血種ノスフェラトゥの吸血能力と、異質な再生能力を目の当たりにした。



「致命傷すら再生するか。だが不死ではない」



 火主カノヌシの視線は四つの遺体に固定されていた。どうにか始末された吸血種ノスフェラトゥは、全身がボロボロになって崩れようとしている。これは攻撃によるダメージではなく、ある瞬間に突然崩れ始めたのである。

 それまではどんな傷も完璧に、即座に修復していた。



「これは可能性だ」

火主カノヌシ? 何を?」

「分からぬかバラギス。これは人が進化できるという証拠なのだ。この者たちは間違いなく人間だったのだ。我に仕える一族の男たちだった。だがこうして血を吸う化け物となり、不死の力を手に入れ、貴様をも手古摺らせた」

「……恥ずかしながら」

「恥じることはあるまい。それは問題ではない。つまり我らは不死に近い力を手に入れることができるということだ」



 バラギスにその発想はなかった。

 いや、彼だけでなくこの場にいた兵士の誰もが吸血種ノスフェラトゥを恐れるばかりで、それを我が物にしようとは考えなかった。

 火主カノヌシヘルダルフは告げる。



「あの女。両目を隠した子供の女が鍵だ。あの女を捕らえ、我が元に連れてくるのだ。そして不死にも近い力を我に献上させよ」

「しかし力を得た兵士は正気を失っていたようですが?」

「危険なものを安全に扱う方法を研究するべきだろう。我はそれができる者を求める。そして貴様に求めることは女を連れてくることだ」

「……承知しました」



 また火主カノヌシは自らの世話をする侍従に命じる。



「パンテオンに使いを出すのだ。医学と薬学に心得のある者を呼び、我が兵の遺体を研究させよ。崩れた遺体は厳重に保管するのだ」



 不老不死。

 それは権力者がいずれ求める究極の欲だ。本来であれば不死魔族の特性であるとして、火主カノヌシも欲することはなかった。しかし人間だったはずの兵士が不死に近い力を得ていた。届かぬはずだったものが、届く位置にまで降りてきている。ならば手を伸ばさない理由などない。

 サンドラの王者は吸血種ノスフェラトゥの力に憑りつかれていた。








 ◆◆◆








 都市国家パンテオンは不死の軍勢を相手に順調な成果を挙げていた。兵器を追究する研究会が、自分たちの成果の発表会だと言わんばかりに前線に出た。その結果、骸骨の軍勢はほぼ全てが抹殺されるにまで至っていた。

 パンテオン軍にはほぼ犠牲者を出すことなく死の軍勢を駆逐できるだろう。

 誰もがそう、予測していた。



「これは」

「どうしたのかね『死神』殿」

「戦いの流れが変化する」

「何? 我々の勝利だ。どう変化するというのだ?」



 シュウは『幻書』の問いに答えなかった。

 その代わりに戦場の奥を指差す。まだ炎の立ち昇る戦場の更なる奥。『幻書』は衰え始めている両目に力を込める。しかしよく目を凝らして見ても彼には分からなかった。



「何が見えるのだ?」

「魂だ」

「……私は詩的な表現を期待した訳ではないのだが」

「強い魂が、あそこにある」



 そう告げた瞬間、爆発が起こった。

 炎を伴わない土煙だけの爆発である。『幻書』は勿論、パンテオンの兵士や学士たちも音につられて目を向けた。火薬兵器や大型射撃兵器、投石兵器、魔術兵器など遠距離攻撃が多いパンテオン軍は、死の軍勢を近づけることなく壊滅に導いた。そのため最前線ですら死の危険から遠かった。

 だが突如としてその安全は崩されたのである。

 爆発の音に気を取られ、多くのものは気付かなかった。だから少し目を離した隙に、最前線が血に染まっていたことに皆が驚いた。



「何が起こったのだ!?」



 思わず『幻書』も声を荒げる。

 しかしその質問にシュウが回答するよりも早く、事態が更に動いた。最前線では『鬼』が暴れていた。額から鋭い二本の角を生やし、全身が鎧のようなものに覆われている。更に肩甲骨のあたりから合計四本の骨の腕が生えていて、パンテオン兵を掴んでいた。

 骨の腕は兵士を果実のように握り潰し、真っ赤な液体を滴らせる。それを近くで目の当たりにしてしまった他の兵士たちは絶叫し、恐怖を露わにしていた。



「あれは死の軍勢を生み出した蛮族の酋長ラヴァだな」

「何者だ? ヴェリト人とは別なのか」

「この辺りではあまり有名ではない。ここから南……シエスタより南で暴れていた賊だ。特定の土地を所有せず、略奪することによって生きている。故に蛮族だ。ヴェリト人も奴には悩まされていたはずだ」

「噂は少しだけ耳にしたことがあるな。しかし所詮は一人だ。囲んで叩けば――」



 残念ながら『幻書』はそれ以上言葉を続けることができなかった。

 彼の言う通り、パンテオン兵は学士たちを下がらせつつ、ラヴァを囲んで槍を向けている。だが攻撃はラヴァの体表で弾かれ、まるで通じない。一方でラヴァが肩甲骨から生える骨の腕を振るうと、それだけで兵士は叩き潰された。

 肉片が飛び散り、兵士たちを汚す。

 恐怖に駆られたパンテオン兵は自らの使命すら放棄し、逃げ始めた。包囲が消えたことでラヴァに向けて火薬壺が投げ込まれる。人体を容易く吹き飛ばす爆発が起こり、一瞬だけ大きな炎が燃え上がった。しかしその炎が消えた時、無傷のラヴァが立っているだけだった。



「化け物か……」

「いいや。あれは人間だ」

神器ルシス使いか? それとも異能使いか?」

「後者だ」



 ラヴァは一番近くに転がっている死体に触れた。するとその兵士の肉は溶けて消えてしまい、骨だけが残った。全身骨格の一部は損傷していたのだが、それについては修復される。そして骸骨となったパンテオン兵は立ち上がった。



「あれが死の軍勢を作る方法らしい」

「興味深いが、どうやら考察している場合ではないようだ」



 一体だけではない。

 まるで伝染病のように次々と死体を骨の兵士に変えていく。そうして誕生した死の軍勢を率いて、ラヴァはパンテオンの街に向かって進み始めた。

 更には南から次々と火の手が上がる。

 松明を手にした男たちが現れたのだ。死の軍勢という衝撃的な絵に紛れ、ラヴァに付き従う蛮族が伏兵として潜んでいた。蛮族兵は雷のような叫びを上げつつ、真っ白な刃や棍棒を手に攻め寄せてきた。蛮族は統一性のない装備だったが、その防具はどれも動物の骨を加工したものに見えた。



「なんという野蛮な軍勢だ」

「最前線は総崩れか。それにラヴァも止められない。パンテオンは攻め落とされるぞ」

「貴様は動かんのか?」

「俺の力を借りて守る国に意味があるのか?」

「なるほど。確かにその通りだ。とはいえ心配することもあるまい。おそらく盟主殿が動くだろう」



 都市国家パンテオンは賢者たちが国家を運営する。『幻書』ことクラクティウスもその一人だ。そして長老たちを一つにまとめる国家代表が盟主と呼ばれる存在である。



「盟主アウグスト殿は黄金域で見つかった神器ルシスと呼ばれる遺物を所有している。パンテオンを守る最後の切り札だ」

「俺たちは引き下がるとしよう」

「うむ。ここもすぐ危険になる」



 強力な魔装を有するラヴァと、彼の率いる蛮族兵は脅威的だ。死を恐れず、引くことを知らない。パンテオン外壁の監視塔もすぐに戦場になるはずだ。

 シュウも今はその力を振るうつもりがない。

 『幻書』と共に後方へと移動し始めた。






 ◆◆◆






 防衛に優れた街づくりとなっているパンテオンは幾重にも迎撃機構が配置されている。侵入を防ぐ壁や堀もその一つだが、守る側にとって有利となる建造物も多数ある。戦争において重要な要素の一つが位置取りだ。有利な位置から一方的に攻撃を仕掛ければ負けるはずがない。

 弓矢、投石、術符など遠距離攻撃を高所から仕掛ける構造が街に作られていた。

 そのはずだった。



「ありえない! 矢も! 石も! 魔術も何も効かない!」



 蛮族ラヴァにはパンテオンの防衛など何の意味もなかった。

 あらゆる攻撃が体表で弾かれ、肩甲骨から伸びる骨の腕が建物を破壊する。骨とはカルシウムの塊であり、それなりの硬度がある。魔装として強化されたことで、鋼より遥かに高い強度を得ていた。レンガの建物すら容易く崩し、鋼の武器すら破壊する。

 そんなラヴァを止めることができる兵士など一人としていない。迷宮で発見された術符による攻撃ですら、ラヴァには傷一つ付かない。



「そ、そこで止まれ!」



 パンテオンにおいて勇士と称えられる兵士が叫んだ。彼の持つ鋼の武器は非常に強力だ。石や青銅の武器を破壊し、人体を容易く切り裂く威力を持っている。基本的に鋼の武器を持った兵士は最強に近い。この時代では間違いなく強者の装備だった。

 だが魔装はその前提を覆す。

 特にラヴァのような強力な魔装保有者には、鋼の武器など素手と変わりない。

 足を止めないラヴァは、及び腰で武器を構える勇士を掴んだ。骨の腕はラヴァのものより一回り大きいので、人を握ることも容易い。そしてラヴァは彼を持ち上げ、邪悪な笑みを浮かべる。



「は、放――」



 握り潰された。

 都市の中でも優れた兵士である彼は全身を砕かれ、物言わぬ肉塊となり果てた。ラヴァは血を浴びて高笑いし、零れ落ちた内臓を掴んで口に運んだ。まるで征服するかのように噛み千切り、血を啜り、そして再び笑い声を響かせる。

 異様な光景を前にしてパンテオン軍は怖気づき、誰もが逃げ始めた。もう兵士に戦う勇気などない。自分の命が大事だからと逃げていく。

 ラヴァの率いる蛮族たちはあっという間にパンテオンの壁内へ侵入し、火を放ち、盗み、犯し、蹂躙を開始した。

 各地で悲鳴が聞こえ始める。

 もはやパンテオンは崩壊寸前であった。



「ありったけだ! とにかく奴にぶつけろ!」

「くっ……折角発見した研究資料だというのに……」

「いいから使え! 研究と命のどっちが大事なんだ! 早く!」



 まだ残っている守衛塔で兵士と学士が言い合い、術符を使用する。紙に術式を刻み込み、その魔力によってオリハルコン構造を作る。それによって使い捨てだが魔術を行使することができるのだ。封入されていた魔術は様々だが、主に火の魔術であった。

 第一階梯《火球ファイア・ボール》、第二階梯《炎槍フレイム・ランス》、第四階梯《爆発ボム》、そして術符としては最大級となる第七階梯《大爆発エクスプロージョン》。都市の一角を完全に焼き尽くすほどの威力で、劫火にも思えた。

 恐ろしい熱気のために備蓄されていた薪が勝手に燃え上がり、レンガは溶けてしまう。



「どうだ。やったか?」

「知らん知らん。あれほどの炎を生み出す術符を……」

「拗ねるなよ……」



 へたり込んだ学士は少しだけ余裕を取り戻したのか、兵士に文句を垂れる。彼にとって術符は希少な研究資料だった。術式を読み解けば魔術という失われた技術を取り戻せると信じて研究していた。彼もまた、『幻書クラクティウス』の研究会に所属する学士なのである。

 流石にあれだけの炎だ。

 賊も死んだだろうと考えていた。その判断は決して楽観視ではなかったはずだ。

 いきなり彼らの身体が浮き上がった。



「え?」



 守衛塔は崩れ、彼らは投げ出される。前も後ろも、上も下も分からない。何一つ理解できないまま、彼らは地面に打ち付けられる。その上から瓦礫が降り注ぎ、すぐに息絶えてしまった。

 彼らは決して目にすることがなかった。

 パンテオンの地面から肋骨にも見える巨大な柱が出現し、街を破壊し尽くした光景を。そしてその中心で咆哮するラヴァの姿を。





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