第445話 蝕欲の力


 アルザード西部の不浄大地境界戦線は一体の化け物によって完全に崩壊していた。

 悍ましい肉塊は呪いを吐き出し、呪いを吸収し、その魔力を膨れ上がらせながら進軍する。辛うじて正気を保っている魔術師たちが術をぶつけているが、ほとんど効いていない。仮に効いたとしても即座に再生するので意味がない。

 そして不死属の呪われた魔力は別の所で脅威を放っていた。



「し、死体が! 死体が立ち上がった!?」

「そんな」

「あれはもう化け物だ! 俺たちの戦友じゃない」

「だが……」

「構えろ。来るぞ」



 戦いで死んだ兵士たちが不死属の魔力にあてられ、急速に魔物化したのである。不浄大地に染みついた呪いのような魔力が人間の肉体を元に情報を書き換え、融合し、不死属の魔物となったのだ。勿論、人間の死体が直接変化するわけではない。人間という肉体情報を吸収し、魔力が形を成しているのだ。

 不浄大地の呪われた魔力によって死体は魔力へと置換され、不死属系魔物として復活する。



「陛下はお下がりください! ここは危険です!」

「それは難しいな。宮廷魔術師団の総力を以てようやく抑え込めているのだ。私たちが撤退すれば戦線は崩壊する。背を向け逃げる我々を刈り取ることなど造作もないだろう。それとも、護衛もない私一人で逃げろというのかね?」

「しかし……それは……」

「もう遅いということだ」



 王は移動一つとっても護衛を伴う必要がある。

 戦場ならば猶更だ。撤退を選択するべき場においても、王がたった一人で逃げ延びることはない。もしもそれが行われるとすれば、完全な敗走の時だけだ。

 ローランは土の第二階梯《絡縛蔦プラント・チェイン》を発動して足止めを手助けする。彼も自衛程度には魔術を覚えているが、それも得意な土属性の低位魔術だけだ。どちらかといえば槍を振るう方が得意である。

 弱い不死属はうねる蔦に絡めとられ、動きを止める。だがそれも数体程度のことだ。数百、いや千に届くかもしれない不死属の群れを前にしては無意味に思える。



「どうにか手はないものか」

「あの親玉と思しき個体さえ討伐できれば勝利も叶うものと考えます」

「スリヤー王は?」

「回復までまだ少しかかるでしょう。治癒を得意とする宮廷術師を付けていますが、あの傷ですから」

「そうか」



 じりじりと撤退を続けているが、それでも不死属の進軍の方が早い。いっそのこと背を向けて逃げ出したくなる。だがそれをすればそれこそ瓦解は避けられない。

 撤退には敵の進軍を抑え込む殿軍が必要となる。

 大抵の場合、殿となる部隊は死を覚悟しなければならない。そうして命懸けで足止めをして初めて撤退は可能となる。ローランの護衛たる宮廷術師たちが全力を以て足止めしている現状、それを可能とする部隊は一つとしてない。



(まさかこれほどとは。倍は連れてくるべきだったか? だがそれをすれば国の守りが薄くなる)



 最悪の場合は精鋭たる宮廷魔術師たち、近衛兵たちを使い潰して撤退することもできる。間違いなく敗走であるが、ローランと数名だけは生き残れる。

 だが敗走はすなわちアルザードを見捨てることを意味する。

 いざとなれば優先されるのは当然ながらローランの命だ。そしてプラハ王国そのものだ。故にこそ、敗走は本当に最後の手段なのである。



「王よ。どうか撤退を。今ならば間に合います。あの化け物がここまで到達してしまえば……」

「あれはどんな魔物だ? 誰か知らないのか?」

「新種というのが我々の見解です。本当のことを言えば直視したくありません。あのような悍ましい魔物は聞いたことも……」

「全く。世界は広いな」



 化け物の腐肉から零れ落ちた病魔腐肉ゾンビ・ディジーズが咆哮し、全身を膨張させる。個体としては中位ミドル級に属する魔物だが、病毒の肉を撒き散らす人間にとって危険な魔物だ。不浄大地でも稀に発生するため、その対処法はよく知られていた。



「ッ! 《粘液弾スライム・ボール》!」



 改変した水の第一階梯《粘液弾スライム・ボール》がローランたちの前に出現する。本来は粘性の液体をぶつけて動きを妨害する魔術だ。しかし術式を少々改変することで壁のように具現化することができる。元より液体は粘性抵抗が高く、銃弾の致死性を失わせるほどクッション性がある。水よりもさらに粘度の高い液体ならば、防御力はかなりのものだ。

 これによって病毒を宿した肉の種は全て受け止められ、ローランには届かなかった。

 魔力技術を研究しているプラハ王国は魔術の改変も技術として確立されている。扱えるのは最大でも第三階梯程度でしかないが、できる範囲の工夫は惜しんでいなかった。



「陛下、遠距離攻撃が可能な敵が増えてきました」

「ここまでということか。スリヤー王は?」

「見捨てるしかありません」



 此度の戦いは完全に失敗であった。

 時間と共に魔力を増大させる化け物は止まる気配がない。ここで倒さなければますます力を得て手が付けられなくなる。だが今の段階ですら倒す手段がない。

 完全な手詰まりだ。



(仕方ない、か)



 ローランは決断する。

 あの人外を倒すことができるのは同じ人外だけ。もはや人間にはどうしようもない敵だ。

 アルザード王国を見捨てることになるが、自国には代えられない。

 苦悩を振り切り、ローランは槍を掲げる。そして敗走命令を出そうとした。



「皆! 私の言葉を」

「――――――! ―――!」



 だがローランの言葉は叫び声によって遮られる。

 それは後方に下がった医療陣地のあたりからだった。ローランはその叫びが何のことか分からなかったが、側近はアルザードの言語を習得しているのでそれを理解する。



「陛下、スリヤー王です。彼がアルザード軍を奮い立たせています」

「何? 彼は重症ではなかったのか?」

「ここからはよく見えませんが……ええ、やはり完治はしていないでしょう。ようやく動けるようになったばかりなのかと。ですが彼らは勇猛な戦士なのです」

「最前線を駆ける王、か」

黄金王ミダスとはそのような存在です。我々には理解できませんが」



 黄金の剣、蝕欲ファフニールを掲げたミダス・スリヤーが覚束ない足取りで最前線に移動し始めている。それに従い、アルザード軍の戦士たちも咆哮しながら突き進んだ。



「まさか突撃するつもりか!? 無謀ではないか!」

「そのまさかのようです。彼らは―――」



 側近は少しだけ口を閉ざし、耳を傾ける。

 彼らの言葉を理解できるとはいえ、ここは怒声飛び交う戦場だ。集中し、耳を澄まし、ようやく彼らの言葉を聞き取ることができた。

 そして驚愕と共に、感嘆を漏らす。



「――なんという勇気。彼らは我々だけでも逃がすと言っております」



 思わずローランは唇を噛んだ。

 今しがた、アルザードを見捨てると決意したばかりだ。しかしアルザードは駆けつけてくれたプラハ王国に対して恩義を返すつもりでいる。はっきり同盟関係であると意識している。

 そして彼らは信頼しているのだ。

 自分たちがここで敗れたとしても、プラハが祖国を救ってくれると信じている。そのための死を覚悟した突撃であった。

 ミダス・スリヤーの掲げる蝕欲ファフニールが強く輝く。魔力の青い光が周囲を照らし、その力はスリヤー自身を変化させる。



「アレはいったい?」

「私も分かりません」



 困惑するのも無理はない。

 スリヤーの肉体が少しずつ膨れ上がり、辛うじて残っていた鎧が弾け飛んだ。体表が黄金の鱗によって覆われ、外見が大きく変化していく。手に持っていた剣はスリヤーの身体へと吸収され、溶けてなくなった。その代わりに彼自身の爪が鋭く伸び、顔も牙の生えた蛇のようになる。その背からは鋭い刃を思わせる翼のような器官が出現した。

 プラハ王国の古い書物にも残っている、ある魔物の姿に似ている。



竜種ドラゴンか」



 一般的な成人男性より一回りほど大きくなった金色の竜。それはスリヤーが……というよりも黄金王ミダスにとっての切り札である。

 宝剣として扱われる蝕欲ファフニールは確かに強力な武器だ。しかし代償として、その力を使えば自分へと跳ね返ってくる。身体は徐々に金色へと染まり、人から外れた存在になる。その果てこそがあの姿であった。

 ローランたちはそこまでの事情を知らない。

 しかしながら何かしらの代償を必要とする切り札なのだと考えていた。



「黄金の竜。アルザードの国章はそういう意味か」

「陛下、今の内に撤退を。今ならば犠牲を最小限にして引くことができます」

「その通りだ。彼らの思いは無駄にしない。それに――」



 必ずアルザード王国は助ける。

 今は口にしないが、その意思を心に秘めて撤退を開始した。








 ◆◆◆







 黄金王ミダスの称号を受け継ぐ者たちは、蝕欲ファフニールという強大な力を操る。その力は絶大で、これ一つのために国が割れてもおかしくないほどだ。ひとたび力を使えば黄金オリハルコンを生み出し、更にはどんな敵をも一撃で葬る。実に誘惑の多い力である。

 だが、それと同時に代償も大きい。

 能力を行使するたびに身体はオリハルコンによって侵食され、変質していく。人ならざる者へと変化していく恐怖は抗いがたいものだ。初代王にして英雄王アルザードですら、両腕がオリハルコン化した時点で蝕欲ファフニールを使わなくなったと伝わっている。

 しかしながらいつの時代にもリスクを顧みず力を行使する者は現われるものだ。ある時の黄金王ミダスは自身が侵食されようとも蝕欲ファフニールを使い続け、やがて完全な同化・・へと至った。豚の頭部を有する強大な魔族と戦うために蝕欲ファフニールと融合し、黄金色の竜となって激しい戦いを演じたという伝説だ。

 この戦いが元で当時の黄金王ミダスは死に至ったが、それでも強大な魔族に致命傷を負わせ、撤退に追い込んだ。その伝説故に、国章は黄金の竜をモチーフにしている。



「まさかこの僕が伝説の力を使うことになるとはね」



 肉体を大きく変化させる蝕欲ファフニールとの同化は確実に寿命を縮める。仮に勝利したとしても元の姿に戻ることはできない。短い生涯をこの姿で過ごすことになるだろう。

 だが後悔はない。

 戦いの中で果てることが黄金王ミダスの務め。誰よりも危険な場所に立ち、民を守り、国を導くことが王なのだから。



「力をよこせ蝕欲ファフニール。この身の全てを捧げる」



 そう告げると同時に、同化は完全となる。

 黄金の怪物となったミダス・スリヤーは不死属の化け物を見遣る。四つの足をゆっくりと動かし、前進し続ける怪物は初めて見た時よりも悍ましさを増している。しかしながら慣れとは恐ろしいものだ。今は戦意が上回り、狂気に浸されることもない。

 あるいはこれこそが既に狂気なのかもしれない。

 だが都合がいいのは確かだ。



「行くぞ。化け物! 我に続け!」



 スリヤーはグッと両足に力を込めた。すると今まで感じたこともない力によって彼は飛び出す。スリヤー自身も驚いてしまったが、すぐに体感を修正した。少しばかり飛び出しすぎて幾つかの不死属を吹き飛ばしてしまったものの、それは別に良い。元から目標は死肉を滴らせ、死体を吸収し続ける化け物だけ。

 更にもう一度踏み込み、先よりも更に力を込める。

 すると一直線に跳んだ彼はあっという間に化け物の目前まで到達した。そのまま勢いを殺すことなく鋭い爪で切り裂く。



「ぉぉおおおぉぉおお!?」

「まだだ!」



 不思議な感覚だが、背にある刃の翼も自在に操れる。まるで両腕に剣を握っているかの如く、それを自在に振るって化け物を切り裂いた。腐肉が飛び散り、化け物は呻く。

 しかしそれで満足はしない。

 欠損した部分は即座に修復され、大地の呪いを吸い取って力を増している。魔力が増大し続けているのも変わらない。そればかりか背中から触手のようなものを伸ばし、周囲に転がっているアルザード兵の死体を喰らおうとし始めたのだ。

 黄金の化身となったスリヤーは触手を切断し、その爪によって化け物を抉り取った。そこにアルザード兵たちの生き残りが次々と武器を突き立て、少しでも消耗させる。



「コイツだけは殺す。命に代えても!」

「オノレ……おのれぇ……」

「話しただと!?」



 ノイズのかかった声ではあるが、確かに聞き取り、言語として認識することができた。確かにシュリット神聖王国で扱われている言語である。

 だがそれを聞いた瞬間、兵士たちは恐れ慄き、動きを停止してしまう。蝕欲ファフニールと同化したスリヤーはその精神汚染すら跳ね除けることができたが、そうでない兵士はただの食糧と化す。

 化け物は一際太い触手を生み出し、舐めるように地上を薙ぎ払った。その触手は肉塊を組み合わせたような見た目であり、鋭い牙の生えた口が無数に張り付いている。それらを使って目につく限りを瞬時に喰らい尽くしたのだ。

 骨を砕き、肉を潰す咀嚼音が虚しく響く。



「やめろ!」



 そう叫びつつスリヤーが爪による斬撃を放つ。あっさりと腐肉を切断していた攻撃だが、今度は触手によって受け止められてしまった。そればかりか触手が牙を剥き、スリヤーの腕に絡みついて噛みつく。黄金色の鱗によって阻まれているため傷はない。だが先程まで通じていた攻撃が通用しなくなったことは大きな問題であった。



(進化しているというのか。この短時間で)



 魔物は魔力を吸収することで自己強化、自己進化する。その魔力量に見合った器として再構築するのが彼らの進化だ。

 腐肉の化け物は時と共に魔力を増大させている。

 今この瞬間、進化を成し遂げたとすれば突然の強化にも辻褄が合う。



(ならば今、倒せるうちに)



 スリヤーはまだ治りきっていない体に鞭を打ち、全力の一撃を放つ。それは身体を捻り、回転しながらの体当たりだ。増大した自身の体重に合わせ、黄金の鱗、また刃の翼が大地すら抉り取る。その勢いは留まることなく腐肉の化け物を削り、削り、更に削り、右半身を丸ごと抉ってしまった。

 しかしこの程度で許しはしない。

 追撃として両腕を突き出し、鋭い爪を内部の奥深くにまで突き立てる。



「ウブウウウアアアアアアアアアアッ!?」

「それが僕たちの痛みだ! この命尽きるまでに……うぐっ」

「オォオオオ……我は邪悪Ig。我は悪意と邪心を喚起するモノ」



 化け物もその身を削られながら驚異的な再生力によって反撃する。自らを『邪悪』と名乗るソレは、明らかに意思と知能を持っていた。

 スリヤーは両腕を引き抜こうとするが、それは叶わない。再生に伴って肉が纏わりつき、溶解液に浸されたかのような激痛が走る。気絶しそうなほどの刺激臭が漂い、スリヤーの全身から力が抜けた。そうしている間にも化け物は食欲旺盛な触手を伸ばしてアルザード兵を喰らい、魔力を増大させる。同時にその腐肉の身体が今までと異なる変化を始めた。

 それは進化とも異なるように思える。

 まさに変容であった。

 魔物の進化はある程度、その外見を継承するものだ。秘めた力を増大させつつも、外見的な変化はそれほど大きくないのが普通である。だがこの化け物に至っては明らかに姿が変わっていた。



「アア。ようやくの現界。ようやくの血肉」



 腐った肉塊を滴らせ、引きずりながらも進み続けた四足の巨体は既にいない。進化とも言い難い変化によって現れたのは濁った白の巨人であった。



「我は邪悪。我は邪心。そして我は邪魅の化身IgrHnAk。増えよ、広がれ、地に満ちよ。大いなる悪意を我に捧げよ」



 膨れ上がった醜い巨体には首がない。

 白き首無しの巨人はどういうわけか、流暢な言葉を発していた。というより、直接脳内に語り掛けていた。しかしながらそんなことは些細なことでしかない。巨人の両手は異常なほど発達しており、その掌には不気味なほど大きく開かれた口があった。だらりと舌を伸ばし、何かを探すように蠢く。



――『異質』



 それは目撃者の誰もが感じた。

 この時、この瞬間に時が止まったようであった。

 まだ人間性を保持していた者たちは、その異質な存在がこの世に存在してはならないものだと魂によって理解していた。






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