第334話 嘆き計画


 スバロキア大帝国は『悪魔の口』という特別な暗号機を利用している。ハデスが開発したもので、生産数はごく僅か。存在を知る者は各国の上層部のみである。優秀な神聖グリニアの技術部を以てしても解読できていない。

 その仕組みだが、シュウの提案を元に開発されている。

 またシュウもその仕組みを一から考えたわけではなく、知っていたことを伝えただけだ。『悪魔の口』の元になったその暗号機の名前はエニグマ。ある国が開発し、難攻不落でありながら仕組みさえわかっていれば解読は簡単という実に優秀なアナログ暗号機として知られていた。前世でも世界大戦中に開発され、猛威を振るったとされている。

 シュウはその知識を基に、魔術でグレードアップしたものを作った。

 エニグマ暗号機は歯車によって文字を入れ替えていく置換暗号なのだが、一文字打つ毎に歯車が回転し、置換の法則が変化する。そして歯車の数を増やせば増やすほど置換の回数が増加し、解読不可能な暗号となるのだ。

 この暗号機の素晴らしいところは、歯車さえ同じ配置でセットしていれば、暗号化した文字列を打ち込むことで元の文章へと複号できることである。

 大帝国同盟圏はこの暗号機を使う際、初めの十文字は十の歯車の設定を表すことにしている。逆にそれを知らなければ解読は不可能だ。解読しようとしても、規則性のない一生意味不明な文字列を眺めることになる。



「あれ? アップデート」

「ほんとだ」



 神聖グリニアの首都マギアは無数の人々が行きかう大都会だ。

 最先端が揃っており、欲しいものは何でも手に入るし、豊かなエネルギーのお蔭で誰もが贅沢な暮らしができる。

 ここは最先端の街。

 それは疑いようのない事実だ。



「トライデントのアップデートってあったっけ?」

「さぁ? 新しいのじゃない?」

「まぁいっか」



 だからハデスが開発したソーサラーデバイス、トライデントシリーズのOSアップデートも躊躇いなく実行する。普通のことだと、誰も気にしない。

 またある場所、特に企業のコンピュータにも同じくアップデートが入っていた。



「ん? セキュリティバージョンアップ? はいはい……ポチっと」



 誰一人として疑いもしない。

 アップデートの内容は暗号化セキュリティの大幅アップデートだ。またアップデートの送信元もOSを制作し、管理しているハデスの関連企業である。誰も疑いはしない。魔晶というあらゆるコンピュータの心臓部を作っている会社からの正式アップデートなのだからと、人々は躊躇なくアップデートを了承した。



「へぇ。パスワード情報の強化ですか」

「店長! なんか新しいアップデートきてますよ」

「さっき見たよ。アップデートかけておいてくれ。ウチは銀行。セキュリティ強化は望むところさ」



 個人も、ホームコンピュータも、企業コンピュータも、学校のコンピュータも、果てには銀行のコンピュータにまで一斉アップデートが実行された。

 誰一人として疑わない。

 今までと同じく、デバイスが便利になるだけだと軽く考えていた。

 これがウイルスのような不正プログラムならば、ワクチンプログラムによって対処されるか、少なくとも発見されていたことだろう。だが残念ながら、これは暗号セキュリティ強化の正式アップデート。人間も油断して気にしないし、システム面でも素通りさせてしまう。

 この日、この瞬間、神聖グリニアのありとあらゆるハデス系列製品はセキュリティ強化という名の強制暗号化アプリケーションが封入されてしまった。そのアップデートの中に解読用のシステムが組み込まれていないとも知らずに。










 ◆◆◆










 新アップデートによって『悪魔の口』による暗号化が通信へと挟み込まれるようになった。それはマザーデバイスを持つシュウにもすぐに分かった。



「もう始まったか」



 シュウは神聖グリニアのある街を訪れていた。

 南東部にある比較的大きな都市であり、大聖堂が設置されているほどである。そしてここの司教がシュウのターゲットでもあった。

 夜、街が寝静まってから適当に潜入して殺害しようと考えていたが予定を繰り上げることにする。

 礼拝の日でなくとも大聖堂は人が多く、主に観光客がよく訪れる。ここ三百年で魔神教はスラダ大陸全土へと浸透したが、その中で各地の聖堂は現地の文化を取り入れつつ、荘厳なものとなるように建造された。外観の色合いこそある程度統一されているが、建築様式はその歴史に影響を受けている。観光客はそれを目当てに訪れるのだ。

 この街は元から神聖グリニアであるため、大聖堂も本式のもの。古典的クラシカルな外観の正面は華美な装飾もなく、シンプルな彫刻などが目立つ。

 人々に紛れ、シュウも信徒であるかのように振舞って正面から入っていく。下手にこそこそするよりも堂々としていた方が良いこともあるのだ。



「探せ」



 そう、短く命じる。

 シュウ以外は誰一人として感じることのできない『死』の世界、煉獄では小さな騒ぎが起こっていた。煉獄に潜む精霊たちにとって、シュウ・アークライトは神の如き存在である。霊系魔物を統べる王の中の王が直接命じたのだから、驚くのも無理はなかった。

 しかし動揺も一瞬。

 忠実な精霊たちはすぐに散っていき、テレパシーで伝えられたシュウの求める人物を探すためだ。



「ああ、もう見つけたか」



 誰にも気づかれないような小さな声で呟く。

 そして精霊からのテレパシーを元に対象を設定し、死魔法を行使した。それは生命力を奪い去る力ではなく、魂を引きずり出す本質的な力だ。魂に干渉できるからこそ、そこに蓄積される魔力というエネルギーを直接奪える。

 煉獄から見えざる手が来る。

 標的の司教は人知れず、魂を死の世界へと引きずり込まれて死んだ。

 この日、各地で名の知れた神官が次々と不審死する事件が起こった。それは即座に情報共有されるはずだったが、不可能となる。










 ◆◆◆










 それは人知れず、深夜に行われた。

 ソーサラーデバイスを始めとした魔晶の搭載されたコンピュータにアップデートが施されていた。だがそれはセキュリティ強化に見せかけたトラップ。解読方法のない暗号化だけのシステムである。九割以上のデバイスがアップデートされた日の夜、それは動きだす。

 ありとあらゆる通信が暗号化される。

 現代のデバイスは使っていないときも常にネットワークに接続され、相互に通信している。誰もが眠っている中、眠ることのないデバイスは狂っていく。

 朝、世界は大きく変わっていた。



「どうなってるの?」



 起床のルーティンとしてデバイスを開いたアロマ・フィデアは思わず固まってしまった。ニュースでもチェックしようと仮想ディスプレイを立ち上げると、そこにはモザイクのような意味のない画面が映されていたからだ。

 赤、青、緑、そして意味不明な文字列が並んでおり、非常に目に悪い。

 試しに再起動しようとするが、そのコマンドすら表示させることができない。画面のどこを触ればどう動くのかさっぱりなのだ。



「壊れたのかしら? 急ね」



 壊れてしまったものは仕方ない。

 新しいものを購入するとして、問題は今日の予定もソーサラーデバイスに記録していたことだ。大まかには覚えているが、細かくは確認しないと分からない。

 ともかく予備のデバイスでも貸してもらおうと、部屋から出ようとする。そして扉のオートロックへと指を触れさせ、魔力認証によって開こうとして……エラー音が鳴った。



「え?」



 ありとあらゆるシステムが解読不能な暗号化によって狂わされた。意図せず、アロマは自室に閉じ込められてしまったのだった。









 ◆◆◆








 神聖グリニアはこの日、死んだ。

 時代の最先端を突き進むこの国は、あらゆる技術がネットワークとデータによって支えられている。またその根幹にあるのがハデスの作り上げた魔晶の技術であった。

 それが全て、強制暗号化アップデートによって狂わされた。

 公共交通機関は相互通信が実質遮断されたことで完全に機能停止。経済取引もあらゆる契約が白紙となり、そもそもパスワード情報すら暗号化されているのでアクセス不可能となる。電子や魔力で制御されている鍵は開けることもできず、自室に閉じ込められた者も多発した。挙句、ソーサラーデバイスは解読システムのない暗号化のせいで全く使い物にならない。外から情報が入ってこないという状況に、現代人の彼らは酷くストレスを受けていた。



「復旧の見込みは?」

「いえ、全く情報が入りません。ゲートも停止しており、通信も止まっている状態ですから。今まともに動いているのは聖堂深部のクローズドネットワークだけです。もしかしたらそれ以外も動いている場所があるのかもしれませんが、それも分かりません」

「他の国に連絡も取れないというのは厄介ですね」



 あらゆる電子機器が一斉に死んだ。

 それは神聖グリニアという国家を支える基盤が消滅したことを意味する。もはや神聖グリニアは自国を運用することができない。いきなり情報速度が原始レベルになったのだ。ありとあらゆる機能に支障が出るのも無理はなかった。

 臨時教皇として現在分かっているすべての報告を受けたクゼン・ローウェルは溜息を吐きそうになった。しかしそれを我慢してできることを考える。



「急いで口頭伝令による伝達手段を確保してください。魔装の登録されているリストから……」

「それも全滅しております」

「……そうでしたね。では通信の魔装を所持している人物をとにかく集めてください。今は彼らの力が必要です。それと技術部に連絡してデータの復旧を試みさせてください」

「分かりました。急がせます」

「それと各地の病院から霊水の融通を願う声が届いています。交通事故が多発し、また医療機器も破損したものが多いとのことでして」

「霊水は数が限られている状況ですが……そもそも保管庫が開くのですか?」

「いいえ」

「困りましたね」



 電子ロックなども全く機能しない状況だ。せめてもの救いは、鍵が機能しないのではなく鍵を動かす機能が機能していないことか。これであらゆる電子ロックが解除されてしまえば、収容されている犯罪者なども野に放たれることになっていた。問題があるとすれば、金庫や重要物保管庫も動かせないことか。



「では治癒の得意な聖騎士の派遣を」

「通信ができない状況ですので、時間はかかりますが……」

「構いません。とにかく動いてください。手の空いている聖騎士は全員出動させ、街を見回りさせてください。各自の判断を許可します。また集めた情報は逐次公開してください。少しでも情報を出して国民を安心させる必要があります。今、嘘の情報に踊らされるのが最も危険です」

「すぐに手配します」

「あなたには苦労を掛けますが、お願いしますよ」



 クゼンは大聖堂内部の仕事を管理するマネージャーと相談を重ね、できることをリスト化する。これだけ大きな聖堂なので、一般人の入れる礼拝堂の部分を管理する者、奥の間を管理する者、聖騎士の仕事をマネジメントする者など、管轄ごとにマネージャーがいる。

 そして臨時教皇が切に頼む彼はマギア大聖堂の全体を取り仕切る男だ。普段ならばオンライン上であらゆる人物の予定を管理するのだが、それが失われた今は何でも紙にメモして管理するしかない。苦労を掛けるというクゼンの言葉に間違いはなかった。



「何とか、やってみましょう」



 彼は戸惑いつつも、決意を目に宿していた。

 各所に連絡を回すだけでも人を介する必要があるのだ。今までのようにデバイスに文字を打ち込んで送信するだけでよかった時の便利さが身に染みる。

 この時点で神聖グリニアはあらゆる面で後手に回っていた。

 冥王により各地や各勢力を統率する責任者が暗殺されているとも知らず、マネージャーは奔走を始めたのだった。









 ◆◆◆









 セキュリティアップデートという名の『悪魔の口』によるデータ破壊作戦は神聖グリニアでのみ行われていた。魔神教勢力圏国家全域でデータ破壊を行うことも案として挙がっていたが、その場合は収束させるのが困難となる。スバロキア大帝国の目的は敵対国家の完全破壊ではなく、魔神教による思想統制や国家管理を止めさせることなのだ。

 よって大混乱に陥る神聖グリニアの南、大国ラムザではネットワークも維持されていたし、ソーサラーデバイスも普通に使える状態であった。尤も、隣国ということで全く被害がないわけではない。神聖グリニアに支社を持っている企業や、神聖グリニアと取引している企業は大きな被害を受けている。



「随分と派手にやりましたね。これが嘆き計画ですか」

「ああ。このためにネットワーク事業をハデス系列に牛耳らせていた。それに現代人はソーサラーリングなしに魔術を使えない。魔晶技術を奪われたらどうしようもないのは分かっていた。『鷹目』も情報技術の大切さは理解しているだろ?」

「私は『死神』さんが恐ろしいですよ。この光景ビジョンを八十年も前から見ていたのですから」

「俺はただ、こうなることを知っていただけだ」

「おや、未来視ですか?」

「ある意味似たようなものだな」



 シュウは高度な情報化社会を知っている。

 当然ながらその便利さも知っているし、失われた時の打撃も理解している。つまりネットワークを握る者は世界を握ったも同然なのだ。だからこそ、先駆けて通信ネットワークを構築し、そのセキュリティを完全に掌握していた。先駆けて世界シェアを奪うことで、ハデスの技術無しには何もできない世界を作り上げたのだ。



「とはいえこの作戦も完全じゃない。アゲラ・ノーマンは流石に理解していたようだな。マギア大聖堂、学園都市メラニアの重要研究所、永久機関関連のデータも独自開発の隔離ネットワークが構築されている。こちらからはアクセスできない」

「ふむ。どうしますか?」

「これくらいは予測していた。『鷹目』は予定通り、フェイクを流して神聖グリニアの分裂を急げ。その間に世界をひっくり返すぞ」

「ええ。予定通りに。私は神聖グリニアに入りますので、しばらく連絡がつかないかもしれません」

「分かっている。情報はお前のデバイスにメモで残しておけ。俺のマザーデバイスからハッキングして勝手に覗き見る。『鷹目』は好きに動け。このために急いで暗殺を決行したんだからな」

「ええ。暗殺リストを一夜で全員達成とは驚きましたよ。ですがお陰様で仕事が楽になりそうです。期待して待っていてください」



 古典的な情報収集と情報操作なら、完全に『鷹目』の舞台である。古くから黒猫で情報を扱ってきた彼にとって、ネットワークに頼らないそれは懐かしくも得意な分野。彼に任せておけば失敗はない。現代において『鷹目』のやり口を知る者はおらず、誰も対応できないだろう。

 彼が語った通り、期待できるというものである。



「神聖グリニアは新しい黄金要塞を三機も建造している。それが起動する前に片付ける。俺もそっちを手伝う予定にしている」

「クク。ではお互い頑張りましょう。私の目的が達成されるのも近いですね」



 そう言って、『鷹目』は不敵に笑った。






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