第7話 最後の最後まで知ってくれるのでしょうか
いつものようにマーレに会いに岩場に続く砂浜を歩いていると、後ろから声がかかった。
「ルエラさーん!」
良かった良かった、間に合った、と駆け寄ってきたのは、海風亭で一緒に働いているクラードさんだ。
私より十歳ほど年上で、大柄だけれど穏やかそうな笑顔と、左右に揺れて歩く動作が童話に出てくるクマさんみたいでかわいい、と皆から慕われているのもあって、砂浜を一生懸命歩いている姿を見ていると、何だか和んでしまう。
「これ、忘れ物です」
クラードさんは私の側まで来ると、そう言って縁にフリルのついたペールピンクの手提げ鞄を差し出してくれた。
今日はお店が忙しかったから、海に来るまでとても慌てていて、うっかり着替えを入れていた鞄を店に置いてきてしまったらしい。
「すみません、わざわざありがとうございます」
頭を下げてお礼を言うと、クラードさんはにこにこ笑いながら頷いてくれた。
手を煩わせてしまった、という罪悪感を抱かせない辺りが流石だなあ、と笑みを零すと、後ろの岩場からマーレが呼んでいる声がする。
恐る恐る振り向いてみれば、珍しく眉を寄せて不機嫌そうに見えた。
待ち合わせの時間がギリギリだったせいか、クラードさんと話していたからか、単に虫の居所が悪いのか……何にせよ、面倒な事になりそうだなあ、と私はバレないようにひっそりと溜息を吐き出した。
「人魚様、こんにちは」
突然現れたマーレにクラードさんは驚いた顔をして、慌てて頭を下げている。
だけど、マーレはクラードさんを一瞥すると、ふいと視線を逸らしていた。
もう、なんでそんなそっけない態度するかなあ、と私は困った顔で見るけれど、クラードさんはマーレの横顔をうっとりとした表情で見つめて、感嘆の溜息を吐き出している。
「いやあ、初めて間近で見ましたが、人魚様はやっぱりお綺麗ですねえ」
「ははは……」
ソウデスネ、と口端を引き攣らせながら、貼り付けた笑顔でクラードさんを見送っていると、マーレは頰を膨らませてあからさまに不機嫌を露わにしていた。
やっぱり、時間ギリギリになってしまったから、拗ねているんだろうか。
そろそろと近寄ると、マーレはすぐに私の手を取って、ぎゅうと握り締めている。
「さっきの人間は誰?」
「同じ食堂で働いてるクラードさんだよ」
海風亭で料理を作っているのは主に女将さんだけれど、女将さんの手が回らないような、料理の下準備やサラダなどの簡単な料理を作ったり、調味料や食材の補充、それから洗い物などしてくれているのはクラードさんだ。
重い荷物を持っていると手を貸してくれたりだとか、調理場以外にもホールで困った事があればすぐ気がついてくれて、女将さんもよく働いてくれると誉めているし、私も頼りにしている。
海風亭は小さな食堂だし、従業員も少ないけれど、私以外は年上の人ばかりという事もあって、皆優しくしてくれる。
いい職場に恵まれたなあ、としみじみ思ってると、突然、目の前にピーコックグリーンの瞳が現れた。
奥底まで透き通って見える瞳を暫し見つめて、私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
思考に耽っていたせいで、状況が上手く飲み込めない。
「ねえ、何を考えてるの? どうして僕の方を見ないの?」
頰に手を添えられて、マーレがそう囁く。
「ルエラは僕だけを見ていて」
そう言われて、ようやく状況を判断した私は、慌てて身体を後ろに引いた。
顔が近い。息がかかりそうな程に。
「っ、無理! 恥ずかしいから見れない!!」
羞恥で顔を真っ赤にした私が全力で叫ぶと、マーレは満足したのか、ぱあっと嬉しそうな顔をしている。
態とやっているのか本気なのか、いまいちわからない辺りが、もどかしくて仕方がない。
どちらにせよ、たちが悪いのは確かだけれど。
「さっきの人はただの職場の人だよ。忘れ物を届けにきてくれただけ」
「ふーん。そうは見えなかったけどなあ」
マーレは訝しげな顔をしているけれど、クラードさんはマーレに見惚れていたし、好意を持っているとしたらマーレの方なのに、と私は強く思う。
まあ確かに、ここまで綺麗な顔をしていたら、男性も女性も関係なく好意を持ってしまうのも仕方がないのかもしれない。
そう考えると何だかもやもやしてしまって、私は思わず唇を尖らせてしまう。
「人魚族の女の人の方が綺麗な人ばっかりでしょ。マーレの方こそどうなのって思うけど?」
それこそ、見目麗しい人魚族に比べられたら、私なんて目も当てられない程じゃないか、と思わずにはいられない。
意地悪のつもりで言ったのにも関わらず、マーレは「ルエラ、もしかしてヤキモチ妬いてるの?」などと言って目を輝かせ、嬉しそうな顔をしていた。腹立たしい事この上ない。
「ルエラは知らないだろうけど、人魚族の女性は、なんていうか、強い人が多いんだよね……。僕も姉が五人いるけれど」
「お姉さんが五人もいるの?!」
こんな綺麗な顔をした人が五人、しかも全員お姉さんなの、とびっくりしていると、マーレは曖昧に笑って、小さく何度か頷いている。
強いというのは、精神的なものなのか見た目的なものなのか、はたまた物理的なものかは定かではないけれど、マーレはきゅっと腕を抱き締め、酷く遠い目をしているので、全部の意味合いを含めた強い女性達、という事なのかもしれない。
見てみたい気持ちはある、が、マーレの様子を見るに、あまり関わらない方が良さそうだ。
それにしても、五人のお姉さんに囲まれた末っ子、という環境で育ったのなら、マーレの性格が人懐っこくて無邪気なのも納得がいく。
きっと、めいっぱい可愛がられて育ってきたに違いない。
「そもそも姉達は人間達にあまり好意的じゃないから、きっと海底都市から出てくる事もないだろうし、人間達に関わる事もないと思うよ」
「そうなんだ」
マーレが人間に対して好意的だから、つい人魚族全体がマーレと同じようなのだろうと考えてしまっていたけれど、人間だって全員が私と同じ考えではないのだし、それもそうか、と私は頷いた。
「それに、ルエラよりかわいい人なんて、この世界に存在しないから大丈夫だよ」
今まで見た事もないしこれからも絶対に現れない、と根拠のない謎の自信で言い切るマーレに、私は呆れて溜息を吐き出してしまう。
人魚族に褒められるような容姿なんてしていないし、そもそも、人魚族は五百年近く生きるのだ。
私の事だって、あと百年も経ったらさっさと忘れられてる可能性の方が高いんじゃないかな、と思わずにいられない。
マーレは「そんな事より」と言って、犬のように私の肩に額を押し付けている。
「ルエラが他の人間の男と会ってたら、この町沈めちゃうかも」
「私がマーレに会いに行かないと町が沈む、ってこの町中の人に知られてるんだから、そんな事にはならないと思うよ……」
それに今までモテた試しもないんだから、と自虐気味に言うけれど、マーレは聞いている聞いていないのかわからない態度をしていて、私はまた一つ溜息を吐き出した。
そもそも、今まで生きる事に必死で、他人に興味など抱いている暇などなかったのだ。
今だって、そんな余裕があるわけではないけれど、マーレみたいに多少強引に近寄ってくれる人でなければ、こうして誰かと一緒にいるという事もなかったかもしれない。
「ルエラの魅力は僕だけが知ってればいいの。他の人は知らなくていい。知ってたら海に沈めるし」
「うん、やめて。沈めないで」
私のあずかり知らない所で、そんな事が起こっていたら怖すぎる。
げんなりした顔をしていると、私の肩に乗せていた頭を起こしたマーレは、くすくすと吐息混じりに笑った。
本気でそんな事をするようには思えないけれど、あながちやりかねないのが、マーレという人だというのは、私でもよくわかっている。
「そもそも、マーレより私をよく言ってくれる人なんていないでしょ」
自分で言っておきながら恥ずかしくなってしまった私に、マーレはぱちぱちと瞬きを繰り返してから、ふふん、と自信たっぷりに笑って見せた。
「勿論。僕が一番、ルエラの事を想っているし知っているもの」
と、そう言って。
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