第2話 此処へ至るまでの世界の形と今について


 今からおよそ百年前。

 その頃は空も海も青かったそうだけれど、ある時、〈星の嘆きアステリラメント〉と呼ばれる大地震と、それに伴う大津波によって、地上の都市は悉く壊滅してしまったらしい。

 未曾有の大災害により、陸地は半分以上が海の中に沈んでしまい、空と同じように青かった海はピンク色へと変化し、海の水質や生態系まで大きく変化したという。

 それでもどうにか生き残った人々は、残った五つの島に集まり、限られた資源を使い、知恵を絞って、それぞれの島で国を作った。

 その五つの島国の中でも三番目に大きな島は、南西にあるセンデンス。センデンスは縦に伸びる形をしていて、私が住んでいるのは、その最南端にあるリシャルジアだ。

 リシャルジアは穏やかな海に面した小さな港町で、住民の殆どが漁師をしているか、港にある市場や魚介類を加工する工場で働き、生計を立てている。

 私が働いているのは海に程近い場所にある小さな食堂——海風亭で、そこでも魚介を使った料理をメインにしていて、その中でも、カラッと揚げた白身魚のフライは一番人気がある。

 店内は店名に合わせて天井から下がる水色と青の硝子カバーがついたランプで照らされ、海の水面を思わせるようで、あちこちに魚の形をした壁飾りや、メニュー表台が置かれている。

 ささやか過ぎてあまり気付く人はいないだろうけれど、カトラリーも小さな魚や珊瑚の模様が彫られている特注品を使っている徹底ぶりだ。

 食堂と言っても、リシャルジアは港町だから、開店は六時半。午後の一時半にはお店を閉めてしまう。

 この店の店主である女将さんは、開店に向けて朝三時から開店準備をしているし、フロアを担当する私も四時半には出勤して働いている。

 女将さんの手伝いは勿論、店の中と外を隅々まで掃除をして、今日のおすすめメニューを入口に置く看板に書き込んだりと、細々仕事をしているだけで、あっという間に開店時間になってしまう。

 大抵、開店からすぐに店の一角を埋めているのは、年配の常連さん達。

 それから少しずつ、町に住んでいる人や、観光で訪れている人達が入店しだして、お昼に向けて徐々に忙しくなっていく。

 空いた席を片付け、テーブルの上を綺麗に拭いた私は、入り口のベルを鳴らして入ってきたお客様に、笑顔で挨拶をした。


「いらっしゃいませ! 三名様ですね。こちらの席へどうぞ!」


 人数分のレモン水を差し出し、今日のおすすめメニューを説明して、ぺこりと頭を下げる。そこまでが一連の動きで、僅かに空いた時間に、さて何かやれる仕事がないかと私はぐるりと店内を見回した。

 忙しいお昼まではまだ少し時間があるからか、お店の中は半分ほどしか埋まっていない。

 窓際の日当たりがいい席では、女の子とそのお母さんが食事をしているけれど、何だか様子がおかしい。

 私は気取られないよう、そっと席を盗み見た。

 お母さんの方は女の子になんとか食事をさせたいようだけれど、女の子は食事にそっちのけで遊びたいらしく、床に届かない足を揺らし、手にしていたフォークを手放してそっぽを向いている。

 あれではお母さんの方も、満足に食事が出来ていないだろう。

 私は女将さんに声をかけてから、カウンターの端に置いてあった小さなカゴを手にして、先程の親子へ声をかけた。


「お食事中、すみません」


 女の子のお母さんは困り果てた顔をしていて、私は出来るだけ安心させるように、満面の笑顔を浮かべて見せる。


「小さいお子さん限定でお魚のぬいぐるみを差し上げてるんですが、如何ですか?」


 そう言って手にしたカゴを差し出すと、隣の女の子はわあっと歓声を上げた。

 カゴの中にはカラフルな色をした手のひらサイズの魚のぬいぐるみが詰まっている。

 子供好きの女将さんが、食事に来た子供達に喜んで貰おうと、色んなハギレ布を組み合わせて作っているもので、一つとして同じものがない特別製だ。

 女の子のお母さんは、少し申し訳なさそうにありがとうと言い、子供にぬいぐるみを選ばせていて、その隙に食事をしてて下さい、と私は彼女にこっそりと伝えた。

 だって、女の子の面倒を見ていて、お母さんこそまともに食事が出来ていなさそうだったから。

 女の子のお母さんは困ったように頭を下げ、急いで食事を口にしていたけれど、ぱっと顔を綻ばせている。きっと女将さんの食事を気に入ってくれたのだろう。

 女の子にぬいぐるみを見せながら、私は思わず嬉しくなってしまう。


「どの色の子がいいか、決まったかな? こっちの花柄の子も可愛いし、こっちにはお月様の色をした子もいるよ」

「えっと、えっとね……」

「うん、ゆっくりで大丈夫だからね」

「あのね、ピンク! この子がいい!」


 女の子が選んだのは、淡いピンク色の魚で、海の色によく似ている。

 お腹の方はリボン柄で、それも女の子が気に入った理由だったらしい。


「ピンクの子はね、実はご飯を食べるのが上手じゃないんだ。良かったら君が食べてる所を見せて、お手本になってあげてね」


 私がそう言うと、女の子は少し考えてから、得意げにむんずとフォークを掴んで、目の前にあった白身魚のフライをぱくりと頬張った。

 偉い、凄い、と褒めて見せれば、さっきまであんなに食事に興味をなくしていた女の子は、あっという間に食事を平らげてしまっていて、女の子のお母さんが嬉しそうに笑顔を見せてくれているので、私まで嬉しくなってくる。


「あの、ありがとうございます」

「いえ、何か困ってる事があれば、お気軽に声をかけて下さいね」


 お礼を言ってくれたお母さんを見習ってか、女の子も「おねーちゃん、ありがとー」と舌足らずに言いながら手を振って見せるので、私も笑顔で手を振り返した。

 かわいいなあ、と思っているのもそこそこに、厨房に顔を出した私は息を吐き出して、気持ちを引き締める。

 さあ、これからはもっと忙しくなる時間帯だ。


「お待たせしました! 当店一番人気のメニュー、白身魚のフライです。こちらのソースをたっぷりかけると美味しいですよ」

「サルモーネのムニエルとタコのカルパッチョです。こちらのお皿はお下げしますね」

「アルメ貝のクリームスープにシーフードピザ、お待たせしました! 熱いのでお気をつけて下さい」


 次々と出来上がった料理をテーブルに運び、お客さんの様子を見ながら、空いた席を片付けたり、不足した備品を補充したりする。

 この店に勤めて約半年。女手一つで私を育ててくれたお母さんが亡くなった後、唯一頼れる身内である祖母を訪ねて、私はこの町に来た。

 その時からは考えられないくらい、今は毎日が慌ただしい。

 私を優しく迎えてくれたおばあちゃんも、私がこの町に来てから僅かひと月程で、患っていた病気が悪化して亡くなってしまったから——。


『ルエラ。私はね、私が居なくなった後、お前が一人きりになってしまうのが……それだけが、心残りなんだよ』


 おばあちゃんの最後に残した言葉が、ぽつりと思い出されると、私はいつも、とてつもなく淋しい気持ちに襲われてしまう。

 時々、こうして自分が一人きりなのだと実感してしまうのが、怖い。

 一人で生きられるだけの力がない、というわけじゃあ、ない。

 今だって、こうして関わってくれる人達はいるし、前に住んでいた所に戻れば友達だっている。

 いるけれど、心のうちを心のままに口に出来た事はなかった。

 自分以外の誰かには、ちゃんと戻れる場所と、待ってくれる人がいるという事を知らない程、私は馬鹿じゃなかったから。

 それを目の当たりにして、惨めな思いをしたくはなかったから。

 今は良くても、本当の本当に、自分が一人なのだと実感する瞬間が、いつか来る。

 それを、おばあちゃんは恐れていたのだろう。

 だからこうして毎日慌ただしい中にいる事で、悲しい気持ちや淋しい気持ちが紛れているのは、正直ありがたい事だ、と私は密やかに思っている。

 それは、いつもマーレが無邪気に無遠慮に私を振り回してくるから、でもあるんだろうけれど。


 怒涛のランチタイムが落ち着いた時には、いつも元気な女将さんも、厨房の中を片付けながら少しくたびれた顔をしている。

 私も流石にお腹が空いてきた頃合いで、気を抜くとお腹が鳴いてしまいそうだ。

 そんな事を考えて空いた席を片付けていると、常連のお客さんが入口のベルを鳴らして、楽しそうに談笑しながら入ってきた。少し顔が赤いから、既にお酒が入っているのかもしれない。


「おーい、女将さん。そろそろルエラを解放してやらんと」

「人魚様がまた待ちきれなくて歌い出しそうだぞ」


 揶揄うような口調だけれど、常連客という事もあり、それが悪意を伴ったものではないと私にはわかる。

 リシャルジアは港町のせいか、昼過ぎにも関わらず飲み歩いている人も少なくはなく、海風亭でも開店時からお酒の提供をしている。酔っ払いというと嫌なイメージがあるかもしれないけれど、大抵の人は気持ちのいい飲み方をしていて、こうして陽気に話しかけてくれるのだ。


「ええー……、またですか?」


 私がげんなりした表情を浮かべてそう言えば、お客さん達はからからと笑いながら肩を竦めている。


「まあそう言うなって。人魚様方はここいらでは昔から幸運のシンボルとされてるんだから」

「そうそう。この店だって、繁盛してきたのはルエラがあの銀色の人魚様に見初められたからかもしれないだろ?」


 長命種は人並外れた力と寿命から敬遠される事が多いようだけれど、この町は人魚族が住んでいると言われている海底都市とも近いようで、昔から人魚族に友好的らしい。

 人魚族が暮らせるだけの高い水質と豊富な餌がある土地、そして落ち着いた海域だからこそ、安定した漁業を行えているというのもあるのだろう。

 ある意味、人魚族を信仰しているといっても良いくらいで、この町に長く住んでいたおばあちゃんもよく海に向かって熱心にお祈りをしていたし、町に馴染みがある人ほどそういう傾向があるんじゃないか、と私は思っている。

 確かに、彼らは類稀なる美貌と歌声を持ち、海を掌握する一族と言われているので、何の力もない人間でしかない私達には、神様に等しい生き物と呼べなくもない。

 まあ、あののほほんとしていて無邪気に人を振り回してくるマーレを見ていると、とてもそうとは思えないのけれど。


「私は見初められてないし、この店は女将さんの料理が美味しいから繁盛してるんですよ!」


 私は腰に手を当てて、大きく息を吐き出しながらそう言った。

 私が初めてこの店のご飯を食べた時、その美味しさは勿論、一見素朴そうに見えるけれどほっとして何度も食べたくなるような優しい味に、とても感動したのだ。

 お陰で何日も通い詰めてしまい、従業員が高齢化していて後任を探しているのだけれどなかなか見つからないのだ、とぽつりと漏らした女将さんに、ぜひ働かせて下さい、と頭を下げて頼み込んだ程である。


「はは、ありがとね」


 厨房から顔を出した女将さんは、嬉しさを隠しきれない顔でそう言うと、手にしていた紙袋を私に差し出した。紙袋の底に触れると、まだほんのりとあたたかい。


「もう落ち着いてきたし、そろそろ海においき。お腹が空いてるだろうから、それは人魚様と一緒にお食べ」


 人魚様の好きなチーズもたっぷり入れてあるから、と言われて、私は以前、人間の作ったものでチーズが一番の発明じゃない、と言って感激していたマーレを思い出して、小さく笑みを零してしまう。

 中身はきっと、たっぷりチーズが乗った白身魚のフライサンドだろう。


「はい! きっとマーレも喜びます。ありがとうございます!」


 時刻は午後一時を少し過ぎた頃。

 マーレとの約束は、二時ぴったり。

 美味しそうな匂いが漂ってくる紙袋を抱えて、私は海へと走っていった。

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