第4話 化石になる前に形になるのかさえわからないけど


 マーレと出会ったあの時、どうやったら助けられるかわからなくて途方に暮れて、それでも何とかしなくちゃともがいて全身をびちゃびちゃに濡らして、汗と涙でぐっちゃぐちゃになった顔で……、今考えてみても、どこからどう見ても好かれる要素のないそんな状況下で、何故マーレが私を気に入ってしまったのかは、本当に理解出来ないし、謎でしかない。

 それからは、浜辺を通りかかる度に声をかけられ、何となく交流をしていた筈だったのが、いつの間にかすっかり懐かれてしまい、挙句の果てには、会いに来てくれなきゃ海を荒らしてしまうかも、などという理不尽極まりない脅しをかけられて、毎日決まった時間に彼に会いに行く事になったのだ。

 何をどうやって彼にそこまで好かれてしまったのかは本当の本当に不思議でならないけれど、マーレ曰く、人魚族は昔から、気立てのいい人間を好むという。

 気立てもいいも何も、酔っ払って海に入ろうとしている人を助けるのは普通だし……、本当に、人魚族の考える事はよくわからない。

 それに、彼は毎日毎日飽きずに好きだのかわいいだのと褒めそやし、いつだって好意を示してくれている。

 私は、自分がそんな価値のある人間だとは思えないのだけれど。


「どうして? ルエラより頑張り屋さんでかわいい人なんて見た事がないよ」


 過去を思い出しながら岩場に腰掛けてぼんやりと透き通るピンク色の海を眺めていると、マーレがそう言って顔を覗き込んでくる。


「いるよ、いる。普通にいるから」


 背後からべったりとくっつかれながら、私はバッサリと彼の言葉を一刀両断した。

 始めこそ、こんな綺麗な顔をした人に密着されては心臓が破裂してしまう、などと動揺したり緊張したりしたものだけれど、彼は人魚族である事を除けば、子犬のように人懐っこくて甘えたがりな性格をしている上に、幼い子供がしてくるようなスキンシップが多いので、次第に慣れてしまったのだ。本当に、慣れというものは恐ろしい。いや、本当に。


「ルエラはね、特に笑顔が良いんだよね。笑う時、心の底から楽しそうに笑うから、見ているととても晴れやかで堪らなく嬉しい気持ちになるんだ」


 自分の言葉に納得するように何度も小さく頷いてそう言ったマーレは、心底嬉しそうな声で言葉を続ける。

 肩に頭を乗せられているから、話す度に柔らかな銀髪が頬に当たって、少し、くすぐったい。


「柔らかくてふわふわした薔薇色の髪も、朝焼けみたいに透き通っていて綺麗な瞳も、毎日見る度にね、素敵だって思うんだ。手だって一生懸命に働いている人の手だ。人魚は頑張っている人間が好きだけど、その中でもルエラは特別に頑張り屋さんだもの。そういう所も大好きだよ」


 正面に回ってさり気なく手を取り、そっと握り締められながら、彼は少しも恥ずかしがる事なくそう言ってみせる。

 慣れてきたとはいえ、正面から真っ直ぐに見つめられると、流石に顔がぼわっと赤くなってしまい、私は慌てて手を後ろにやって、顔を背けた。


「わ、わかったから!」


 褒め言葉のバリエーションに底などないと言わんばかりにぽんぽんと飛び出してくるので、聞き慣れたようでも聞き流せないのが困りものだ。

 こう毎日会っていればいい加減尽きて来そうなものだが、不思議な事に多種多様な褒め言葉が出てくるので、ある意味とても感心してしまう。


「そんなに無理に誉めなくていいよ。髪だって潮風でこんなにぱさぱさなんだし……」


 潮風というものは何でだか髪を痛めてしまうらしく、すぐにぱさぱさになったりごわついてしまう。

 毛先だってこまめに切っておかないと、痛んですぐに枝毛だらけになってしまうのだ。

 毎晩ヘアオイルで丁寧に手入れをしているけれど、朝になって櫛で梳かすと途中で髪が絡んでしまって櫛が止まり、毛先までするんと抜けた事はない。

 そんな事を思い出してしまい、憂鬱な気持ちをそのまま溜息として吐き出すと、マーレは不思議そうに首を傾げていたけれど、少し考える素振りをしてから、にっこりと笑っている。


「ちょっと待ってて。いいもの持ってきてあげる」


 そう言って海に飛び込み、水面に身体を沈めかけた所で、何故かマーレはすぐに顔を上げてしまっていた。

 何、どうしたの、と私が声をかけると、マーレは不安そうに眉を下げていて。


「ねえ、本当の本当に、待っていてね? 帰っちゃダメだよ?」


 その様子に、私は思わずくすくすと吐息混じりに笑ってしまった。

 だって、いつも無邪気に無遠慮に振り回してくるくせに、まるで置いていかれそうになった子犬みたいだったから。

 何だかかわいい、って思ってしまったから。


「そんなに心配しなくても、マーレが戻ってくるまでちゃんとここで待ってるよ」


 私の言葉に、マーレはほっと安心した顔をして、それから、うん、と嬉しそうに頷いた。

 透き通るピンク色の海の底に、銀の鱗がきらきらと光を弾いて輝いて消えていく。

 ほぼ毎日当たり前のように会って話をしているせいか、どうも彼を長命種と感じる事は少ないけれど、こうして滑らかに海の底へ潜っていくマーレを見ると、やっぱり人魚族なんだなあ、と私はぼんやりと思ってしまう。

 マーレはそう時間をかけずに戻ってくると、器用に岩場に乗り上げて、服の袖から櫛を取り出した。

 細身で平べったい形のその櫛は、白い地に青や緑の光沢のある貝のようなものが埋め込まれていて、光に当たるときらきらと輝いている。


夜光珊瑚やこうさんごで作られた櫛だよ。これを使うと髪がツヤツヤになるんだ」

「ふうん」


 まるで怪しい露店販売の謳い文句のようで胡散臭い気もするけれど、と私が訝しげに見つめていると、梳かしてあげるね、とマーレは楽しそうに私の髪を手に取って、櫛を通していく。

 あんなに高そうな櫛、途中で髪が引っかかって抜けなくなったり、歯が欠けてしないか心配だなあ、と思いつつ、ゆっくり髪を撫でるようにマーレが櫛を動かしているのを感じながら、穏やかな波が寄せては返していくのを見つめていた。

 ピンク色の海は眩しい陽光に照らされて、水面が光を弾いている。

 昔はプランクトンのような微生物が大量発生した際に海の色が変わったとか、赤い色素を持つ藻類の為だとか、高い塩分濃度の為だとか、色々言われていたらしいけれど、今の海は何故この色へと変化してしまったのか、世界中の学者や研究者達が調べてみても、よく分かっていないらしい。

 そもそも、空のように青い海など生まれてから一度だって見た事もないので、昔はそれが当たり前なのだと言われても、いまいちピンとこないし。

 そんな事を考えていると、心地いい潮風が首筋を撫でるように吹いていて、ふと、さらりと流れる赤い髪が視界に入ったのに気がついた。

 ……ん? 私の髪、こんなにさらさらしていたっけ?

 あれ、と思った私は、一房手に取って毛先をよく見てみる。

 手に取った瞬間、そろそろ切らなければと思っていた傷んだ毛先が、今まで見た事もない程につやつやと輝いていて、触り心地も絹織物みたいになめらかだ。


「えっ? 嘘、何で?!」


 思わず振り返ろうとすると、あと少しだから動かないで、と慌てたマーレの声がして、私はごめんと返して肩を縮こませた。

 だって、あんなに傷んでぱさぱさだったのに、魔法と言われてもおかしくないくらい綺麗になっているんだもの。

 人魚族が飛び抜けて整った容姿をしているのは、こういう魔法みたいな道具を使っているからなんだろうか。そんな疑問さえ湧き上がってしまう。


「出来たよ。どう? 気に入った?」


 いつの間にか櫛とお揃いの手鏡まで出してきたマーレは、そう言って、髪が見えるように鏡を向けてくれた。

 いつもなら湿気でぼわっと広がってしまう癖っ毛が、すっと落ち着いていてまとまっているのが鏡に映っている。

 嬉しさと驚きのあまりにわあわあと騒いでる私を見て、マーレは嬉しそうににこにこと笑って聞いてくるので、私はすんなりと頷いた。


「うん、人魚族の道具って凄いんだね」

「そう? ルエラが欲しいならあげるよ」


 はい、と、いとも簡単に櫛と鏡を差し出されて、私は慌ててぶんぶんと首を振る。


「駄目だってば、こんな高価そうなもの」


 こんな凄い物、もしお店で買ったなら、私の一ヶ月分のお給料じゃ絶対足りない筈だもの。それどころか、高級品過ぎてお店に入る事すら出来ない気がする。

 私が頑なに拒否していると、マーレは少し考えてからパッと目を輝かせて、顔を近付けてくる。

 距離が近いし、嫌な予感がしてならなくて、私は思わず眉を寄せてしまった。


「じゃあ、この櫛をあげる代わりに、ルエラの歌を聞かせてよ。それが代金って事でいいから」

「えっ? そ、それは、ちょっと……」


 そうは言うが、いくらなんでも対価に見合わないし、お母さんやおばあちゃんが歌っていた子守歌や舟唄くらいしか、私は知らない。流行りの歌もいくつか知ってはいるけど、マーレの前で歌うのは恥ずかしくて、歌うのは躊躇われる。

 それに、私…………、すっごい音痴、だし。


「最近、人間達の間で流行ってる恋の歌があるんでしょう? それがいいなあ」

「待って。なんでそんな事知ってるの?」

「内緒。ねえ、それより早く歌って」

「絶対音痴だってマーレ言うもん、嫌だよ」


 人魚族は人間を惑わす程のとてつもない美声だと言われているし、実際聞いた事のあるマーレの歌声は、そっと耳元で優しく囁くようで、けれど、透明感があってどこまでも響くような、神秘的な魅力のある声だ。

 口ずさむ歌自体、人間とは異なる不思議な言語が使われ、今まで聞いた事もないのにどこか懐かしさを感じられるメロディは、スッと耳に入ってくるのに、いつまでも耳に残ってずっと忘れられない、と思わせるものだった。

 そんな美声の持ち主に歌を聞かせたい人なんていやしない。

 歴戦の歌手や有名な吟遊詩人だって、そんな場面に出くわしたら裸足で逃げ出したい筈だ。

 勘弁して欲しい、と口端を引きらせていると、マーレが両手をぎゅうと握り締めてきて、ことりと頭を傾けている。


「たとえ音痴でも、ルエラは一生懸命歌ってくれるよね?」


 きらきらと目を輝かせて期待に満ちた顔でそう言われてしまえば、結局、私は逆らえずにそうするしかなくなってしまう。

 はあ、と大袈裟な程に溜息を吐き出した私は、仕方ないなあ、と溜息を吐き出した。

 流行りの恋歌、と言っても、定期的に音声放送を流しているラジオで軽く聴いたくらいだ。

 甘ったるい歌声に、ふわふわしたメロディに、好きな人に対しての気持ちを素直に前面に表したような、かわいらしい歌詞。

 あまりにも自分とはかけ離れた感じがして、歌うのが恥ずかしくてたまらない。

 でもこういうのはきっと勢いが大事だから! と意を決して、息を大きく吸い込むと、私は歌い始めた。

 あれ、こんなメロディじゃなかったかも? ていうか、この歌詞って、改めて歌ってみると、何だかすっごく恥ずかしくない?

 ごちゃごちゃ考えながら私が歌っていると、マーレはふにゃふにゃの嬉しそうな顔で笑っているものだから、だんだんと恥ずかしくなってしまう。

 思わずもごもごと口ごもって、声が小さくなって、結局は歌が途切れてしまうけれど、マーレはその事に不満を言ったりはしなかった。

 それどころか、ここ一番の満面の笑みを浮かべている。


「ルエラの声、大好きだなあ。伸びやかで透き通っててとっても柔らかくって、それなのに音が盛大に外れまくってる所が最高にかわいい。聞いていると胸がじんわりあたたかくなる。ずっと聴いていたいなあ。すっごく音痴だけど」

「ねえ、結局音痴って言ってるじゃない!」


 私は恥ずかしさのあまり、マーレの肩をぽかぽかと叩くけれど、彼はますます嬉しそうに笑うばかり。


「だって、人魚族は嘘を吐けないんだもの」

「種族のせいにしないでよね……」


 もう、と私は大袈裟に溜息を吐き出すけれど、本気で怒っているわけじゃない。

 だって、正直言って、こうしてマーレに誉められたり甘やかされたりするのは、嬉しい。

 大人になればなるほど褒められる機会はないし、甘やかされる事もない。

 ましてや、相手の褒められる所を毎日飽きもせず見つけて言葉にしてくれる人というのは、そうそういないだろう。

 それに、こうして日々振り回されているのも、本当は、ありがたいとさえ思っている。

 お母さんが亡くなって、おばあちゃんを頼りにこの街に来て、それなのにおばあちゃんまでいなくなってしまって。

 私は、ずっと生きていくのに必死だったから。

 だから、こうしてずっと私を見ていてくれて、どんな細かい所だってルエラの良い所なのだと言ってくれて、笑っていられる時間を作ってくれるマーレがいてくれるのは、本当にありがたい事なんだ、と思っているのだ。

 それを素直に言うには、まだ恥ずかしさが邪魔をしてしまうから……、今はまだ、無理だけれど。

 マーレはくすくすと吐息混じりに笑うと、海風で頰にかかった髪を指先で払いながら、柔らかにピーコックグリーンの瞳を細めている。


「人間はとても弱いし、僕達より寿命も短いでしょう? だから、たくさん好きな気持ちを伝えておきたいんだ」


 人魚族はいわゆる長命種と呼ばれる人種の一つであり、平均でも五百年以上は生きると言われている。

 マーレの年齢は百歳ほどだそうで、人魚族の中でもまだ若く、人間で言ったら多分ルエラと同じくらいだよ、と笑っていたけれど、人間とは感覚が違い過ぎて、私には到底理解が及ばない。

 そう、百年。百年前といえば、丁度〈星の嘆きアステリラメント〉と呼ばれる大災害が起きた頃だ。

 ふとその事に気がついた私が顔を上げると、マーレは少し淋しそうに笑っている。


「生きている間、たくさん僕が好きだって気持ちを知っていて欲しいから」


 私は何も返す言葉が見つからなくて、だけど、マーレの気持ちを見て見ぬふりもしたくなかったから、静かに頷いて、視線を俯かせた。

 波の音が静かに響いていて、マーレの言葉ごと、耳の中にいつまでも残るようだった。

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