わたしのマヌカン

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わたしのマヌカン

〈/head〉

〈body〉


「ただいまー」

 いつも通り、深夜一歩手前くらいの時間。わたしは玄関扉を開けて、居間へと続く廊下の電気をつけて、親指が押さえつけられてじんじん痛いパンプスを脱ぎ散らかす。ドスドスと遠慮のない歩きでシングルベッドへダイブ。六畳一間、わたしのぜんぶ。家賃はギリギリ都内で六万円ちょっとだから、まぁ文句はない。友だち恋人その他を招く予定もない。そもそもそんなモノはいない。

「はぁ~~~」

 スーツ姿のままズブズブとベッドへ沈んでしまいそうだった。浮かんでくるのは華の二十代がおおよそ出してはいけないような中年じみたため息だけ。ああ、そうだ。もうあと二年もすればわたしは二十代でもなくなる。つまり華の時代は終わって、ゆっくりと枯れていくだけ。

「仕事やめたい」

 もうほとんど口癖のようなものだ。たぶん本当にやめたいとは思っていない。いや、やめたいのはマジだけど、『転職活動』『職場ガチャ』『ぼんやりとした将来の不安』などなど……。わたしの足をねっとりと掴んで離さない魔物たちによって、わたしは一歩踏み出せないでいる。まぁ、ネットの記事とか見てるとその魔物たちはハリボテで、案外簡単に倒せるらしい。「ふーん、あっそう、え、でもわたしの魔物は結構デカくて強いけどね?」としか思わない。そんな謎のマウントとられても意味不明だろうけどさ。

「仕事やめてぇ」

 もはやため息の領域。

「そんなにやめたいなら、やめればいいと思うよ」

「えっ」

 えっ。なんかいる。部屋の中央に人型のナニカが。顔の部分は卵のツルツルな表面に油性マーカーで適当に線を引いたような感じ。不気味だ。両腕は無くて渦巻き状の肩パッドが目立っている。ダサい。お腹のあたりは。本来あるはずの肉と内臓が詰まったはずの腹がなくて、代わりに空洞がある。うん? 空洞はなにもないから空洞なのであって、その空洞を「ある」と表現するのもおかしな話か。いやでもぽっかりと空いた穴は、興味本位にすこし覗いただけでも正気を失いそうだ。そんな恐怖感は、ある。もう一度そいつの顔(のような部分)を見る。あいにく見覚えはない。

「……どちら様?」

 そう訊ねながら、わたしは一一〇番に通報するためにスマホを手に取っていた。あきらかに人間じゃない存在でも対処してくれるだろうか。まぁ、熊とか猪とかと格闘しているニュースたまに見るし、大丈夫か。

「やぁやぁ、ぼくはきみのマヌカンさ」

 少年のような溌剌とした高い声に、老婆のようにしゃがれた声を混ぜたような音だった。落ち着くような、不安になるような、脳内に焼きついて離れないような、次の瞬間には霞のようにぼやけてしまうような……。わからない。聞き覚えはない、たぶん。

「ちなみに通報しても無駄だよ。ぼくはきみにしか見えないからね」

 ぽろり、とスマホを取り落とした。なにを言っている? こんなデカいのがわたしにしか見えないわけがない。

「マヌカンは心象。きみのこころが生んだモノ。オンリーワンだよ、やったね」

 全然「やったね」じゃない。わたしの子どもはもっとこう……、可愛らしいものだと思う。

「えっと、そのマヌカンさんがなんの用? あいにく、わたしはこれからご飯を食べてお風呂に入って睡眠を取って、仕事に行かなきゃならないの」

「用があるのはぼくじゃなくて、きみのほうさ」

「はぁ?」

 心当たりはない。刻一刻と睡眠時間が削られている。ローテーブルに置かれた目覚まし時計が「チッ、チッ」と悲しげに鳴き続けて、焦燥感が沸き立つ。

「言っただろう? マヌカンは心象。マヌカンは客観性。悩みがないと生まれない。話してごらんよ」

 マヌカンは顔をじっとこちらに向ける。油性マーカーみたいな曲線がゆらゆらとうごめく。眼はないはずだけど、わたしのことを見つめているのがわかる。

「…………いやだ。わけわかんないし。明日も仕事だから、そんな暇ない。わたしが生んだモノならわたしの意思で消せるよね? 消えて」

 大げさなため息がひとつ聞こえた。マヌカンはないはずの肩をすくめたようだった。

「わかったよ。今日のところはお暇しよう。ただ忘れないで、ぼくはいつだってきみが健やかに過ごせるように願っているんだ。それじゃあ、また」

 そう言い残して、初めからなにもいなかったかのようにマヌカンは消えた。「チッ、チッ、チッ、チッ」さっきよりも大きく聞こえる気がするのは気のせいだろうか? 残されたのは、六畳一間にわたしがたったひとり。

「ご飯食べてお風呂に入って寝よう」


 そしてまた、仕事。



「ただいまー」

「おかえり」

 いつも通り、深夜一歩手前くらいの時間。わたしは玄関扉を開けて、居間へと続く廊下の電気をつけて、親指が押さえつけられてじんじん痛いパンプスを脱ぎ散らかす。ドスドスと遠慮のない歩きでシングルベッドへダイブ……、するつもりだったけどやめた。とりあえずベッドを椅子代わりに座った。

「なんでいるの」

 部屋の中央を陣取るバケモノは、指摘されたこと自体が想定外だ、とでも言いたげに首を傾げた。憎たらしいにもほどがある。

「今日は災難だったね。あれはきみのミスじゃない。ぼくはわかっているよ。取引先との打ち合わせをダブルブッキングしたのは高橋くんだろうに、きみが叱責されるのは……」

「やめて。確認しなかったわたしが悪いから。高橋くんはまだ二年目だし、上司のわたしが責任を取るべきだった」

「ぼくはそうは思わないな」

 お前の意見なんて知らねぇよ……。わたしの額にはきっと青筋がくっきり出ているだろうけど懸命に無視した。

「高橋くんは社内で期待されてるし、彼も彼なりに苦労してる。W大学出身の有望株なんだから、やめられでもしたら、今回どころじゃないほどチクチクネチネチ言われるの、わたしが。そっちのほうがよっぽどいやだ」

「有名な大学を出ているから優秀なわけではないと思うけど……」

「優秀なの! そういう理解のほうが楽でしょ? そういう単純な物差しでしか図れないんだよ。わかったら消えて。明日は早めに出社するから……、今日のゴタゴタの尻ぬぐいを朝のうちにやらなきゃいけないの」

 マヌカンは少しだけわたしの顔を覗き込んで、心配するような仕草を見せた。すぐに離れて、いつぞやと同じようにないはずの肩をすくめる。いちいち癪に障る奴だ。

「わかった、消えよう。ただ忘れないで、ぼくは……」

「それはもう聞いたっての」

「……せっかちだなぁ。まぁいいさ。きみが望んだならそうすればいいし、ぼくはそれに従う。それじゃあ、また」

 また残されたのは、六畳一間にわたしがひとり。

 とりあえずなにか適当につまんでお風呂に入って、明日に備えて寝よう。

「ははっ」

 自分のモノじゃないみたいな笑いが漏れた。

 後輩をかばうのも、代わりに後始末をつけるのも、そのために時間を作るのも。

 望んだ? わたしが?

 なわけないじゃん。

「でも、しょうがないんだよな」


 そしてまた、仕事。



「ただいま……」

 いつもより遅い、日付が変わったくらいの時間。わたしは玄関扉を開けて、居間へと続く廊下の電気をつけることすらせず、親指が押さえつけられてじんじん痛いパンプスを脱ぎ散らかす。

 足だけじゃなくて体のあちこちが悲鳴を上げているから、ずいぶんゆったりとした歩みで居間に入った。当然ながら部屋のなかは真っ暗で、車のヘッドライトの光がレースのカーテン越しに浮かび上がっては消えていく。

「いるんでしょ?」

 暗闇のなかに得体の知れない気配がうごめく。

「電気くらいつけたらどうだい。ぼくは全く問題ないけどね、きみが困るだろう。それとももう早めに休むかい?」

「最近さ、わたしばっかり頑張ってるよね? 前田さん退社しちゃったもんね、その分みんな均等に仕事が増えるよね。『つらいだろうけどすぐに新しい人が入ってくるんで、それまで辛抱しましょう』って斎藤課長言ってたよね」

 マヌカンはなにも言わない。本当にそこにいるんだろうか。

「わたしがおかしいのかな。仕事ってマジメにやるもんじゃないのかな。みんな、なんとなくでごまかして、終わらなくて、しょうがないからわたしがやる。そしたら笑顔でこう言うの。『いやぁホントにありがとう。流石だね。僕、私も見習わないとなぁ』って。わたしはこう返す。『そんな、みなさんのおかげですよ』ってヘラヘラ。気づけばわたし以外は退勤して、わたしだけが必死の顔でパソコンカタカタ」

 わたしは倒れ込むみたいにベッドに伏した。みたいに、じゃなくて実際に倒れ込んだのかもしれなかった。

「バカみたいだ。挙句の果てに、帰り際の課長に言われたよ。『結婚するのは自由だけど、前田さんみたいにやめちゃうのはナシね。みんな困っちゃうからさ』……。わたしの人生って会社のためにあったんだっけ? そうだよね、そうじゃなきゃおかしいもんね」

 急激な睡魔がどうしようもなく心地よくて、そのまま身をゆだねることにする。どうせ、目覚ましをかけ忘れようが、わたしの肉体は会社に間に合う時間に目覚めるのだ。そういう風にプログラムされている。せめて化粧は落とそうか……、いや、もう、無理だ、眠い。明日の朝、シャワーでも浴びて、ぜんぶまとめて洗い流してしまえ。

「せめてなにか食べたら」

 そうして身も心も清めたら、

〈script〉

do{玄関扉を開けて、通勤ラッシュよりも一、二時間早い電車に乗って、誰もいないオフィスに出勤する。それから誰もいなくなったオフィスを退勤して、乗客もまばらな終電間近の電車に乗って、玄関扉を開けて、業務に関係ないことをぜんぶ忘却するみたいに睡眠を取る。}while(<death)

〈/script〉

 ループから抜け出すことはない。

「本当に、やめたらいいのねぇ」

 マヌカンの能天気な声がうっすらと聞こえる。他人事だと思って。そう言い返したかったけれど、わたしという機械の電源は落ちる寸前で、よくわからないうめき声しか出せなかった。気がする。それすらわからない。

 違うんだよ。やめたいのは仕事じゃないんだよ。わたしがやめたいのは……


 そしてまた、仕事。



「………………」

 いつもよりずっと遅い、深夜が終わって未明に入るくらいの時間。わたしは玄関扉を開けて、上がり框に座り込んで、痛みに慣れたのか感覚すらしなくなったつま先を見つめる。オフィスを出たころにはとっくに終電なんてなくて、かといって会社に泊まったら課長に『ブラックみたいで体裁が悪いからよしてよ』と笑われる。結局タクシーを捕まえた。もちろんお代は経費にはならない。わたしが使だから。それで解決。誰もいやな顔しないし、面倒な手続きもいらない。

「マヌカン」

 反応はない。

「マヌカン、出てきて」

 背後に気配が生まれる。身震いするほど不吉なのに、どこか安心できる感覚。

「高橋くんやめちゃったよ、あっさり。手厚く手厚くサポートしてあげてたら、こんなぬるい職場はいやになっちゃったんだって。もっと自分の能力を活かせて刺激のある仕事を探すらしいよ」

 ほとんどひとりごとだった。いや、マヌカンが本当にわたしの心から生まれたものなら、これはまごうことなき、ひとりごとだ。自分のつま先に向かって、ボソボソと言葉を連ねる。

「すごいよね、若いよね、キラキラしてる、羨ましい、わたしもそうなりたかったな。そうあれれば楽だったのかな」

 最後だからぶっちゃけるっすけど、先輩のおせっかい正直ウザかったです。もっと俺のこと信用してほしかったというか、ちょっと口うるさかったし、お局って先輩みたいなひとのことですよね?

 君のマネジメントがちゃんとしてなかったから新人がやめたんでしょ。当然その分の穴は君が埋めるんだよね?

 ねぇ、あのひと高橋くんにお局って言われてたんだけど。

 お局(笑)。結構キツいこと言うなぁ、まだギリギリそんな年齢じゃないでしょ。

 でもちょっとわかる。あのひと恋人とかいなそうだし、ずっとこの職場にいそうだよね。

「マヌカン」

 自分のなかで、なにかが崩れる音がした。

「わたしの悩み、話すね。わたし、やめたいんだ。仕事じゃないよ、人生とかそんな物騒な話でもない。そもそも死ぬとか絶対苦しいじゃん。もっと簡単なこと……」

「なにを、やめたいんだい?」

 背後からわたしをぎゅっと抱きしめてくれた感覚がする。もっともマヌカンに腕はないから、これは錯覚だ。だけどあたたかかった。


「人間」


「人間?」

「そう。人間であることをやめたい。人間だから働かなければいけない。人間だから人間を気遣って、遠慮しなければいけない。人間だから我慢しなければいけない。人間だから結婚して子どもを残さなければいけない。人間だから毎日を生き続けなければいけない。……もう、いやなんだよ、人間であることが」

「なるほどね、そうか、それがきみの悩みか。人間であること自体が苦痛なんだね」

 マヌカン、うっすら笑っている?

「よし、わかった。きみの悩みを解決できるけど、どうする?」

「え?」

「人間をやめられるけど、どうする?」

「どうって、どうやって……」

 わたしは思わず振り向いた。電気をつけてないからマヌカンの姿はよく見えないはずだった。だけどマヌカンどころかその奥の六畳一間でさえも明るく照らされて見えた。

「簡単だよ。ここを覗けばいいだけさ」

 ここ。お腹の虚空のなかには星が瞬いていた。星座のように、無限にも思える膨大な数の輝きが、わたしを待っている。

 本能が叫んでいた、。恐怖で顔が引きつった。

 それと同時にどうしようもなく嬉しかった。やっとだ。やっとわたしは解放されるんだ。これは終わりなんかではない、そしてもちろん始まりでもない。『無』だ。

 身をかがめた。吸い込まれるように、頭を近づける。

「はははははははははははは」

 いよいよ堪えきれなくなったのか、マヌカンの大きな笑い声がこだまする。

「あははっ」

 わたしも吹き出すように笑った。愉快だった。心地よかった。心の底から安堵した。



 ありがとう。

 わたしのマヌカン。

 わたしはマヌカン。


〈/body〉

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