短編集
えくぼ
水底の思い出
何もない村だよね、というのが村の子供の口癖だった。
大人たちが「自然豊かな村です」と口をそろえて言うものだから、それを受けて言ったのが最初だったと思う。
実際、周囲を山に囲まれた村だ。バスは一日一本しか来ないし、カラオケや映画館、ゲームセンターや遊園地なんてのはまるで外国の話のようだった。
そんな村に、ダム建設の話は前から上がっていたらしい。
住民の退去完了予定が今年の八月ごろだという。
それを過ぎると僕たちはもうこの村には戻ってこれない。
「大人って嘘つきだよね、誠」
実里は座ったまま、僕に背を向けて不満そうにつぶやいた。
同い年の彼女も、同じタイミングで親に聞かされたのだろう。
僕は実里の後ろ姿を手がギリギリ届かない程度の距離から眺めた。
咲き乱れた白とピンクの蕎麦の花に、お気に入りの赤いスカートが沈み込んでいる。
ここは、僕と実里のお気に入りの場所だ。
村の子供がよく遊ぶ河辺からは少し離れており、近くに家もないため、誰もわざわざ来ない場所。
かつては畑だったらしいが、僕たちが生まれる少し前に持ち主が亡くなって放置されている。ここに続く道も倒れた木で塞がったままだ。
川ぞいの大きな岩の隙間を通らないと来れない場所であるため、ちょっとした秘密基地のようなものだった。匂いが少しきついことは難点。
「自然豊かだっていうのは嘘じゃないでしょ」
「でも沈んでもいいんでしょ。大人だって自然豊かより便利な方がいいってことじゃん」
「じゃあ、沈むって聞いてショック受けてる僕らも――」
――嘘つきだね。
何もない村だなんて、思ってもいないことを。
結局、二人とも頭ではわかっていた。
今抱いている寂しさなどいつかは薄れて、それよりも娯楽にあふれた生活に馴染めてしまうことは。
大人に無理矢理反抗するでもなく、退去ギリギリまでお気に入りの場所に通い、花が枯れた後は尖った三角の実を収穫していた。
そして時は流れ、ダムができたころに二人で再び訪れた。
かつての村の様子は面影もない。
他で見たことのあるダムと大して変わらないその光景を見たところで、何かが変わるとは思えなかった。
じっと下を見ていた実里は、おもむろにカバンから袋を取り出した。その中には直前まで収穫していた蕎麦の実がすべて入っていた。そしてそれをひっくり返して、ダムへと捨ててしまったのである。
「それ、よかったの?」
「だって見るたびに思い出すだけだしね」
「懐かしい」と「寂しい」は似ているのかもしれない。
実里の栗色の髪から覗く横顔を見て、そう思わずにはいられなかった。
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