ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢生活
天三津空らげ
泣きたくなるような、異世界転生
第1話 お金がナイ
もうダメだと思った。
とても寒い。
身体中が痛くて、頭痛がする。
そういえば階段から滑り落ちたんだっけ……運良く生き延びたようだ。絶対死んだと思ったのに。よかった、よかった。
のろのろと瞼を開くと、薄暗い天井が目に入る。天井の隅の蜘蛛の巣からホコリを吸いつけた糸が垂れていてた。
--どこ、ここ。
病院ではない雰囲気に不安になる。
それにこんなに寒いのはおかしい。
初夏のはずが、まるで初冬の寒さだ。
「リーナお嬢様、意識が戻られたのですね!」
現代の日本では一般的とはいえない平織りのタオルと、蝋燭一本灯した燭台を持った、老齢の女性が部屋に入ってくる。
「マハラ…」
自然と彼女の名前が、唇からこぼれた。
目の前の優しげな女性は、私が知らない人なのに、私の知っている人だと確信があった。不思議な感覚だった。
「よろしゅうございました。お身体を拭かせていただきますね」
もしかしたら、夢を見ているのかも知れない。
見知らぬ天井。老女のどこか古めかしい雰囲気のある、服装に前掛け。
自分の肩から流れ落ちる、緑がかった水色の髪。それは不思議な薄荷色。ミント……色……?
(これなに? え? 髪?! 私の髪????!)
そして頭に流れ込む、別の人生の記憶。
そして今まで生きてきた記憶。
それらが、珈琲にミルクを注いでカフェ・オ・レになるように混ざり合ってゆく。
日本の地方で平凡な会社員をしていた三十二歳。女性。名前は松田理奈。特に手に職があるわけでもなく、地元ではそこそこ大きな会社で一般事務職をやっていた。
高校時代から付き合っていた彼氏もいたが、向こうに結婚の意思はなかったようで、三十歳になる前に別れた。自然消滅に近い形で。
その後はとても恋愛なんてする気も起こらず、親が元気なので、開き直って結婚せずに実家に居座る気でいた。
その日は買い物を頼まれて、歩いていける距離にあるスーパーで買い物をし、両手に重い買い物袋を持って歩いていた。
途中から雨が降り出し、慌てて横断歩道橋を渡る。濡れた階段でずるりと足を滑らせた時に、「これはやばい」と確信した。
尾てい骨と頭を何度もぶつけながら、階段を滑るように落下した。買い物袋の中の牛乳と卵は確実にもうだめだと思った。
だが本当にもうだめだったのは、理奈自身だったのだ。
理奈の人生は終わった。そしてこの身体の少女に転生した。漫画や小説でよく読んだ異世界転生というやつなのだろう。
いや、ひょっとすると転移とか憑依とかなのかもしれない。どう違うのか正直わからないが、転生と違って、転移や憑依とかは元の身体の持ち主の魂が死んで、代わりにその身体に入っている状態であるパターンが多かった。申し訳なさが半端ないので、是非転生であってほしい。
元の身体の持ち主である少女の意識……というものは感じられないので、どちらにせよこの身体で生きていくしかないのだろう。
不思議な薄荷色の髪をした、この身体の少女の名前は、マグダリーナ・ショウネシー。
落ち葉が舞い散るこの秋に、十歳になったばかり。
この異世界の、ディンメル大陸にある国家の一つ、リーン王国の貴族……ショウネシー子爵家の長女だった。
父はダーモット・ショウネシー。
二歳下の弟がいて、名前はアンソニー。
母はクレメンティーン、故人だ。マグダリーナの髪の色は母親譲りだった。
待って、待って、貴族の家なのここ?
貴族令嬢なの? 私。
本当に?
違いはあれど、環境は古いヨーロッパ辺りに似た文化かなと、流れ込んできたマグダリーナの記憶から推測した。大きく違うのは、魔獣という魔力を持ったモンスターや魔法、エルフやドワーフという他種族が存在することだろう。
そしてこの子爵家の状態が、ひどい。
お金が無いのだ。貴族の家なのに。
マグダリーナの記憶によると、淑やかな貴族令嬢はお金の事は気にしないものらしい……とはいえ、五年程前から徐々に生活の質が落ち、使用人も辞めていけば、子供なりに家にお金がないのは察することはできる。
マグダリーナの母、クレメンティーンは三年前に流行病に罹り、辛うじて医者に診てもらうことはできたが回復薬に手が出ず、亡くなった。
マグダリーナも四日前から高熱を出し苦しんでいたが、医者も回復薬も用意されなかったのだ。
(せめて毛布があれば、いいのに--)
マグダリーナが体調を崩した日は急に気温が下がり、空気が肌を刺すような冷え込みを感じた。今年は冬がはやく訪れそうだと、父のダーモットが話していたのを思い出す。
くたくたの布地を二、三枚重ねて縫い付けてあるだけの薄い掛け布団の中で、理奈ことマグダリーナは、きゅうっと身を縮こませた。
いったいなんの罪があって、なんでこんな劣悪な環境の少女に、転生してしまったというのか……
理奈は地道に真面目に働いて生活していたというのに、あんまりだ。
熱は奇跡的に、翌朝には下がっていた。
その頃には理奈自身にも、自分はマグダリーナでもあるという事を、自然と受け止められるようになっていた。
何かの作用なのか、元の世界の家族のことも懐かしさはあっても、不思議と執心はなく、完全に過去の認識になっている。
起きても現実は変わらなかったし、一晩寝れば、大概心はなんとか落ち着くものだ。睡眠って素晴らしい。
マグダリーナがそうしていたように、一人で身支度を整え、食堂へ向かう。
貧乏子爵家では、使用人の手も足りない。マグダリーナはとりあえず、最低限の自分の世話は、自分で出来るようにはなっていた。
普段着るドレスも、辛うじて自力で着替えの出来る、装飾の少ない簡素なものであったのは助かった。
魔法や魔導具なんかがあるファンタジーな世界ならば、金銭面以外は然程不自由はないのでは? そう思ってみたが、そこにも貧困の影響はあった。
ショウネシー子爵家の王都の館は、貴族の住まいらしい広くて品の良い立派な邸宅だ。
ただし、掃除が行き届いていない。
蜘蛛の巣が自由に張り巡らされて、普段使う廊下の端にも埃が見えちゃったりする。
魔導具の動力源である魔石を買えず、全ての家事は完全に手作業で、この邸宅を維持するのに明らかに人手が足りていない。
特に日本で暮らした記憶がある分、衛生面には辛いものがある。
(まさか、魔石が買えなくて、水洗トイレが使用禁止……お……おまるだなんて……)
当然、お風呂を沸かすなど、夢のまた夢。
(寒くなったら薪とかの燃料も必要になるはず……とにかく、どうにかしてお金をなんとかしないと……)
今はまだ秋、しかしやがて確実に冬を迎える。
この国ではどこも、冬になれば雪が降り積もる。いまの布の掛け布団では確実に凍えそう。
マグダリーナになった松田理奈は、転生して真っ先にお金の事を考えないといけないこの異世界で、生きていく自信がまったくなかった。
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