第86話.生きてよ
彼はまだ反応してこないティアナに相貌を崩したまま。淡々とした中に、優しい笑みのようなものを浮かべた。今の言葉は何?
「あの」
「気にするな」
いや、気にするよね。でもその謎言葉を尋ねる前に、もっと気にしてしまう。
「ねえ。ほんとに私の影響受けてない? 私以外のことも考えられる? 昨日何食べたか覚えてる?」
自分の能力のせいで好きになってしまっていないか、凄く心配だ。前のめりでそう聞くと彼はわずかに黙り込んだ。あ、ムッとした? ちょっと優しい表情をみせるようになったのに。
「俺は、精神干渉は受けていないし、受けない。俺の意志で従わせるつもりだ」
「え?」
今、何言った? 聞き間違い? 何の話? し、た、が、わ、せる?
「まず人の死に関わったことのない人間に、責任をもたせない」
まあ、それは当然かも。けれど、私が主だよね?
「俺の主人になるということは承知した」
あれ? 彼が最初に主になってほしいと誓約してきたのに? おかしくない?
ティアナの頭の中で疑問符がグルグル回る。
ただ、彼に完全に主導権を握られたことを自覚した。
彼は唐突に、いきなり場の流れを変える。
「ちょっと待って、話がおかしいよ」
「不本意だが、あの下手な縄に縛られていた時に――」
何それ? 思い出す。あの街の縄? 下手な縄? 縛られていた時のことだ。
不本意? それは私の言うことであって、なぜ彼が不本意なの?
「思った。これは、主人として俺に従ってもらう必要があると」
「え……え?」
「当然だ。俺はリードを握らせるつもりはない」
「いや、ちょっと待って!? それおかしいから」
「おかしくない。そもそも、あんなセンスのない縄を抜けられないほど、未熟な者には従えない」
(センス、センスって何!?)
じゃなくて、かれの”主人”の意味がおかしくない?
「縄抜けって、魔法士に必要じゃな……」
彼の据わったような黒い瞳に言葉を飲む。宿屋の戸口の明るい方を見る。ウィルのいるあちらの世界に戻りたい。なんかこの世界怖い。
「縛られている姿はなかなかよかったが」
「……」
(ウィル、ウィル!! ちょっと助けて!)
肝心な時に来ない!!
「ところで縛られるのは好きか?」
「す、すきじゃ……ない」
彼の右手は壁にかけられていて、その先が宿屋の入口で。しゃがみ込んでしまったことを後悔する。彼もしゃがんでいて、逃げるにはまず立ち上がって。
それから走り出して、ぐるっと左手側から回って。
いや宿屋に逃げてどうする? だって追いかけてくるじゃない?
「ならば教える。逃げられるように覚えろ」
(いやもう、変! この人、変!!)
「俺以外に、傷つけられるのは許さない」
(なんか、言葉がちょっと違う)
「余計なお世話! それにあなたは――」
「――好きだ。それ以上の感情もある。それ以上行動で示してもいいなら、許可がほしい」
「だめ、ぜぅったい!!」
それ以上の感情って何!? って聞いちゃダメ。
それに行動って何、またキス?
慌てて、手で遮ると彼はかすかに眉をひそめた。
「……言わせても、くれないのか」
「お願いだから、しないでよね」
「希望はわかったが、俺がするかしないかは別」
「じゃあ、許可とか聞く必要ないでしょ」
彼はわずかに考えて「確かに」と頷いた。
「ちがう! 許可取って!」
言った瞬間、ヤバいと思った。これ許可するかしないかの問題じゃなかったー!!
「わかった、許可をとる」
「するかどうかは、別だからね!」
「一考はする」
というか、この人許可をしなくてもする人だった!
しかも何か楽しんでいる? わずかに口角があがっている。もしかしてこのやり取り楽しんでいる?
目線も外されないし、一言間違えてしまうと、すぐ自分が墓穴を掘る。
「私が主人なんだからね」
こんなバカなこと、言うつもりはなかったのに。
「わかっている。あなたが、俺の主人だ」
だから、と彼は続ける。
「俺以外のモノに、絶対に傷つけられるな」
なんて居丈高な命令。この人は不器用だ。そしてドS。独占欲も強いのに、でもその最後のつめが甘い。ティアナは、グッと瞳に力を籠める。負けてばかりじゃ、主人になれない。
「……私は、私の好きなように行動する。それは止めないで」
わずかに虚をつかれた顔に畳みかける。黒いグローブをはめた手、だらりと落とされた左手。もちろんそれは油断していたわけではないだろうけど。
それを手にして、己の頬にあてる。キスするときは容赦なく触れてきたのに、いきなりのことに驚いて逃げようとしているそれをぎゅっと掴んで、目を自分から合わせてのぞき込む。
「主人として命じるわ。”止めないで。その代わり私の命を守ってもいい。でも――あなたも自分の命を粗末にしないで”ね」
「それは――」
何を言おうとしていたかはわかるような気がした。たぶん制止。でもそこに言葉を重ねる。手を強く握り締める。命令はしたくない。
「お願いよ。命令じゃないの。私につられないで、”生きて”よ」
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