第80話.一緒にはいられない
不意に暗くなり、光が遮られて上を見上げる男たちが呆然とする、それに斧が振り下ろされようとするその時、風のような殺気が瞬間的に突き抜け瞬間的に血が吹き飛び散っていた。
(なに……?)
空間が揺れて、上を何かが通り過ぎる。鋭く空気を切り裂く刃に、ルーンもかき消され、リュクスが呼び出した刃も消えていた。
凍るほどの魔力に、背筋が強張れば同時に壁に何かが叩きつけられる。
鈍いぐしゃっという音に、顔をあげると黒ずくめの男が腕のない男の顔を掴み、壁にたたきつけていた。振り向いたその顔は、無表情だからこそわかるくらいに怒りに満ちていた。
――切断された腕が、壁の端でおもちゃのように転がっている。遅れてその切断面から血が流れだして、床に血だまりを作り、それが本物だと実感する。
突き出た腹のギルド長が壁に押し付けられて、まるで糸の切れた操り人形のように手足をだらりと垂らしている。それの顔面を無造作に掴んでいるのは、肩から腕までも鍛え上げた筋肉をまとったカーシュだった。
「――腕の次は、どこがいい?」
ギルド長の腕を切り落とした短剣が、本人の首筋に並行に突き付けられていた。
「まだ死なせない。――死ぬのはもっと苦しんでからだ」
抑えた声、黒い前髪から垣間見えた黒い瞳は、深淵のようだ。
「カーシュ……」
生臭い血の匂いは、医療現場で嗅いでいた。だから馴染みもあるけれど、この殺気と凍り付いて誰も動けない現場は初めてだ。
名をよんでも、カーシュはリュクスを見ない。
周囲の男たちの一人が悲鳴の代わりに喉から空気を漏らす。そのとたんに全ての人間が悲鳴を上げる。それが消えたのは、悲鳴があげられなくなったから、かわりにあちこちで血が噴き出る。
この部屋の最奥に来るまで誰にも気づかれなかったこと、その際には既に他者に致命傷を負わせていたこと、どれもがこの男の尋常じゃない力を見せつけられていた。ただ頭では理解できず本能で叫んでいた。
「カーシュ!」
尋常じゃないのは、彼の目だ。
まるでつかれているかのような、感情のない眼差しはもっとも理解できない。
「……こ、殺さないでくれ」
「お前たちがこの
彼の剣が、首からギルド長の眼に突き立てられる。『俺は一生忘れない』、それに全ての様々な感情が込められているよう。何を言ってもきいてくれないという宣言。リュクスの代弁として、彼が憤怒に近いものを向けている。
「選べ。目か耳か鼻か。お前が選んだその部位から順番に、この場にいる奴すべてのものを
切っ先が目に突き刺さる寸前。もう一度リュクスは叫ぶ。
「カーシュ、やめて!! そんなこと、望んでいない!」
押さえつけられているギルド長は、すでに出血多量でショック状態だ。そして階段周囲も三人ほどが倒れている。生きているのか、死んでいるのかわからない。
「止めなさい、カーシュ!」
「命令でも俺が、きくことはない」
リュクスに背を向けたままカーシュは告げる。リュクスはその宣告を受け止める。リュクスが今した“制止”は命令じゃない。
けれど、先ほどした命令のことを彼は指してもいる。感情を操ったことを含んでいる。悔しさも、腹立ちもあるだろう。自分が怒らせた。
「――じゃあお願いする。やめてちょうだい」
縛られたままリュクスは半身だけを、まるで芋虫のようにあげて彼に訴える。
「お願い?」
彼がどさり、とギルド長を腕から離す。
振り返るその目は何を考えているのだろう。いつもわからなかった、でも今わかるのは彼が傷ついているということ。目の前のギルド長のことも忘れて、カーシュの目に吸い込まれてしまう。
まるでこの空間に二人だけでいるかのようだった。
悪かったと言わなきゃいけない。でも、言ってどうするの? 取り返しのつかないことをしたのかもしれない。
(でも、しなきゃいけなかったのに)
リュクスは目に力を込めて、泣きたいような何かの感情を堪える。カーシュの傷ついたかもしれない気持ちを切り離し逸らす。
転がる巨体とその端にある腕。例え手だけでも、動脈が切断されていれば出血多量で死に至る。もしくは、痛みによるショック。
すでにもう――間に合わないかもしれない。カーシュに再度説得を試みる、その目は何を考えているの?
「そうよ。人を憎めばその感情は際限なく増して余計に苦しくなる。だからやめて」
カーシュの目を逸らさず見つめる。
「それは、主としての
「いいえ。――誓約も何もない、人としてのお願いよ。殺さないで」
リュクスを見下ろす顔は今度はわかりやすかった。わずかに上下する肩、下ろした腕から先の拳が握り締められている。聞かない、と言っているのに逡巡してくれているのだろうか。
見つめ合う自分たちは、まるで駆け引きをしているみたいだった。
不意に、彼が身じろぎした。目を動かしもしていないのに、気配をそちらに向けたのがわかる。
背後にはウィルがいた。回されたその腕から伸びるのはウィルの切っ先。その剣は赤い燐光が輪になってカーシュの喉に突き付けられていた。
「何やってんだ。カーシュ。アンタ、らしくない」
「……」
ウィルの声は今まで聞いたことがない程、低く冷ややかだった。けれどリュクスへの眼差しもこれまでとは違う他人のようだ。
「邪魔をするな。
「そして、全員抹消か?」
「――」
二人の殺気が高まる。異様な光景だ、周囲には死にかけた人間たち、あちこちに血が飛んでいる。
「殺すのは必要性のある者のみ、最小限に。そして秘密裏に。こんな派手なやり方が“俺ら”のものか?」
だまるカーシュとウィルを、リュクスは動けずに聞いてみていた。
「私情を挟むな。それがアンタの鉄則だっただろ。これが私情じゃないってどこに言えるんだよ!!」
ウィルに怒鳴られて、黙っていたカーシュが口を開く。そしてウィルが刃先を引っ込めると彼はゆっくりと歩み寄り、リュクスの縄を切る。
「ウィル、
自由になった腕と足を何とか動そうとすると、支えようとするカーシュの腕が伸びてくる。よろめいたから思わず伸ばしたのだろう、それとも気遣われた? でも掴まず、よろめくのを堪える。
血の通う感覚、しびれてきた手足は本当は痛くて動けない。一度目をつぶって堪える、大丈夫そうだ。
リュクスは、カーシュのその手を払いのけて腕のない男に駆け寄る。すでに血だらけの海に沈んでいる。
その頸動脈に手を触れる。出血が多量になれば、循環血液量が減るから頭を優先して手首では脈が取れなくなる。最後には脳への血流が優先されて、首の頸動脈のみに拍動が触れることになるが、もう触れない。
息もしていない。リュクスは素早く、心臓マッサージを始める。がくがくとリュクスの押す動きだけで体が揺れる。
「ウィル、そちらで倒れている人の介助を!」
「無駄だ。死んでいる」
「殺したのは、誰よ!!」
カーシュの声に、口を引き結ぶ。相変わらず目の前の男は、リュクスが胸を押すたびに、揺れるだけ。もう土気色に肌がなっている、目を見開き死んでいるのがわかる。
あちらの倒れ伏す男達の周囲には一見血は見えない。けれどカーシュが言うのであれば、そうなのだろう。
「モリガンジュニア、倒れている男たちを救助して!」
モリガンの息子は、震えていたが四つ這いでようやく動き出す。でも腰が抜けたのだろう、たどり着けないと首を振る。
リュクスは心臓マッサージをしていた男のシャツのボタンを外して胸を直接さらして、拳を握り締めて胸に叩き下ろす。
バン、という音が響いても体が揺れるだけだった。電気ショックの代わりだ。そして脈をとるが、やはり触れない。瞼を開いて瞳孔を見ても動かない。
――死んでいる。
もう間に合わない。倒れている男の一人を仰向けにすると目を見開いていた。だらりとした体、耳から流れる血。何をどうしたのかわからないけれど、死んでいた。
逃げ出そうとする男を、ウィルが階段前で片足を伸ばして壁までつき塞いでいるのが見えた。
こんなに、死んでいる人たちを見たことがない。どうしたら……いいの? ひとりで。
そして実感する。
(救命は、機械がないと、点滴がないと、できない)
点滴でその場をしのいで、輸血をして循環血液量を増やす、その合間に損傷個所の止血をする。ショックを起こしたら、薬剤や電気刺激で心臓を動かす。呼吸をしていなかったら、酸素投与や、呼吸器をつける。
道具がないと、薬剤がないと救命ができない。
『神に祈るしかない』
ここはそういう世界。
自分の言葉が今返ってきている。
『アンタの母親はしていたよ、蘇生魔法っての?』
蘇生魔法、そんなことしたことがない。リュクスは目を閉じて、彼らを感じようとする。でも何も感じない。命が消えていく、そんなこともわからない。ただ生き残った男たちの恐怖と叫びだけ。
「上に行っていろ」
カーシュがリュクスの傍によって、肩を叩こうとするのを振り払う。そして振り上げた手で頬を叩いた。バチンと大きな音がしたが、彼はよけなかった。それどころが首も動かなかったし、条件反射で目をつぶりもしない。
リュクスも、ルーンで彼らにやり返そうとした。けれど殺すつもりはなかった。あくまでも逃げ出すための隙を作ろうとしただけで、こんな風に戦慄の場を作ろうとは思わなかった。
でも彼はリュクスが傷つけられたために、それに関わったこの場全員を片付けようとしている。
「あなたたちの心を操ろうとしたのは悪かったと思う、ごめんなさい。助けてくれたのも。でもこんなふうに殺さなければ、いけなかったの?」
そして目を閉じる。これは自分の中から湧き上がる感情的なものだろうか。言わなきゃいけないものだろうか。
「……俺は――」
彼の上から言葉を被せる。言い始めて、彼の声が初めて言い訳をするようなものだったことに気づく。
「私は人を助ける性よ。あなたは人を殺す性。私のためにそれをするならば、今度こそ一緒にはいられない!」
自分を好きにならないで、と嫌わせたのは自分のためだった。もう自分が傷つきたくなかったから。
でも、これは違う。根本的に、価値観が違う。合わない。
いいきって立ち上がる。傷ついた瞳を見るのは嫌だった。傷つけたと罪悪感を持ってしまうから。だったら最初から言わないべき。でも自分はいつも言いすぎてそれを後悔する。
ウィルが乱暴に腕を掴む。
「いくよ、ティア」
「怪我人をほっとけない」
「彼らは俺らに助けられたくない、そして助けられないのもわかってるだろ。立ち上がらないなら、そのまま意識を失わせる」
ウィルが強くリュクスの腕を掴んだまま、カーシュに怒鳴る。
「アンタはここの後始末をするんだろ。でもな、頭を冷やしてからやれよ。カーシュ」
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