第71話.最初のプレゼント
屋敷の主人は、落ちつかない様子で部屋の奥で待っていた。片手に琥珀色の液体の入ったグラスを持ち、憔悴している様子だった。
「無事なのか」
「ええ。少し小さいですが。あとは、モリガン先生にお任せします」
書棚の前のソファに座り込んでいたモリガン医師は、屋敷の主に顔を向けられて尊大に頷いた。
「運がよかっただけですよ。たまたまうまくいった。この娘がなにかしたわけじゃない」
「――そうですね。頑張ったのは奥様ですから」
リュクスは頷いた。お産は無事に産まれれば、あとはめでたし、というところがある。
無事に産まれたのだから、自分が何をしたとか、どうでもいい。それに、モリガン先生には赤ちゃんとエレインを任せなくちゃいけないし。
「――男、だと聞いたが。やはり本当なのか?」
ただ主人からの質問には、リュクスはため息を漏らしてしまう。
この世界では女児が望まれる、けれど聞きたくはない言葉だった。
それにこの主人だって、どちらの性別でもいいから無事にと望んだこともあるはず。
悔しそうな苦い顔をしている彼の顔を見据える。
「旦那様。どちらでも、命がけで産んだ母親にとっては大事な我が子です。もちろん旦那様にとってもそうとは思いますが」
ですから、と続ける。
「この質問は、私で最後に」
黙り込む主を背に、リュクスは部屋へと戻る。
部屋に戻ると、赤ちゃんはエレインの懐で泣いていた。
リュクスは口元に笑みを浮かべて、再度授乳を手伝って抱き直させる。
「――あの人、仕方のない人でしょ?」
エレインは語らなくても、すべてを見通していたようだ。
「でも許してあげて。それに、トニーも愛してくれているわ」
上の息子を愛していると庇うエレインにリュクスは頷いた。
そうなのだ、仕方がないこと。彼なりに自分の子どもたちを愛しているのはわかっているし、愛し方に部外者の自分が言うことはない。
「――ねえリュクス。あなたの名前を教えてくれない?」
横たわるエレインが気だるげでいながら、意思を感じさせる口調で問いかけてくる。
「あなたは本当の名前があるでしょ?」
異世界から来た幼児は女神の恩恵を受けた子として、
そして、この世界になじませる。元の世界は忘れさせる処置の一つだ。
リュクスは呆然とした。まさか、そんなことを聞かれるとは思わなかった。
「――私は」
「あなたは、それを覚えているのじゃなくて?」
あなたには本当の名があるのだと、そんなことを察して聞かれたのは初めてだった。
母親としての勘だろうか。彼女はリュクスに何かを感じたのかもしれない。
「――ティアナ」
(だと、思う)
それが自分の名前だとまだ受け入れていないのに、つい教えてしまったのはどうしてだろう。彼女はお産で自身をさらけ出した。そしてリュクスはそれを受け取った。
通じ合ったものがあったのかもしれない。
「……そう、ティアナ。いい名前ね。本当はあなたの名前をこの子にあげたいのだけど」
男の子だから、とエレインは続けた。
「この子の名付け親になってくれないかしら」
「――エレイン、それは駄目よ。名前は親が子どもに最初にあげる贈り物よ」
名前は、生まれて初めて親が最初にあげる贈り物。
そう信じていて大事にしたい。それを妨げたくない。
けれど彼女の引かない様子にリュクスは根負けした。
彼女は決めたらその意見を引っ込めない。
お産では、その人の性質がみえてくる。エレインの性格はなんとなくわかってしまった。
きっとあの旦那様も、エレインには敵わないのだろう。
「……ディー」
なぜかはわからないけれど、出てきた名前はそれだけだった。
自分は子どもがいないし、気の利く名前は思いつかない。だからただ出てきた音を告げただけ。
エレインは難しい顔で眉を寄せる子どもを見下ろし、そう、と呟いた。
生まれたばかりの赤ちゃんは、”おじいちゃん顔”をしていることが多くて、それでもかわいいと思えてしまう。なんでだろ。
「じゃあ愛称はディーね。名はディオニスにする」
「強そうね」
「そうね、マイペースよ」
二人で笑う。
少し休んだ方がいいとディオニスを受け取り、ウェイバー婦人に渡す。彼女はこれから主人に見せに行くという。
「体温を下がらせないように気を付けて。マイペースだから眠りがちかもしれない。頻繁に母乳をあげてね」
リュクスは夫人に頼んでエレインに退出を告げる。
「本当におめでとう。エレイン」
「ありがとう、
彼女に呼ばれるたびに、その名前が自分のものだと胸に染み入ってくる。認めてもいい、こうやって自分の母親は名付けてくれた。
意地を張っていた自分が消えていく。素直に、なってもいいのかもしれない。
ふと、リュクスはエレインに問いかける。
「どうして、私に任せる気になったの?」
「――トニーを産んだ時に、ずっと腰をさすっていてくれた子がいたわ。あなたでしょう?」
トニーの出産のときの話だ。リュクスはまだニルヴァーナの助手だった。
「だからあなたには、任せてもいいんだって思ったの」
リュクスは目を伏せて、ありがとう、と言った。
部屋を出ると、二人の女の子がいた。
「ありがとう」
エイミとリタだ。ぼんやりしがちで少し眠ってしまいそうになっていた意識を取り戻す。
「お水を持ってきましょうか?」
断ろうとしてリュクスはもらうことにした。喉もからからだ。リタが取りに行くと、エイミが「あのね」と近づいてくる。少しリュクスより若いか、同じくらいだろう。
「お母様を助けてくれて、ありがとう。それから――新しい弟も」
はにかみながら笑う顔に、リュクスも笑みをうかべる。
『助けてくれて、ありがとう』そんな大きなことをしたつもりはない。けれど、大きなこと、だろう。こんな時ぐらいは自分を誇らしく思ってもいいはず。
「あなたの名前、聞こえてきたの。ティアナ、って言うのね」
「ええ」
白い肌に上気した頬。ああ、若いってかわいいなと思う。自分の徹夜明けの顔はひどいだろうな、と思う。
「あなたとても綺麗ね。髪もすごくきれい。薄い金と銀の間の絹糸のよう」
夜勤明けの顔は最悪だ。ひどいというより、はっきり言って汚い。まるで薬物中毒者の顔のよう。うっとりと眺めてくる顔に、リュクスは驚く。女の子同士だから褒め返すべき?
リタがやってきてお水を差しだしてくれるからもらって飲む。
「それでね。これ、貰ってほしいの」
エイミは何も言葉を返さないリュクスに構わずに手のひらを握ってくる。そこにはサテンの光沢のある水色のリボンがあった。見返すとエイミは真面目な顔で同じように見つめてくる。
「とても綺麗な髪だから、綺麗なリボンで結んだ方がいいと思うの」
リュクスは髪を結んでいるゴムを外す。
看護職は黒か茶色のゴムで肩にかからないように結ばなきゃいけない。出た毛先は、ネットに入れるか、ねじって団子にまとめるのが必要。今回は仕事じゃないから、ただ結んだだけだった。
その色気もない中学生のようなゴムを見て苦笑した。
「結んであげる」
リュクスは迷ってほどけ掛けた三つ編みを結び直す。そして右前に持ってきてゴムで結ぶ。そうすると、彼女が上からリボンで結んでくれる。
サテンは滑って落ちやすいから気をつけないと。
「黒のゴムでは、もったいないわ。とても似合ってる」
リュクスは「ありがとう」と告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます