第69話.そして、産まれる(*)


 ――時刻は朝四時。これまでウトウトと眠っていたエレインの声が少しずつ大きくなる。


 陣痛が強くなってきた。


(――そろそろ仕掛けるときかな)


 腰の下の方を痛がるようになってきた。それと共に、四つ這いのエレインが腰を持ち上げるようになってきた、赤ちゃんが下りてきたのだ。


 荷物から精油を出して、手のひらで温めたベースのオイルと混ぜる。


 お産を進める精油はいくつかある。ラベンダーやジェニパーベリー、クラリセージなど。それぞれ独特な香りがある。

 匂いというのは嗅神経に左右して神経やホルモンに影響する。皮膚から吸収して血管を広げて循環をよくしたり、緊張を解く作用も与える。


 循環が良く、緊張もほぐれれば血管も開くし、ホルモン分泌が良くなれば陣痛も強くなる。


 今回使ったクラリセージは花や葉から抽出する精油で、日本のほうじ茶に甘い香りを足したようなもの。


 ラベンダーのように華やかでもないし、ジェニパーのような刺激的でもない。


 選ぶのは、その時に“合っている”と思ったもの。今は、フローラルな香りも刺激的な香りもいらない。今のエレインには落ち着いたゆったりとした香りがいいと思った。


 香りは、温められた部屋中にほんのり満ちる。


 それでマッサージしながら腰を押すと楽になるのか、エレインがため息を漏らす。


 赤ちゃんの心臓の音は元気だ。胎児の心音が聞こえる位置は少しずつ下に変わってきている。

 回りながら降りてきている。

 

「いきみたい……」


 荒い息で声を漏らすエレイン。

 

「まだだめよ」


 逆子のつらいところが、絶対にいきませられないところ。

 

 小さい足やお尻だけが出てしまっても、頭が出なくては困る。

 それは産む母親にとっては、とても苦しいこと。


「何かしましょうか?」


 ウェイバー婦人が真剣な様子でのぞき込んでくる。


「リネンをたくさん温めて。産まれたての赤ちゃんの身体を拭くから」


 もうすぐだけれど、まだまだ。


「――破水した」


 小さく呟く声に見ると、淡いピンク色の水、出血交じりの羊水が足元を濡らしていた。

 とうとうその時が来た。経産婦は、破水して一気に進むことがある。


 見え隠れするのは足じゃない、お尻だ。足を引っ込めてくれたらしい。


 緊張すると同時に安堵も微かにする。足先だけよりもずっとリスクは減った。


 二つに割れた臀部が左右均等にでている。進む、産まれる。

 頭までしっかり骨盤のほうに下りてきていることを願う。


「エレイン、もういきんでいい! ウェイバー婦人、彼女の手を握って」


 エレインがこらえていた獣のような唸り声を一気にあげ、精一杯の力とともに赤ちゃんを押し出す。


(――女神マヤよ! ご加護を!)


 リュクスは出産の神に祈る。

 母神イリヤは処女神。そして娘のマヤは出産の神。


 シバラ神に連れさられ処女を失った女神マヤが、出産の神となったのは、何の因果だろう。


 出てきたお尻を両手で掴む。太腿を曲げ体幹にぴったりくっつけさせる。出てこさせるときは、なるべく小さな体積の方がいい。


 赤ちゃんの体をもってメビウスの輪のように八の字で少しずつ、微妙な調整をしてゆっくり引き出す。


(焦らない、ゆっくり、丁寧に……)


 赤ちゃんは片手は折り曲げて、片方は伸ばしてでてきた。

 赤ちゃんだって一人の人間、両手を胸にばってんにして出やすい姿勢で都合よく、なんてなかなかない。

 

 片手は、外に出てきた。あとは、もう片方。

 

 最後の頭は手を差し入れて顎を下向きにさせ出す。

 赤ちゃんは、小さめというのもあって最後の頭もするりと出てきた。


 ホッとしながらも、まだ終わりじゃない。即座に泣くように、身体を布でこすり上げる。


 ――出てきた赤ちゃんは、泣かなかった。


 布で顔を拭き、口元と鼻腔を塞ぐ羊水を取り除く。口を刺激することで、最初の産声をあげやすくなる。


(思っていたより小さくない、大丈夫)


 早産だけど、それほど小さくない。


 まだ泣かない。産声啼泣が遅れることは、よくあることだから焦らない。


 赤ちゃんは、本当に状態が悪い時は、くたりとしている。全く自分の力がはいっていなくて、ふにゃふにゃだ。


 でも、この子は身体がしっかりしている、力がある、ずっしと体がしている。体を拭くたびにぐねぐね揺れるがまま。


 足底、背中を優しくこすりあげる。

 足底には迷走神経が走っていて、肺や気管支の拡張を促す。


 それから血液や羊水でぬれた体を素早く拭くのは、気化熱で体温が下がってしまうのを防ぐため。


 赤ちゃんは、羊水の中では臍の緒の血管から酸素をもらっているけれど、外に出ると自分で肺呼吸をするしかない。


 産声をあげた瞬間に、肺に満ちていた羊水が押し出されて、空気で満たされる。


 もうこの子は外に出た。自分で呼吸をしてもらうしかない。


「――泣いて、泣いて頂戴」


 エレインが状態を起こし、乱れた髪をそのままに呟いている。


 息をしない赤ん坊の肌が、大理石のような灰色に変わっていく。


 リュクスの胸も焦りが生じる。


 薄く開いた半目が反転する。う、うっと、唸る口元。


(大丈夫、唸っている)


 唸るのは、呼吸をしようとしている証拠。それを信じて、身体を拭いて刺激をして、羊水を拭う。


(さあ、泣いて。泣きなさい)


 ――そして、大きく産声が響いた。

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