第68話.過去の自分
「汗をかいてる。顔も真っ赤だけど熱ある?」
ウィルの問いかけに、リュクスは頭を振る。彼の目はまっすぐで、身内に向けるような気安さもある。
誰かから自分に向けられたことはないけれど、お産の時に産婦さんに対する夫の態度、心配する様子や気安さ、その身内の空間はいつも羨ましかった。
「部屋が暖かいから。顔はすぐに赤くなるの、肌が白いから」
赤ちゃんが産まれる時のために、少し汗ばむくらいに部屋を温めておく。
ウィルの指がリュクスの額に張り付いた髪の毛をよけて、耳にかける。
その感触が、くすぐったくて、首をすくめる。
なのに、彼はその手を伸ばして、ためらってる。
「なに?」
「嫌、じゃない?」
「べつに」
ウィルにはだいぶ慣れた。
彼は伸ばした手を引っ込める。たぶんリュクスが以前拒否したから。
「首を触られるのは、嫌。でもそれ以外は平気よ」
「わかった。気をつける」
なぜ、なのかはわかっている。
でも、中身がわからない。――その記憶がない。
そしてウィルは、リュクスが“何か駄目で何が平気か”を見極めながら、接しようとしてくれている。
彼はリュクスよりも低い目線になってから、力強く笑う。
「――がんばれ」
産むのは母親。頑張るのはリュクスじゃない。自分は支えるだけの存在。
そう言おうとしてやめた。
彼の身体の横に引っ込められた手。もしかしたら彼は頭を撫でようとしてくれたのかもしれない。
その大きな手に、惹かれた。されたら嫌なのだろうか、それとも嬉しいのだろうか。
でも彼の手は力強くて、その力を分けてくれる気がした。
「え。頭撫でて欲しかった?」
案の定ウィルはリュクスの目線の先に気づいて軽い調子で問いかけてくる。いつでも、するけど、と。
リュクスは軽く笑んだ。
(この人は、優しい)
油断はできないけど、でもこんな風にわかって、言葉をかけてくれる人はいない。
――だからこそ、離れなきゃいけない。
「まだ時間がかかるから座って少し休んで」
何回も言ってるけど。誰かが休んでいないのは心配になる。ウィルは笑うだけだった。
***
ウィルが行った後、視線を感じて振り向けばふと反対の部屋のドアが開いて、男の子が立っていた。その後ろからは先ほど覗いていた女の子二人。
「駄目よ、トニー」
ネグリジェを着た少女が男の子を引き寄せて、お仕着せを着た少女が「申し訳ありません」とリュクスに頭を下げる。もうとっくに寝ていなくてはいけない時間。
けれど、気にならないわけがない。
「おかあさまは……」
つたないこえで、男の子が訊ねる。リュクスはしゃがみ込んで男の子と目線を合わせる。小さいのに大人しくしていて、偉いなと思う。
「もう少し赤ちゃんが産まれるのには、時間がかかるの」
「お母様は、平気なの?」
「エイミ様……」
少し年上の少女が嗜めていいのか迷うように声を出す。
子どもたちには何も情報がいってないから不安だろう。リュクスは考える間もなく口を開いた。
「大丈夫よ。もう少しね」
”大丈夫”、と言うことは本当はよくない。
新人の頃に搬送されてきた妊婦さんに「大丈夫」と言ったことがある。あとで無事に赤ちゃんが産まれた。そして「あの時、すごく励まされた」と手紙をもらった。
でも、経験を積んで思う。それは無謀で何も知らなかったから。医療者は経験を積むと、「大丈夫」とは言わない。保障することはできないから。
(でも『大丈夫』と患者は言ってほしいものだから)
「だから、安心して眠って」
自分の力を過信してはいけない。でも、言ってもいい時もある。そう信じられるなら。
子どもたちを見送って、リュクスは部屋に戻る。木造りの磨かれた床を歩き、真鍮製の丸いドアノブに手をかける。
ここをくぐれば、お産の場だ。自分の専門であり、そして黒子にも徹する場。考えるのは、産婦さんのことだけ。悩みも忘れ意識が切り替わる。
助産師の仕事は、取り上げる技術が一番ではない。産婦を安心させること、そして家族にも信頼してもらうこと。
エイミたちに大丈夫と言った、ウェイバー婦人やエレインにも託された。命を託任された、それはとても重いこと。
でも、魔法士の長だった頃より、これに関してはこなせる自信がある。怖い者知らずだからじゃなくて、裏打ちされた自分の経験、カン、確かな何かがある。
――魔法士の
でも、それだけで敬遠されてきたわけじゃない気がする。
彼らに任される信頼を築かなかった、頼れる人柄じゃなかった。
そのことに気づいてももう遅い。長にはもう戻れないから。アレスティアを落とした自分は、もう司ではありえない。ただ後始末をしなくてはいけない。人々の命を奪い、人生を、生活を変えた。
――戻れば、審判が、ある。
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