第22話.夜勤明けの車内

 夜勤が終わり歩いていると、怪しかった空模様から冷たい雨が降ってきた。前日が晴れていると、夜勤明けは雨で傘がなくて困ることもある。

 病院で傘を借りることもできたけど、駅まで歩いて五分なのでそのまま、足を速める。

 

 横断歩道の前で信号を待っていたら、横から黒くて大きな傘が差しかけられる。見上げるとスーツ姿の男性だった。

 「どうぞ」と言われて、驚いていると押し付けられるようにそれを渡されて、お礼を言う間もなく、青になった信号を走って渡っていってしまった。


 ――こういうことは、“よく”ある。

 

 ナンパでもなく見返りを求めない男性からの親切。

 それが行き過ぎる感情を持った男性だったりすると、困ったことになる。

 

 リュクスは男性用の大きなブルーの傘を手にくるりと回して、駅の入り口で畳んで改札をくぐる。


 渋谷行きの銀座線はそこそこの混み具合だった。リュクスはドアに寄りかかりながら、ベビーカーを押す夫婦と、三歳ぐらいの子供の家族連れから”何となく”目を逸らした。


 仕事では平気。産婦さん、ご家族の方達には笑顔が浮かんでくる。心からの笑顔で接する。でも私生活では家族を見ると、――何か胸をえぐられるのだ。


 反対側の斜め前の方に座るお腹の大きい妊婦さんへ目を向ける。

 話しかけている上のお姉ちゃんのはしゃぎように対する反応が鈍いような……。

 

 そろそろ満期臨月に近そうだけど具合でも悪いのかと、職業柄気になってしまう。

 目の前に人が立ち、視界が遮られたところで見るのをやめた。


 重い鞄を肩に抱えなおす。肩にかけたそれは、パソコンと論文を入れたタブレットでずっしりしている。


 どこかのショップで論文を次のバイトまで読もうかなと考えて、珈琲が恋しくなる。


 目を閉じかける。夜勤明けだから寝てしまいそう。


 眠りかけると、いつもユーナの姿が出てくる。それはまだ胸を痛ませる。東京に呼ばれたのは、ユーナを探したいという思いがあったからもしれない。


 けれどユーナは、見つからなかった。


 人口千四百万人の東京。しかも手掛かりは黒目黒髪の十代後半の少女、名前はユーナ。ネットでここ十年の行方不明者を探しても該当しそうな名前はなかった。


(……こんなに、人口が多いなんて思わなかった)


 東京だけで、北欧の一国家よりも多い。比べて大帝国だと思っていたアレスティアは、たったの三百万人だった。  


(こんなに人口が多くて、雑多な国だったなんて)


 この世界は、魔力の糧となる女神の光脈がないから探査網を伸ばすことはできない。


 ユーナは魔力がないから、魔力で探すことはできない。でも東京に行けば、主従を結んだ仲だ、もしかしたら気配を感じるかもしれないと思ったけど、全くだった。


(東京以外の可能性も考えたけれど)


 東京出身の人間が、地方に移住することはあまりない。


 ユーナとの主従の関係もどうなったのかは怪しい。心にぽかりと穴が空いたみたいで、誰かを求めている。誰かとつながっている気配がある。でもそれが、誰なのかわからない。どこにいるのかもわからない。


 ……ユーナは、東京にいないのかもしれない。

 ユーナは、レダや神官長や他の人達に苦しんでいた。なのに、どうして裏表な態度をしたのだろう。


 未だにとらわれている。もう六年も経つのに。


 ぼんやりと考えていたら、電車が止まる。昔の銀座線のホームは狭くて人が通るのがやっとだったのに、今は沢山の出口があってわかりにくいし広い。


 終点駅のためぞくぞくと降りていく客をぼんやりとみていたら、突然の変な感触に身体をこわばらせた。


 お尻を掴む手。

 勘違いかな、と思った瞬間、確かな人の手が明確な意志で、しっかりとお尻の肉を掴んで、二度、三度と揉んでくる。


 痴漢? と思う間もなく離れる手、振りむけば人の塊がドアから降りていく。


 ――勘違いじゃない。

 夜勤明けでぼんやりしていた頭が一気に覚める。恐怖なのか、呆然としてまだ体がこわばったままでいたら、突然横にいた背の高い男性が、出口の一人の男の右手を掴んで持ち上げる。


 素早くてあっという間だった。

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