紅廟
@YOKOIMAI
紅廟
プチッ。唇に豆を当て、親指と人差し指で押し出す。口内に飛び込んでくる青い豆をかみ砕き、ごきゅっと喉を鳴らす。
「こうだよ、ノブ」
倫太郎が口をあんぐりと開ける。開いた真っ黒な口の中で処置したらしい銀色の歯が何本も覗いた。
「みて。ノブ」
開けられた口は天井を向いて、その天井から降ってくる豆は倫太郎の口に落ちてくる。
「お行儀悪いこと、ノブに教えんなやー」
由香が倫太郎の脇をつん、こづく。
「いねっかや。小太郎にも亮太にも教えてやったんだっけ、ノブにも教えてやらねと」
「麻里ちゃんがやらこてー。ねえ」
由香の丸い顔がこちらを向くと、あたしは大きなお腹をのけぞらせながら、
「いいよお。ノブ、いっぱい食べな」
とノブの頭をわしゃわしゃと撫で上げた。
「新潟の枝豆の食べ方は贅沢ですよね」
夫の幹生も手を伸ばしながら口にどんどん運んでいく。
「麻里ちゃん、とうもろこしはどう? スーパーで買ったものらけど」
「じゃあ、もらう。ノブ、手」
あたしは半分に割ったトウモロコシをノブの掌に置く。ノブは黙ってそれを口にする。
「ノブ、静からね。小学生らねっかや?」
「緊張してるのよ。学校だと違うの。小太郎と亮太と遊んできてもいいよ」
ノブは囓っていたトウモロコシを置くと、
「Switchやってもいい? 亮太に教えたい」
ノブのトウモロコシに蝿が止まる。あたしはそれを払いながら、トウモロコシを手に取った。あたしは囓りながら、
「小太郎たち、二階?」
と倫太郎を仰いだ。
「ああ。いたかやぁ」
「いい。おれ、行きます」
ノブは立ち上がると階段を登っていった。
「ノブは幹生さんの息子らっけねえ。育ちがちごわ」
倫太郎が冷やかすように口笛を吹く。
「おめとはちげんだて」
由香がまた倫太郎をこづく。
「いえいえ、本当は倫太郎さんみたいなおじさんが好きなんですよ、あの子は」
幹生は倫太郎に笑顔を向ける。
「幹生さん、気ぃ使わんでね」
由香は大げさに手振りしながらまた倫太郎をばしんと叩く。
「いえ、麻里の実家が気さくな人ばかりで居心地いいです」
「本当はもっと帰ってこられたらいいんだけどね」
あたしはふうと大きく息を吐く。
「麻里ちゃん、ずいぶん大きいねっかや。臨月?」
「ううん。まだまだ」
あたしはお腹をさすって苦笑いをする。
「でも言われちゃうの。もうすぐなの? って」
「そうらよねぇ。そんな感じすっけさ」
そういって由香が笑った。
隣県に住んでいるあたしたちはお盆休暇に三時間かけて新潟の実家に帰省してきた。妊娠中最後の帰省になるかもしれないから、ノブを連れて新潟のいろんなところに遊びにいこう。そう提案してきたのは幹生だった。今年は幹生の実家の方には帰らず新潟に長めに滞在する予定にしてきたのだった。昨日、到着したあたしたちは、とりあえず海よね、と早速海水浴に出かけたのだった。妊娠しているあたしは海には入れない。着られる水着もない。海ではしゃぐノブと幹生を恨めしい目で見ながら、砂場を足で掻いていたら、倫太郎がスイカを持ってきてくれたのだった。浜辺でスイカ割り大会が始まり、あたしは退屈が一気に紛れたのだった。
「ただいまあ」
母が汗を額に浮かべながら帽子を剥ぐ。靴を脱ぐとどっこいしょと玄関をまたぐ。
「おかえり。暑かったでしょ」
「暑かったー。でも墓参りできたから」
母は首に巻いていたタオルを手に取ると、顔にそれを覆った。
「あたしたちも今日これから行くから。お花を途中で買ってく」
「ただいま」
母の後ろで打って変わって涼しそうな表情の父が立っている。被っていたキャップを取り、禿げ上がったおでこに手をやる。
「おお、やってるか」
にぎやかな居間の様子に父は笑みをこぼすと、冷蔵庫からビールを持ってきて座り始める。
「お父さん、昼間っから」
あたしの言葉ににやりと口の端を持ち上げる父は、
「今日はお盆だ」
といいわけをした。喉を鳴らしながら飲み下す父をみて、
「おれも」
と立ち上がった倫太郎は、
「幹生さんもどんげら?」
と笑顔を向ける。
「ちょっと待った」
間を制する、あたしは口をとがらせながら、
「これから墓参りよ。ノブも連れてきて」
手を引くあたしに、幹生は立ち上がると小さくのびをした。
幹生は背が高い。あたしとの身長差は三十センチもあった。百五十センチほどしかないあたしは、お腹が大きいとずんぐりむっくりした体型で幹生がうらめしい。早く元の体型に戻りたい。いまは妊娠してはいるが、あたしは元々小柄であったのだ。
こめかみに伝う汗を拭いながら縛っていたシュシュを外す。ちょこっと化粧直してくる、そう言うと、行こうと立ち上がった幹生は所在なさげに苦笑いした。
帰ってきてから毎日のように遊びに出かけるも、いい加減新潟の生活に飽き飽きし始めたノブは、畳に大きく体を投げだし、仰向いてSwitchを見入っている。
テーブルを拭いていたあたしは布巾をくしゃりとにぎりしめると、
「ノブ」
Switchの隙間から顔を覗きこんで言った。
「朝ご飯終わったし、縁日でも行く?」
ノブはがばりと体を起こして、
「こんな時間にやってるの?」
目を輝かせると、おかあちゃーん、と足にまとわりついてくる。
「小太郎と亮太も行くかな?」
とあたしの大きなお腹をぽんぽん叩く。
立ち上がるとあたしの目の高さとほとんど変わらないノブの身長は、小学校五年生にしては高いほうだと思う。多分、ノブは幹生に似たのだろう。
「声掛けてみたら?」
振り返って廊下を走り出すノブの背中を見ながら小さくため息をついたあたしは、布巾をきれいに四つ折りに畳んでお盆を手にした。毎年このお盆になるとやっている縁日は、子どもの頃は夕方から友達と自転車に乗って遊びに行った記憶がある。でも昼間から出店は出ていて、神社の境内はたこやきやぽっぽ焼きやら入り交じった匂いが充満しているのだった。
「小太郎は友達と約束しちゃったって。亮太と行ける」
二階から降りてきた亮太はまだパジャマ姿だった。
「亮太が準備できたら一緒にいこっか」
あたしが亮太をみつめると、うんとうなずいて洗面所へと向かっていった。
「ノブ、おとーちゃんに言ってきて」
嬉々として飛んでいくノブを見ていると、いつまでも無邪気だな、と軽く嘆息するのだった。
ノブは狙っているらしかった。最後に金魚すくいする、と屋台を通り過ぎる時に豪語していたノブは、かき氷を食べても金魚すくいを話題にしたがった。
「オレ、大きいの取ってやるからな」
二歳下の亮太にガッツポーズしてみせるノブを、冷めた目でみる亮太は金魚すくいには乗り気でなかったらしい。
「去年取ってきたその日のうちに死んじゃったからなあ。金魚すくいの金魚って弱いんだってよ」
レインボーのかき氷をぐちゃぐちゃにかき回して茶色にそまったカップを傾けて飲み込む亮太は忌々しそうに言い放った。
「亮太のは運が悪かったんだよ。オレが取ってやる」
そういって金魚すくいの屋台を彼方に見つめ、かき氷をしゃくしゃくと音をたててストローを突いていく。
「みんなおんなじだよ」
亮太はへらへら笑って立ち上がった。
「おばちゃん、ママがたこ焼きをお土産に買って来いって」
「そうね。いくつくらいいるかな」
「いっこでいいんじゃない? オレ、いっこと思った」
あたしは顔をしかめると、
「まさか。じいじとばあばもいるし、一つじゃ足りないよ。四つくらい買おうか。おばちゃん出すよ」
「うん」
立った姿勢のまま片足を前に出して、ふうと息を吐く。
「ずいぶん、暑いな」
幹生が空を仰ぐ。蝉時雨が頭から降ってくる。日陰は多かった。大きな木が風でそよぐ度、蝉が落ちてこないかと心配になるが、そんなことなどないのだった。
「たこ焼き、僕が並んでこようか」
幹生の言葉にあたしは見上げて笑顔を向けた。
「ありがとう。じゃあお代」
と財布を取りだし、数枚引き抜いて手渡す。
「いいよ」
手を押し返されてそのまま背中を向けた幹生を見つめながら、あたしはたこ焼きの香る屋台をみやった。
「いいにおい。いま焼きたてだね」
「オレ、もうなにもいらないから、金魚すくいに並ぶ」
空のカップを右手に持って、真っ青な舌を出して見せる。
「もう待ちきれないんだね、亮太もいい?」
あたしが促すと、ううんとうなった亮太は、
「仕方ねえな」
と空のカップをノブに渡す。そのまま二つのカップをあたしの胸に突き出すノブは、よっしゃ、と軽くイキんだ。
「金魚すくい、初めてなの」
とノブを指さして亮太に目配せする。亮太はやっぱり乗り気でないのか、舌を出した。
金魚すくいに並ぶ頭の隙間から、金魚の水槽を眺める。ノブも待ちきれないといった感じで、体を乗り出す。ちょっと、と肩をとん、と叩くとしぶしぶノブは身を引いた。水槽の横に「金魚すくい三百円」とマジックで書いてあるのをみて、財布から二人分の六百円を探す。
屋台のおじさんに六百円を渡すと、おじさんはノブにポイを渡した。ノブは腕まくりすると、おじさんにお椀を渡され、両手を水槽に近づけた。
亮太はポイを渡されるも、うなり声をあげながらポイをあたしに寄越す。
「じゃあ、亮太の分はノブがやってもいい?」
「全然いい」
難を逃れた亮太はにかっと口を開けて笑うと、ノブのポイの先をみつめた。息を潜めてポイを水槽の上で泳がせると、お椀はその右手を追っていく。
「ノブ、お椀を水槽からあげて。中に入っちゃってる」
「わかってるって」
集中から声を潜めるノブの息づかいが伝わってくる。まだノブのポイは水の中に一度も沈めてはいない。黒い出目金を狙っているようでもあり、紅い鮒を追っているようでもある。
金魚は鮒を品種改良したものだとかつて聞いて、驚いたことがあった。金魚は鯉の赤ちゃん、そう思っていた小学生時代、あたしも縁日の出店で金魚すくいをして金魚を飼ったことがあった。その金魚は鯉と見紛うほどに大きくなり、水槽の中で泳ぐというより、水槽の水にただ浸かっているといってもいいほどになってしまった。中学生になる頃までうちの水槽に飼われた金魚はあまりにも家の風景になじみ過ぎ、そしていつの間にかいなくなってしまったのだった。
世話を母に任せきりだったあたしは、ノブは掬った金魚を家に持ち帰ったときにどう飼育したらいいのだろうと巡らせた。あとでホームセンターに走ることになるだろうな、と頭をもたげた。
ポイは思ったより頑丈なのか、水の中で泳がせるもなかなか破れない。金魚はわらわらと水槽を泳ぎ回るが、そのすばやい動きに視線がついていかない。ノブは一匹を狙ってポイを掬うと、あっという間にするりとすり抜けていってしまう。
「あっ」
ノブの詰まるような声に、小さく嘆息した。
「やぶれちゃった……」
ポイを持ち上げてみせるノブは後ろにいるあたしを振り向いた。
「でもまだ端っこが残ってるよ」
ノブの持ったポイはまだ半分が破けずに残っており、穴の開いた半分からノブはこちらを覗いた。
「いけるっしょ」
ノブは大きく息を吸い込むと、もう一度水槽にポイを突っ込んだ。と、その途端、ポイの上を金魚がさらっていったかと思うと、あっという間にポイは破けてしまったのだった。「ああ……」
うなだれるノブの前にあたしはポイを差し出した。顔を上げたノブにあたしはうなずく。
「亮太、やらないって。ノブがやっていいって」
ポイを受け取るノブは、
「あとで恨むなよっ」
と亮太の首筋に腕を回した。亮太は嬉しそうに、
「恨むかよっ」
とノブに顔を向けた。
ノブは水槽に顔を埋めると、ポイを水面すれすれで金魚を追い始めた。
「むずいんだよ」
つぶやく口元をきゅっと結んだかと思うと、ポイを勢いよく水槽に沈める。金魚の素早さにかすりもせず、ポイはまた水面に引き上げられる。
と、とっさにポイが水槽に入れられたかと思うと、金魚がポイの上に乗り上がり、ノブはポイを引き上げた。水面から引き上げられたポイはそのままの重みで破れてしまい、金魚は難なく水槽へと落ちていった。
「うそだろ、いまの見ただろ。オレ、掬ったよな?」
目を丸くさせたノブは口をゆがませ、忌々しそうに短く息を吐いた。気の毒そうな亮太の表情は微妙な笑みをたたえており、口をきゅっと結ぶと、ノブの真正面を向いた。
「僕、お椀を貸してごらん」
そういって屋台のおじさんが網で金魚を掬って、ノブのお椀に二匹入れた。透明のビニール袋に二匹を流し入れ、続けて水槽の水も入れるときゅっと口を縛ってノブに渡した。
「いいの?」
ノブはおじさんを見つめる。
「ああ。いいよ」
おじさんは次のお客さんにポイを渡しながらノブに向かってにかっと笑った。
金魚すくいの屋台から離れると、幹生が遠くで手を振りながらこっちにやってくる。幹生の手には二つの袋のたこやきが、そのにおいとともにあたしたちのそばにやってくる。
「掬えたの?」
ノブの手にする金魚を見て、幹生が驚いた声を上げる。
「ううん。おしかった。最後にもらった」
「みんながもらえるんだよ」
あたしが隣で笑うと、
「ああ」
と幹生が相づちを打つ。ノブは真剣なまなざしを向けて、
「これ、おばあちゃんのうちで飼うんじゃなくて、オレの家に持って帰りたい」
「ええ?」
あたしは不意なことに目をぱちくりさせると、
「オレ、いらないから持って行けよ」
と亮太が真顔を向ける。あたしは困ったように幹生を見上げた。幹生も一息つくと、
「ノブの金魚だから、ノブが世話するんだぞ」
と人差し指を立てて言った。ノブはおとーちゃーん、とねこなで声を上げると一気に駆けだした。亮太が後を追う。手にしていた金魚がぽちゃんと揺れて、ノブは慌ててそっと持ち直す。
「とりあえずおばあちゃんから水槽を借りる。」
破顔するノブは亮太に向かって、いいよなっと叫んだ。
「オレの虫かごに入れて持って帰れよ」
亮太が気前よく胸を反らすと、隣に来た幹生が、
「急に水槽の水の中に金魚を放したらだめなんだぞ。袋ごと水槽に浮かべて少しずつ慣らすんだ」
「ふーん。そうしないと死んじゃう?」
「かもよ」
幹生の言葉にノブは神妙そうに顎に手をやった。金魚の入った袋を見つめ、サンダルをならしながら家へと歩いて行く。金魚は袋の中で暴れるように泳ぎ回り、二匹はもつれ合った。口をぱくぱくと開けたり閉めたりしながら、つむらない瞳で小さな水の袋の中で泳ぐ金魚は、小さな鮒の形で橙色をしている。陽が袋の水を反射して、透き通る光の影が道路に落ちた。金魚が泳ぐ度、影は道路の上で揺らめいた。
ノブの引きずるサンダルの音が、熱せられたアスファルトから立ち上がる。目がくらんでまともに開けてられないまぶたの奥に、金魚の橙が映り込んでいる。
ノブは亮太から借りた虫かごを真上から見つめたり、透明のプラスチック越しから眺めたりして金魚を目で追っている。帰ってから虫かごから離れないノブは全く飽きないといった風に虫かごを抱くように寄り添っている。
「ノブ、ご飯だけど」
あたしが呼びにいくと、顔だけ上げて、おかーさん、と手招きをする。するとまた水槽に顔を埋めて金魚を指さした。
「面白いんだよ。いつも二匹がくっついて泳いでいるんだよ。一匹が泳ぐと、もう一匹が追いかけてく。いつも隣り合ってんの」
「本当?」
あたしも水槽に顔を近づける。真上から覗くと水草に隠れている二匹を、こっちからなら見えるだろうかと横側から見てみる。
「うん、まあ、近くにいるね。隣にいるって言うか」
「よく見て。ほら」
水槽の中を素早く泳ぎ出す金魚はもう一匹を追ってまたぴたりと止まった。
「ほんと。追いかけっこしてるみたい」
「超仲いいと思わねえ? つきあってるみたいじゃない?」
あたしも食い入るように水槽を見る。一匹が泳ぎ出すともう一匹が追いかける。そして隣で立ち止まる。また泳ぎ出すと、また追いかける。あたしは水槽から顔を上げて、ノブに笑いかけた。
「恋人っぽいね」
「そんな感じ。よく見ると、一匹は小さくて赤い色をしてる。もう一匹は大きくて、ちょっと白っぽい。だから、あかりとシローって名前にした」
「うん。男の子と女の子だね。いいんじゃない?」
うなずくノブはまた水槽に顔を向ける。昔使っていた空気を送り出すぷくぷくは細かな振動を唸らせながら頻りなく空気を吐き出している。
橙の濃いあかりが尾びれを一掻きしたかと思うと、シローがくっついてついていく。逆にシローが先に出ると、あかりが後を追っていく。つかず離れずの二匹を見ていると、ノブでなくとも確かに飽きない。胸びれはいつも小刻みに震えていて、その場に立ち止まっているときでもひっきりなしに掻き続けている。ぱくぱくと口を開けて下に落ちたフレーク状のえさをうまく探し当て食事をする一匹に、
「正面向いた顔がかわいいんだよ」
とあたしを見上げる。
「どれどれ」
なかなか居間に現れないノブとあたしを呼びにきた由香が水槽に顔を近づける。あたしに説明したようにもう一度二匹の金魚の仲のよさを由香にも話すと、由香が興味深げに二匹を注視する。ほんとねーと感嘆し、スマホを取り出し水槽に向ける。プラスチック越しの水の中では二匹の様子はうまく撮れないのか、由香はうなりを上げる。
「夫婦なのよ、きっと」
由香が顔を上げる。
「屋台の水槽の中でも、大量の金魚がみんなで同じ方向を向いて泳いでいたの。群れる習性があるんじゃないかな。たったに二匹になったとしても」
「だとしてもかわいいわね」
「それになんていうか、とっても元気いい」
あたしが由香に笑いかけたとき、由香のスマホが鳴った。
「ん? なんだろう?」
画面を見つめながらそばを離れる由香を見送り、あたしはノブの頭を撫でた。ノブは一度あたしを見てからまた水槽に向き直り、素早く泳ぐ二匹に目を瞠っているのだった。
「尾びれとか背びれとか、透き通っててきれい……」
つぶやくノブの頭越しにあたしももう一度水槽の中を見る。うなりを上げながら空気を送り出すポンプの音が耳の奥にいつまでも張り付いて、耳障りにざわついてきたところだった。スマホを耳に当てながら、切迫した様子の由香が、はい、はい、と短く相づちを打ってるところに、異変に気づいた倫太郎が由香のそばにやってくる。電話が終わるのを隣でまっている倫太郎の顔も険しく、由香がスマホを置いた瞬間、
「なにがあったん?」
と間を置かずに由香に詰め寄った。
由香は、
「小太郎、事故に遭ったって。トラックの下敷きに……」
そういった由香の顔はあたしからは見えなかった。えっ? と顔を上げたノブがこちらを見ただけだった。小太郎っと叫んだ倫太郎は玄関を飛び出し、かと思うと、倫太郎は立ち止まりその後ろ姿から振り向いて、小太郎はどこだっと叫んだ。居間から顔を出した幹生が不思議そうな表情であたしをみつめ、やがて倫太郎を仰いだ。倫太郎は玄関の外にいたまま、小太郎はどこだ、いま、行くぞっと叫んだ。由香はたちつくしたまま倫太郎を見つめているらしかった。やがて父がやってきて、裸足で何してんだ、と玄関を降りている倫太郎に声を掛けた。庭仕事していた母が帰ってきて、総出の家族を見回し、帽子を剥いで、あたしに、どうしたのちょっと水くれない? とタオルで顔を撫でた。そのとき、あたしのお腹の内側で、ぐいんと胎動した。
「小太郎が事故に……」
由香の言葉を聞いた母は、
「こたちゃん?」
と後ろを振り向いた。母の鼻の下には汗の粒がびっしりかかれていたのだった。
それから夜になって花屋の車に乗って小太郎が帰ってきた。夏だと言うことで通夜の前に小太郎は火葬されることになった。コロナ渦で参列者は制限され、あたしたち家族からは一人、幹生だけが葬儀に出席したのだった。
ノブはランドセルを担いだまま、餌の筒に手を伸ばす。
「昨日、夜あげたんだからそんなにあげなくて大丈夫って言ったでしょう? たくさんあげすぎるのもよくないよ」
「ちょっとだけだから」
そういってほんの少しのフレークをさらさらと落とし入れ、
「いってきます」
とえさの筒を置くと、玄関のドアを開ける。
「気をつけてね」
あたしは部屋着姿のまま、小さく手を振った。あたしの足下で空気のポンプから水が跳ね、床を濡らしていることに気づき、あたしは雑巾でそれを拭った。水を入れすぎたのかもしれないな、と水槽を一瞥するとあたしは紙コップを持ってきて水槽の中の水を出し、隣にあったバケツに捨て始めた。嵩が減った水槽を見て、あたしはなにか物足りなさそうに餌の筒を開けるとぱらりと振るい落としたのだった。
小太郎の葬儀が終わって、あたしたちは長野の自宅に戻った。長野は新潟と変わらず暑く、お盆休暇が終えるとまもなくノブは学校が始まった。
帰りの車の中で、ノブは金魚の入った虫かごを手から離さなかった。虫かごからこぼれる水のおかげで、ノブは服を水浸しに汚した。それでも虫かごを足下におかずに、長野に着くまで抱いていたのだった。空気のポンプを外されたあかりとシローを終始心配していたノブは、二匹の泳ぐ姿を車の中でじっと見入っていた。揺れる水面にあっても二匹はいつも水底にいて虫かごから飛び出てしまうようなこともなかった。それでもノブは心配そうに見つめていた。
帰ってから、ホームセンターに直行し、水槽とポンプを買って、家であかりとシローを放した。二匹はとまどいもせず、変わらずせわしなく泳ぎ出す。ホームセンターで飼ってきた餌のフレークは一日何回あげればいいのかわからなかったが、ノブは一日頻回あげていたようだった。学校から帰って来るなり、玄関に置いた水槽のある場所にかじりついては、水槽の中を幾度となく眺めているのだった。
ひとりきりの昼食を済ませ、パソコンに書きかけの小説と向かい合っている時だった。スマホが小さく振動する。あたしは悪い予感に画面を見入った。ノブの学校からだった。
電話を切ると、鍵と財布だけ持って玄関を出た。車に乗り込み、学校へと向かう。車の中はうだるように暑く、あたしの呼吸を苦しめる。ラジオも鳴らない車内でウィンカーのかっちかっちという音がやけに耳につく。
学校の医務室を訪れると、ノブがベッドから出てきた。熱が三十八度ありますので受診をお願いします、と説明を受け、頭を下げる。ランドセルを担ごうとするノブから受け取って、医務室を後にした。しんと静まりかえった廊下を二人で歩くと、ぺたぺたと足音ばかり目立って響いていた。
「熱、高いんだって? 苦しい?」
家に着いて倒れ込むようにソファにつっぷしたノブにそう声を掛けた。
「苦しい」
「大丈夫?」
ややあって、
「大丈夫?」
とまた声を掛ける。返事がない。
「大丈夫?」
「ねえ」
「うん。死んだふり」
とノブは仰向いた。
「ねえ、おかーちゃん」
「ん?」
あたしはノブの隣に座ると、
「小太郎、痛かったよね?」
とノブはまたうつむいた。
「うん」
あたしは言葉につまってただそれだけ言うと、ノブが勢いよく飛び起きる。あたしはのんびりとした動作でノブを見送る。ノブはそのまま玄関に行って、「あ」とちいさく声を上げた。
「おかーちゃん」
玄関からノブが声を張り上げる。
「あかり、死んでる」
あたしは急いで玄関に行くとノブと隣に座って水槽をのぞき込んだ。すると緋色の金魚が横たわって水底に沈んでいた。ノブは水槽に手をつっこむと死んだ金魚をつかんで水槽から手を引き上げた。開いた手の中で動かない金魚がいた。ノブはそれをまたつかむと玄関を出て行った。
あたしは餌の筒を持つと、蓋をあけ、それをふるい入れた。えさは水面を四方に散っていった。すこしずつ底に向かって落ちていく落ち葉のようなそれは、金魚に気づかれることなく水底を覆っていくのだった。
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