眠りねむる

雪山冬子

第1話

何度目かのスマートフォンのアラームを切ると、女はようやく開いた瞼を再び閉じた。

もう一度開き、また閉じて、を繰り返す。

飴色に灯る裸電球が女を見下ろしている。

毎日のことではあるが、身体が布団に張りついているのかのように重い。

それでも起きねばならず、腕に力を入れなんとか上体を起こすと、眉間に深い皺が寄ったのが分かった。


この毎朝刻まれる眉間の皺が、いよいよ取れなくなってきたのは一年前からだ。

始めは遠慮がちにうっすらと浮かび上がっては消えていたのに、今ではすっかり我が物顔で居座るようになり、ただでさえ朝は辛いのに、鏡を見ればこの顔だ。

おまけに生まれつき口元に大きなイボも鎮座している。何も責められていないのに、もうどうすれば良いのだ、という気持ちになる。女の心はささくれだつばかりだった。

 締め切ったカーテンから朝日が差し込んで、スズメと鳩の鳴き声が聞こえる。

その穏やかな情景が毎日憎らしかった。

今日も朝が来てしまったことにうんざりしていた。


 足を引きずるようにして立ち上がる。

移動するたびに脱ぎ捨てた下着やら菓子の袋が絡みつき、それらを足で蹴り上げるようにして風呂場へ向かう。

赤黒いカビが四隅に生えた鶏小屋のようなユニットバス。

水垢が飛び散った鏡では自分の顔はよく見えないが、女はおかまいなしに顔を洗い、再び水しぶきを鏡に飛ばす。

四角張った分厚い輪郭に日焼け止めとおしろいを塗り、のさばる唇になくなりかけのリップクリームを擦りつける。

それだけで準備は完了するのだから、鏡の掃除など必要ない。


もう何年履いているか分からないグレーのスカートを履き、アイボリーのカーディガンに袖を通す。まったく、三十年以上生きてもこの季節は何を着ればいいか分からん、と愚痴を言いたい気持ちを押さえ、戸締りをして外に出る。


最寄り駅まで歩いている間も睡魔は絶え間なくやってきた。

平たいパンプスが右へ左へ蛇行し、歩いているサラリーマンや学生にぶつかりそうになる。その度に小声で謝り頭を下げるのだが、それでもまだ意識がはっきりしない。

そうやって無機質な大通りをふらふらと歩いているうちに駅に着き、電車で一時間程度揺られ、夢と現実の狭間を浮遊しているうちに開発が進んだ大きな町のオフィスビルにやってくる。女の今の職場だった。

時間ギリギリにやってきて、人目を避けるように席に着いて、ふぅとため息をつく。


派遣社員として働く女は、営業事務という職についていた。

始めは営業担当の社員について資料を作成したりスケジュール調整等を任されていたが、いつだったか、知らないうちにそれも外されていた。

今は主に備品の補充をしているが、女自身、なぜ自分が契約を切られないのかが不思議だった。

いつも眠ってばかりでろくに仕事もできない人間を半年も置いておくなど、良心的というか、随分お人好しな会社で、案の定仕事もできず勤務態度にも難のある女によく接してくれる人などほぼ皆無なのだが、女はそれでも良かった。

むしろ誰にも話しかけられず誰にでもできる仕事をして給料をもらえるのだから、感謝しなければいけない、とおぼつかない瞼をこすった。



 昼休みに食堂で昼食をとっていると、目の前に横井茉莉が座った。

「おつかれみすずっち。ねぇ、今日はいないねあの人」

「あの人って」

「ほらあの、みんながギャアギャア騒いでる自称イケメンの、羽、はねなんとか」

「羽本さん」

「そうその人。もしかしてみすずっちもあの人のこと狙ってるの」

「私が? まさか」

 

 カツカレーのカツをスプーンで乱暴にちぎり、半分衣の剥がれたそれを口の中に運ぶと、ぐちゃぐちゃと音を立てながら茉莉は話し続ける。

その脂ぎった口元を見ているだけで、女は吐き気を催した。

「ああいう仕事ができてかっこいい人って、絶対遊んでるよね。なんかプライド高いのが態度に出てるもん。あんなのを好きになる女も意味わかんない。そもそも私は全くかっこいいとも思わないけど」


食堂内を埋め尽くす吹き抜けの窓から差し込む日の光に思わず目が眩んで、伏し目がちにうどんをすすり続ける。

「外見が良い人って総じてみんな性格悪いんだけどね。あ、これは私の人生経験から得た絶対的な結論。だからさ、外見でわあわあ騒ぐなんて馬鹿だなって思うわけ。男も女も」

 それ以上言うとなんだか負け惜しみみたいに聞こえますよ、と心の中で呟いた。

あなたは選ばないのではなく選ばれないわけで、あなたの容姿は確かに良いとは言えないけれど、性格もたいして良くはないわけで。

「結局若さが武器の子なんて二十代で人生詰んじゃうでしょ。うちらみたいな顔立ちって確かに老けて見えるけど、いざ老けたら今度は若く見える。それってすごいアドバンテージだと思わない? つまり三十五過ぎたらうちらの時代」

 

 食べていたうどんの、最後の一口を吹き出してしまった。

「どうしたのみすずっち、大丈夫?」

「大丈夫です。すみません」

 トイレに行ってきます、と席を立った。

悲しいかな、何千人と働いているこのフロアで、女が話をできる人は茉莉しかいない。

たった一人でもそういう人物がいることにいくらか救われたことも、ないと言えば噓になる。

しかし、だからと言って気が合う人とも限らないのだ。


確かに年齢は一歳しか違わないし、どちらも岩の裏に這いつくばるナメクジのような存在であることは認めるが、正直、茉莉と同種類の人間とされていることに不満を感じるし、大体「三十五過ぎたらうちらの時代」という言葉。寒気がする。

やっと到来だよ、とでも言いたげな口ぶりに戦慄した。

到来も何も、四十になろうが八十過ぎようがそんな時代は来ないという事実にまだ気づいていない稚拙さが、心底気持ち悪かった。



 チャイムの音にはっとして顔を上げる。

炭水化物を摂ると眠くなってしまうが、かといって食べなければお腹が空く。

だから妥協案としてまだ眠気がそれほど来ないうどんを食べたと言うのに、気付けばまた三時まで眠っていた。

なにか夢を見ていた気がして、しかし何か思い出せず、ぐるりとあたりを見回す。

目の前には真っ黒のパソコンの画面。

せわしなく動くスーツの人影、はきはきと受け答えする甲高い声。


ブーン、と何かが擦れるような低い音が聞こえる。

耳の中からではない。けれど外からでもない。

これは、と思った。

どうやら交信が来たらしい。

慌ててスマートフォンを覗きこむ。

地震も来ていないし、どこかの地域で災害も起きていない。

各国の要人が暗殺されたというニュースも今のところは来ておらず、女はひとしきりネットの世界をめぐってスマホを閉じた。


「吉岡さん、これ」

 と背後から声がして、飛び上がって後ろを振り返ると、名前も分からぬ同僚が目を開いて女を見ている。

「あは、す、すみません。なんでしょうか」

 声が裏返ってしまったことでだんだんと目を合わせることもできなくなり、耳から頬にかけて焼けるようにチリチリとした感覚が張りつく。

何のことはない、いつものように誰にでもできる仕事を頼まれただけだった。

同僚は少し驚いた様子を見せたが用件だけを言うとさっさと行ってしまった。

両掌で頬を挟む。

顔が燃えそうに熱い。


そそくさと席を立ち、できるだけ身をかがめてトイレに向かう。

こんなに過剰に身を隠すようなことをしなくたって誰も自分など見ていないと分かっているが、長年沁みついた所作の癖はそうそう治るものでもない。

ああ、顔が熱くてこんなに心臓が痛いのに、それでも眠気が治まらないのはなぜだろう。

しまいには頭まで痛くなってきた。


五時の五分前にはコーヒーを飲んでいたカップを給湯室で洗う。

トイレで用を足し、パソコンの電源を切ると丁度定時のチャイムが鳴る。

くたびれた皮のバッグを肩にかけ、なるべく音を立てずに部屋を出る。

自分の背中が丸まっているのが分かる。

いつものようにほぼ寝ていただけだったが、職場を出ればいくらか気が楽になる。

入館証をかざし、部屋を出ようとしたその時だった。

「ちょっとあんた」

アクの強いダミ声に引き止められた。

「なんやもう帰るんか。さっき頼んだ見積もり至急や言うたはずやけど」


 根本と言う関西の支店からやってきた新しい部長だった。

先月やってきたばかりでまだ自分の部署の顔と名前が覚えられないのだろう。

女は見積もりの作成を頼まれた記憶がない。

そもそも見積書の作り方も知らない。

「いや、あの、頼まれていませんが」

 いやしかし、いつも半分眠っている状態の自分だ。

もしかしたらどこかのタイミングで本当に頼まれたのに、覚えていないだけかもしれない。もしそうだったら……。

耳のあたりがじんわりと熱くなって、急激に喉が渇いてくる。


「ああ、なんて? 声が小さいねんけど」

「見積もりって」

「だから至急やって言うたやつ。まさか別の人にかつける気か。そうやって仕事が二転三転すんの俺いややねん。誰に頼んだんや」

 いや、だから、と繰り返しながら、全身の血の気が引いていくのを感じた。

口の中が渇いて、指先が勝手に震えだす。女は無意識に何度も唇を噛んだ。

この男、たしか年度初めの挨拶で兵庫だったか三重生まれだと言っていた。

いや、たしか愛媛だったかもしれない。


あまりよく覚えていないが、とにかくこのやたらよく通る低いダミ声が、相手を威嚇するような口調が、女をこれでもかと萎縮させた。

こうやって一方的に攻撃されると、否が応でも過去の感情や情景が蘇ってきてしまう。


「あ、あの、だから……」

 社内の何人かの視線が自分に注がれていることが耐えられず、反論したくてもあう、あうとしか声が出ない。

本当に、なぜ大人になってまでこんな経験をしなくてはいけないのだろう。

「部長、それ頼まれたの僕ですよ」

 背後で軟派な声がした。

見ると、まだスーツ姿があどけない、入社二年目の男性社員が口角をふにゃりと曲げて立っている。


「あれ、そうやったかぁ?」

「そうですよ。いくらまだ人が分からないからって女の人と間違えるって。しかも派遣さんですよぉ」

 新人が鼻から抜けたような笑い声をあげると、部長は腹の底からせりあがるように声を張り上げて大笑いした。

「そりゃそうやな。すまんすまん。あんたもな、違うなら違うって言うてくれんと。名前なんやったっけ」

 

 そうやってダミ声が女を捕らえた時には、女は早足で部長の前を横切った。

焼けるように熱い耳には何も聞こえない。

耳が溶けてなくなっているような感覚だった。

加えて身体中が痛い。


たったあれしきのことでこんなにも萎縮して狼狽えてしまう、自分が情けなくて、熱くなる瞼を乱暴にこすった。

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